28歳で大企業を辞めた久保田さんが、熊本にある創業95年の旅館オーナーになった理由。
自然の豊かな熊本県水俣市。その山中に、約700年の歴史を持つ「湯の鶴温泉街」があります。明治時代には、近隣の天草や八代からも多くの人が湯治に訪れた人気の温泉地でした。
しかし、今では旅館や商店の数が最盛期と比べて24軒から8軒まで減少。大正8(1919)年に創業された「永野温泉旅館」も、経営者の高齢化により15年ほど営業を停止していました。
こうした後継者問題に悩む温泉旅館と、温泉旅館を経営したい事業者を結ぼうと、水俣市はマッチングツアーを実施。そこに手を挙げ、「永野温泉旅館」の事業を受け継いだのが、熊本市内に住む久保田裕貴さん(28歳)です。
「前職はハウスメーカー勤務。至って普通の会社員でした」と自身を語る久保田さん。なぜ温泉宿を継ぐことを決めたのか、将来のビジョンは、など、老舗旅館の再建に奮闘する若きオーナーに伺いました。
大企業を辞めて、28歳で旅館の主人に
――「湯の鶴温泉街」や旅館「永野温泉」ってどんなところなんですか?
水俣の街中から9kmほど南東にいった山中にある、川沿いに温泉旅館と共同湯が並ぶ温泉地です。平家の落人が、怪我をしたツルが湯に入るのをみて存在を知ったから「湯の鶴」だそうです。
この温泉街では、宿ごとに自家泉源を有し、それぞれ異なるお湯を楽しめるのも良いところ。ぼくが継いだ「永野温泉」という旅館は、源泉かけ流しのアルカリ性単純温泉、いわゆる“美肌の湯”が自慢です。
町自体にも古き良き日本の建築が残り、温泉街から車で20分の距離にきれいな海もあって、おいしい海鮮が獲れるんですよ。
――かねてからこの温泉街をご存じだったんですか?
いいえ、ぼくは熊本に住んでいるのですが、これまで訪れたことはなく、たまたま知人から「とても湯質のいいところがある」と聞いて、観光で足を運んだのが最初でした。
聞いた通り、温泉の湯はすばらしいもので、山と海が近くて観光資源も豊か。町の雰囲気、住んでいる人のお人柄、今に残る建築の佇まい……どれもすぐに気に入りました。だからこそ、シャッター街になっているのが寂しかった。
――それで水俣市の事業継承マッチングツアーに参加を?
ええ。何か温泉街の力になれることはないかと考えている時に、たまたまマッチングツアーの情報を見かけたんです。永野温泉代表の永野豊照さんは高齢のため営業を続けることが難しく、身近に事業を継げる方もいないため、マッチングツアーを通して後継者を探していらっしゃいました。
ぼく自身、ちょうど去年の6月に、5年ほど勤めた会社を辞め、キャリアを見つめ直していたころだったんですよ。すでに申し込み期限は過ぎていましたが、ダメ元で電話してみると運よく取りついでもらえました。
もちろんマッチングツアーの参加者優先だったのですが、旅館の建物の老朽化が懸念となって皆さん手を引いたようです。代表の永野さんに「ぜひ一度お会いしてみたい」と言っていただき、継ぐ話がまとまったんです。
大手ハウスメーカーを辞めた理由
――久保田さんのこれまでのご経歴は?
大学は経済学部で、経営について学び、『プロフェッショナル 仕事の流儀』(NHK)などを見ては、人が仕事に打ちこむ姿に憧れ、自分だったらどうするかを想像しているような学生でした。
卒業後は、ハウスメーカーの営業職に就きました。住宅って、人生の中でも大きな買い物だから、やりがいがあると考えました。具体的には、打ち合わせから家を建て終わるまで、お客さまに寄り添って各所と調整するという仕事です。
少しずつ家が建っていく喜びをお客さまと一緒にわかちあえるのはとても楽しかった。でも、そろそろ30歳が見えてきたころ、このままでいいのかな、と不安になってきて……。
――会社でずっとはたらき続けることに不安を感じたんですか?
そう。このまま結婚して、家族ができて、自分も家を建てて……。それもきっと一つの幸せの形です。でも、昇進や昇給にもそれほど興味がなかったし、定年までの道筋が見えてしまった気がして。
今後、自分でビジネスがしたいと思った時に、家族がいることを言い訳にして、踏み出せない自分になってしまうのも怖かった。だったら、今飛び出した方がきっと後悔しないはず。組織に属しているからできることもあれば、自由な身だからこそできることだってきっとある。
会社員に戻ろうと思ったらまた戻ればいい、きっと戻れる、という謎の自信とともに、自分の好きなことをしようと決めました。
――今だ、と思ったんですね。会社を辞めた後はどう過ごしていたんですか?
今後のはたらき方について、いろんなことを考えました。カメラ、キャンプ、旅行が趣味なんです。だから、カメラ関係の仕事をしようかな、とも。
学生時代は、音楽と服、コーヒーに夢中でした。自然に囲まれた場所で音楽を聴いたり、お酒やコーヒーを飲んでくつろいだり、一緒に話せる仲間がいたりすれば、もうそれだけで楽しい。水俣にも、そんな遊びができる場所をつくりたいと思ったんです。
そこからコーヒーショップを考えたりもして、やがて温泉宿、地域おこしへの興味を持ちはじめました。それで、マッチングツアーの募集を見つけて、今に至るんです。
老朽化した建築の改修で大忙し!
――温泉宿の経営をはじめてみて、どんなところに面白さを感じますか?
今は、とにかく悩みが尽きないこと……!もう考えなきゃいけないことが多すぎて、ぜんぜん退屈しません。どうやって営業を再開しようか。たくさんの人を集めるにはどうすればいいだろうか。毎日そんなことを考えています。
めまぐるしいけど、すごく楽しいんですよ。もちろん、それはボランティアの方やクラウドファンディングでサポートしてくれる人たちの協力があってのこと。とても感謝しています。
――今はどんなことに取り掛かっているんでしょう?
館内の雨漏りがすごいから、一刻も早く修繕しようと動いているところですね。大正時代の建物なので、老朽化が激しいんです。
すべてきれいに修繕するには6000万円ほどの大掛かりな改修工事が必要で……。クラウドファンディングで資金を集めたり、事業計画を練ったり、ボランティアで来てくれた人たちと一緒に館内の掃除や片付けをしたりする日々です。
温泉の無料開放が呼んだ新しい出会い
――最近、うれしかったことはありますか?
今年の4月に、10日間ほど温泉の無料開放を実施したんです。80人ほどの人が入りにきてくれて、地元の人から「昔はよく遊びにきていたんです」なんて声も聞けました。さすがは歴史のある温泉宿、ずっと愛されてきたんだ、と実感できたのも大きな収穫でしたね。
さらに、この無料開放をきっかけに、熊本市内の建材屋さんが「余った資材を無料で提供するから使ってください」とお声がけくださったんです。その流れで、余っているレトロなタイルも提供いただいたり、無料期間中に植物販売のポップアップストアを出してくれる人が現れたり。それを目当てに来てくださる人も出てきて、いろんな出会いに恵まれました!
――久保田さんが、はたらく上で大切にしていることは?
やっぱり、“人とのつながり”だと思います。ハウスメーカー時代も、家を1軒建てるとき、営業に設計士さん、大工さんなど、たくさんの人がチームになって役目をまっとうし、すばらしい家が建つ様子を見てきました。
一人ではできない規模のことも、力を合わせれば成し遂げられます。周りに感謝の気持ちを忘れずに、みんなとともに歩もうと心に決めています。
湯の鶴温泉街を新カルチャーの発信地に
――最後に、「永野温泉旅館」で叶えたい未来について教えてください。
今秋には、日帰り温泉だけでもオープンできるように計画しています。大正時代の建築を生かしながら、1階を温泉とカフェスペースに、 2階を宿泊スペースにしたいな、と。水俣では、バラが咲く季節になるとローズフェスタが開催されて、6万人くらいの来場がありますが、多くの方が足を運んでくれる機会といえばそれくらい。だから、宿の経営が軌道に乗ったら、湯の鶴温泉街の自然やロケーションを活かして、いろんなイベントができたらいいなと思います。
たとえば、キャンプ場やサウナはもちろん、音楽ライブ、焚火イベント、地酒祭り、マルシェなど。若い人に楽しんでもらえるような仕掛けをたくさんつくって、水俣に新たなカルチャーを生み出すのが、ぼくの夢。今は人口減少が進んでいるけれど、ありし日の温泉街の活気を取り戻せるように、地元の皆さんと一歩ずつ進んでいきます。