変わるまち・戸塚【2】 愛されていた大踏切
戸塚区のシンボル的存在だった「大踏切」の閉鎖から、今年で10年。まちに大きな変化をもたらしたこの出来事を起点に、変わっていった戸塚駅周辺の姿と、変わらない人々の想いに迫ります。
「迷惑だったけど、やっぱりみんな愛着があったんだよな」――。
戸塚駅東側の商店などからなる「とつか宿駅前商店会」の伴博之会長は、微笑みながらそう振り返った。踏切が稼働していたころは、商店会前の旧東海道に車や人の行き来があり、その分活気もあったという。
一方で、戸塚駅の東西は踏切によって分断されており、「西側はまるで知らない町みたいだった」と振り返る。閉鎖より少し前の2014年1月18日に「戸塚大踏切デッキ」がかかると、まさに東西の架橋のような存在に。互いの様子がだんだんとわかるようになっていったという。
後世に伝え、新たに築く
閉鎖当日の2015年3月25日、地元住民に愛された踏切をテーマに「戸塚踏切新聞」が発行された。踏切に関する歴史や思い出のほか、新たな戸塚のまちに思い描く展望がつづられている。
東側にある善了寺の成田智信住職は、同紙制作委員会の委員長を務めた。記録・記憶を残す目的のほかに、「これからの戸塚に引き継がれるものを作りたかった」と制作意図を語った。
実際に踏切閉鎖を含む戸塚駅周辺の開発事業はまちづくりの機運を高め、時には地元住民らが寺に集まり熱く議論を交わしたという。しかし利便性重視の時代の流れやコロナ禍を経て、当初の想像とは異なる変化もあった。
成田住職は「まちや道はもっと自由でいい。いろんな人の知識や技術がつながって発展する。そんな場所であってほしい」と願いを込めた。
【3】につづく