村上春樹のデビュー作「風の歌を聴け」小林薫の主演で映画化されてるのは知ってた?
連載【ディスカバー日本映画・昭和の隠れた名作を再発見】vol.8 -「風の歌を聴け」
ひっそり、こっそり映画化された「風の歌を聴け」
『風の歌を聴け』って映画、知ってる?―― ほとんどの方は、村上春樹の小説は知っていても、映画は知らないのでは? 実はこの小説、1981年にひっそり、こっそり映画化されている。有名でないのは無理もない。この時点で村上春樹は処女作の『風の歌を聴け』と続く『1973年のピンボール』を発表したばかりの俊英作家で、ベストセラーを連発するのはもう少し先のこと。そして、その映画自体、低予算で製作された、いわばインディーズ作品だったから。
筆者はこの頃、秋田の田舎町在住の中学生だったが、映画が大好きだったこともあり、映画雑誌でこの映画の存在を知り、気を引かれた。監督は前年に『ヒポクラテスたち』を発表して注目された、こちらも俊英の大森一樹。主演は小林薫、真行寺君枝。そして、音楽も大好きだった筆者のアンテナに引っかかったのが、テクノバンド、ヒカシューの巻上公一が役者として出演していたことだ。これは観たい!
しかし、当時は地域による映画鑑賞環境の格差は確実に存在していた。東京では当たり前のように封切り日に観ることができても、秋田の映画館でインディーズ作品が劇場公開されるのは稀だった。松竹・東宝・東映といったメジャー映画会社の作品とは状況が異なるのだ。数年後レンタルビデオの普及によって地域格差は狭まったが、この時点では映画館で観られないものはテレビ放映を待つしかなかった。
好奇心が刺激されるATGの映画
『風の歌を聴け』を製作したのは、ATG(=アート・シアター・ギルド)という、その名の通り商業主義とはかけ離れたアート映画を製作し、また海外のアート映画を配給していた映画会社。大島渚や吉田喜重、新藤兼人、鈴木清順などなどの日本映画の巨匠たちの名はATGの映画を特集した雑誌記事で知った。そんなアカデミックな好奇心の一方で、ATGの映画にはエロいものがけっこうあることも知る。若松孝二や実相寺昭雄という監督がATGで作った映画はエロいらしい。中坊ならではの好奇心が刺激される。
ともかく、商業主義的ではない映画ばかりだから、ATG作品を地元の映画館で観ることは滅多にない。東京で予想外にヒットした映画―― 『もう頬杖はつかない』『Keiko』『転校生』は観ることができたが、『風の歌を聴け』をリアルタイムで観ることはかなわなかった。東京でこの映画が封切られた日、地元の映画館で公開されたのは東映配給の『セーラー服と機関銃』。いや、それでさえ田舎者としては有難かった。
原作は前向きでいて、どこかダークな死生観
しかし、やっぱり『風の歌を聴け』は観たい。映画に出ている巻上公一を観たい! せめて、その一端でも味わえないだろうか? というわけで、書店で村上春樹の原作を購入する。原作小説やノベライズ本が出ている映画は田舎者には有難い。地元の映画館でかからなくても、書店では手に入るから。そんなこんなで、読んでみたのだが、中学生には簡単には理解できない小説だった。そもそも、ストーリーらしいストーリーがない。東京の大学生である主人公の “僕” が帰省する → “ジェイ” のバーで “鼠” という友人とともに過ごす → “小指のない女の子” と仲良くなる → 東京に戻る… ストーリーだけを追えば、それだけのこと。初めて読んだときは、ずいぶんと “薄い” 話だと思った。
またまた、しかし、だ。映画の配役を頭に入れておけば、場面は想像しやすい。そもそも “僕” = 小林薫、“小指のない女の子” = 真行寺君枝、“鼠” = 巻上公一、“ジェイ” = 坂田明という配役が頭に入っている。“ビールの良いところはね、全部小便になって出ちまうことだね” という鼠のセリフも、巻上の声で聞こえてくる。そんなふうにして何度か読み返していたら、“僕は・この小説が・好きだ" という具合になっていた。前向きでいて、どこかダークな死生観。自分に哲学というものがあるとすれば、この小説から得たものは大きいような気がする。
原作の空気感をうまくとらえていた小林薫と巻上公一のやりとり
前置きがとてつもなく長くなったが、映画『風の歌を聴け』を実際に観たのは、大学に進学して上京してから。映画は概ね、原作の空気感をうまくとらえていた。小林薫と巻上公一のやりとりも、ほぼ自分が想像したとおりだった。原作の “僕” と “鼠” の会話が個人的に大好きで、もっとも読んでいて緊張した “嘘だと言ってくれないか?” のくだりがなかったのは少々残念ではあったが、代わりに “僕” の高校の同級生であるビーチ・ボーイズのアルバムを貸してくれた女の子の話をはじめ、小説を読んだときにはわからなかったことへの映画ならではの解釈も加えられていた。言うまでもなく、小説と映画は別物だ。それでよし。大学生となった自分には、それが当たり前のように受け止められた。
映画を観てもっとも驚いたこと、つまり小説を読んでいる段階で想像できなかったのは、舞台となる街の風景だ。バーがあり、港があり、レコード屋がある。当時の自分は横浜のような、なんとなくお洒落な街を想像していたが、映画は違っていた。ロケが行なわれたのは兵庫県の神戸市と芦屋市。いまだに行ったことはないが、イメージ的には都会であり、お洒落な感じがする。
しかし、劇中の場面として切り取られた風景は勝手が違っていた。“ジェイ” のバーはそんなに綺麗ではないし、“小指のない女の子” のアパートも少々古臭い。“鼠” が棲んでいるのは廃墟と化したビルの上階だ。波止場の風景はどこか物悲しい。そして、外の風景はつねに曇天。乱暴な言い方になるが、そこには死臭のようなものが漂っていた。設定は真夏なのに、空気はなんだかヒンヤリしている。前向きでいて、どこかダークな死生観を、このような映像で表現するとは。それこそが、この映画の凄みではないだろうか。
映画のテーマ曲は「カリフォルニア・ガールズ」
最後に音楽についても触れておこう。原作の “鼠” は小説を書いているが、映画版の “鼠” は映画を撮っている。その映像の劇伴としてヒカシューの音楽が使われているのは、ちょっと得をした気分だった。そして映画のテーマ曲として使用されているビーチ・ボーイズの「カリフォルニア・ガールズ」。小説でも非常に大きな存在となるナンバーだ。映画の風景こそ曇天だが、この曲の響きだけが唯一、晴天を感じさせる。
振り返ると、『風の歌を聴け』の “僕” は十代の自分にとっては、憧れのお兄さんのような存在だったのかもしれない。人生を達観していて、会話をすればユーモアとウィットに富んだ返事が聴ける。冷蔵庫しかないような、シンプルな部屋に住んでいる。当時の自分は、これを真似したいと思ったが、オタクな性分の人間が冷蔵庫しかない部屋で生きられるわけがない。今、自分の部屋を見回すと目につくのは、本とレコードの山。多少は人生を達観できるようになったが、それが正しいかは自信がない。唯一 “僕” との共通点があるとすれば、夜中の3時に冷蔵庫の中を漁りながら、この原稿を書いていることくらいだろう。