日本のギャル文化考察【1990年代後半】世紀末の渋谷から生まれたギャルの本質とは?
連載 日本のギャル文化考察 ⑤【1990年代後半】世紀末の渋谷から生まれたギャルの本質とは?
橋本環奈が主演するNHK連続テレビ小説『おむすび』で描かれた “ギャル文化” は、主に1990年代後半から2000年代初頭に渋谷を発信源として広まったものである。しかし、ギャルという言葉自体はそれ以前から日本で使用されており、そのニュアンスやイメージは時代や状況に応じて変容してきた。ギャル文化の変遷を全5回で掘り下げた本連載もいよいよ最終回。1990年代後半の5年間+αを取り上げたい。ようやく『おむすび』に登場するギャルの世界に到達する。
コギャルが卒業後に起こった新しい波
1970年代後期に広まった “ギャル" という言葉のニュアンスは、何度かの変化を経て、1990年代前期には主に以下の3つに集約されていた。
▶︎ 性的な視点で商品化・消費された若い女性
男性向けメディアでの “セクシーギャル”、または主に男性同士の会話における “この店はギャルが多い” といった表現で使われるケース。
▶︎ 奔放に遊んでいる若い女性
バブル期にディスコで踊っていた “ボディコンギャル” に象徴される。
▶︎ 群像としての若い女性
“おやじギャル” のように、特定の属性や趣味を持つ若い女性たちを一括りに表す表現。
そして、連載第4回日本のギャル文化考察【1990年代前半】安室奈美恵のブレイクに先駆けたコギャルの台頭で触れたように、90年代前半、“コギャル” の台頭により、ギャル文化の中心はより若い年齢層へと移行していった。当初、コギャルとは、遊び慣れた女子高校生を指し、“奔放に遊ぶ若い女性” のニュアンスが強かった。しかし、次第にルーズソックスを履く女子高生全体がコギャルと呼ばれるようになり、“群像としての若い女性” に変化していった。
コギャル文化の特徴は、ジャンルや起源にとらわれず、気に入ったものを取り入れ、自由にカスタマイズする自主性にあった。そこからポケットベルやルーズソックスといった流行が生まれ、消費社会にも大きな影響を与えた。そして90年代後半、コギャル文化はさらに勢いを増していった。 一方、かつてルーズソックスを履いていた女子高生たちは大人へと成長し、制服や校則から解放されることで、新たなカルチャーを生み出すことになる。やがて、その姿は何も冠せず、ただ単に “ギャル" とだけ呼ばれるようになっていく。今回取り上げる期間は、あまりに情報量が多すぎるため、これまでの連載と異なり、時系列に検証するスタイルをとりたい。
【1995年】安室奈美恵、プリクラ、「egg」の衝撃
1995年、安室奈美恵のブレイクがギャル文化に大きな影響を与えた。安室奈美恵 with SUPER MONKEY'S名義でリリースした「TRY ME 〜私を信じて〜」がヒット。ソロ名義での2枚のシングルをはさみ、10月以降は小室哲哉プロデュースによる「Body Feels EXIT」「Chase the Chance」の連続大ヒットでカリスマ的存在となると共に、コギャル層の憧れの対象となった。なお、小室哲哉は同年9月に、安室奈美恵とはキャラやファション性の異なる華原朋美を送り出しており、マーケット総取りの様相だった。
この年、『プリント倶楽部』、いわゆる “プリクラ” がゲームセンターに登場したことも大きな出来事だった。それまで女子高生たちの間では、『写ルンです』などのレンズ付きフィルムで撮影した写真を交換することが重要なコミュニケーション手段だった。しかし、そうした写真はコストがかかり、スピード感にも欠けていた。一方、プリクラは安価で手軽、さらに、シール状の写真をその場で交換できる点が大きな魅力となったのである。
5月に高校生向けファッション誌『東京ストリートニュース!』(学研パブリッシング)が登場し、年末には渋谷ストリートカルチャーを凝縮したような『egg』(ミリオン出版)が創刊される(定期誌化は1997年)。ストリートスナップやプリクラが多数掲載される読者参加型雑誌として人気を博した『egg』からは、両手または片手を広げて前方へ差し出す “エッグポーズ" が生まれていった。
【1996年】アムラーブームとポケベル黄金時代
前年にブレイクした安室奈美恵のファッションを模倣する “アムラー" が社会現象となった。アムラーという言葉は、コギャル文化をリードしていた雑誌『プチセブン』(小学館)から生まれた。アムラーの特徴は細眉、シャギーの入ったロングヘア、光沢素材の服、ミニスカート、生足、厚底ブーツといったスタイルで、コギャル層の私服としても広がった。同年3月には “女子高生みんなで作る雑誌。”をコンセプトにした『Cawaii! 』(主婦の友社)が創刊され、一般の女子高生を読者モデルとして起用するスタイルが大ヒットする。
コギャル文化の勢いに乗り、前年よりポケットベルの契約数はピークに達し、東京テレメッセージやNTTドコモなどを合わせた契約数は1,000万台を突破していた。一方、携帯電話より安価なPHSも普及し始め、DDIポケットのCMでは華原朋美が “朋ちゃんとつながろ” と呼びかけた。
渋谷ではコギャルを卒業した女性たちも存在感を増していく。CECIL McBEEやLOVE BOATといったのちにギャルファッション文化を牽引するブランドが誕生したのも1996年である。今となっては、こうした109系ブランドで着飾った “ギャル” という存在が先にあり、その高校生版が “コギャル” だという勘違いが生まれがちだが、実際は逆である。コギャル文化こそが後のギャル文化の基盤だったのだ。
また当時、女子高生の援助交際が社会問題化し、7月にはテレビ朝日系『朝まで生テレビ!』で「激論!日本異常事態宣言・若者編 女子高生とニッポン!」が放送された。世相を反映して「新語・流行語大賞」では “援助交際” “ルーズソックス” “チョベリバ&チョベリグ” “アムラー” がトップ10に入賞。“チョベリバ&チョベリグ” は、コギャルたちのスラングだった。さらに、宝島社からはコギャル現象の総括的な書籍『超コギャル読本』が出版された。当時の女子高生たちは、まさに世の中の中心にいたのである。
【1997年】広末が “渋谷はちょっと苦手” な理由
1997年4月、広末涼子が竹内まりやプロデュースで歌手デビューを果たす。モータウン調のデビュー曲「MajiでKoiする5秒前」は、コギャル用語 “MK5” (マジでキレる5秒前)にかけたタイトルで、歌詞には「♪ふたりで写すプリクラは 何よりの宝物」と時代性を反映させている。しかし、「♪渋谷はちょっと苦手」というフレーズが序盤に織り込まれ、広末涼子はコギャルとは一線を画す清楚なキャラクターであることが打ち出された。この戦略の背景には、コギャル文化と援助交際問題があったかもしれない。10月公開の映画『バウンス ko GALS』では、援助交際のリアルな現実と共に、ルーズソックスや茶髪、ネイルアートに象徴されるコギャルの姿が描かれている
この前後から “マルキュー” こと『SHIBUYA109』が、80年代の原宿竹下通りのような流行発信地かつ情報交換のハブ的存在となっていた。同ビルで扱われる「ALBA ROSA」「CECIL McBEE」「LOVE BOAT」などのブランドが人気を集め、渋谷はますますギャル文化の総本山として存在を大きくする。そこに集まる女性の多くは、茶髪や金髪に明るくカラーリングされた髪色、派手なアイメイク、日焼けした肌、ミニスカートや厚底ブーツなど、肌の露出と独自のスタイルが特徴的だった。ここで、今日に至るまで “ギャル" と呼ばれるファッションとライフスタイルが確立されたのである。
同じ時期、雑誌『egg』などに登場したギャルたちの活躍も目立ち始める。11月には人気読者モデルCHIKAを中心にユニットdeepsが結成され、シングル「Love is Real」でデビュー。結成メンバーに高校生がひとりもいないことは、 “ギャル” と “コギャル" のボーダーレス化を示していた。
【1998年】“エヴァ” の監督もコギャルを題材にする
1月には庵野秀明監督の映画『ラブ&ポップ』が公開される。『新世紀エヴァンゲリオン』のヒットメーカーが初めて挑んだ実写映画は、 “渋谷を舞台にした女子高生の援助交際” がテーマだった。
一方、trf(現:TRF)のSAMとの結婚・妊娠で活動を休止した安室奈美恵と入れ替わるように、4月には浜崎あゆみが「poker face」でデビュー。浜崎あゆみは日焼けした肌でギャル文化を象徴したアムラーとは異なり、白っぽいメイクを取り入れ “白ギャル" という新たなギャル像を生み出した。
1998年には、携帯電話とPHSの加入者数が5,000万人を突破。携帯電話では前年よりショートメールの送受信が可能になったことで、新しいコミュニケーションスタイルがギャル文化にも広まった。また、キャミソール、アニマル柄などが流行し、「ROXY」「COCOLULU」などの参入もあり、“109系ブランド” は絶頂期を迎える。特に、顧客との親しげな会話を通して商品を売る販売員の中から “カリスマ店員” が登場し、ギャルのファッションアイコンとして注目を浴びた。
【1999年】ポケベル時代の終焉と “ギャル系” という新たな概念
1999年1月、椎名林檎がリリースしたシングル「ここでキスして。」には、「♪違う制服の女子高生を 眼で追っているの 知ってるのよ」という歌詞がある。依然として女子高生文化が時代の象徴であり続けていたことが伺える。
前述した1997年の映画『バウンス ko GALS』ではすでに過剰に日焼けしたコギャルが描かれていたが、1999年頃からはガングロがブームとなり、そこからさらに “ヤマンバ” という新しいスタイルが派生する。『egg』に掲載される写真のガングロ率が高くなった。しかし、時代の移り変わりは速く、PHSや携帯電話の普及により、ポケベルは急速に衰退。東京テレメッセージ株式会社(初代)が会社更生法の適用を申請したのは5月のことだ。
ミレニアム直前、ギャルはアイコン化した。 “ギャル系” “ギャルっぽい” といった表現が広く一般に定着したのも、この時期だろう。こうして認知されたギャル文化の本質は “自由な精神性” にあると考えられる。ストリート系やサーフ系、モード系といった異なるスタイルをミックスし、ハイブランドのバッグから100円ショップの小物まで柔軟に取り入れる姿勢が独自性を際立たせた。渋谷では、カジュアルなシャカパンと、シックなパンツスーツが共存していた。“ヤマンバ” と、2000年代に登場する “白ギャル” が “ギャル” として一括りにされるのは “自分らしく生きる" ことを何よりも優先する価値観が共通しているからだろう。『おむすび』で描かれたギャル像もそれだ。
【2000年〜】コギャルとギャルのボーダーの消滅
20世紀最後の年、前年リリースの「LOVEマシーン」のメガヒットでモーニング娘。は国民的アイドルとして不動の地位を確立した。その顔となった後藤真希は、当時14歳ながら金髪で注目を集めたが “コギャル" の文脈では語られなかった。コギャルとギャルのボーダーは曖昧になり、前者は次第に死語に近づいていった。
同年、モーニング娘。の妹分としてデビューしたメロン記念日の「告白記念日」という曲の歌詞には「♪あいつの好み どんな娘かしら ギャル系とかかしら」とある。これは当時のギャルという言葉が、新しい意味で浸透していたことを示している。
『Cawaii!』のお姉さん版『S Cawaii!』(主婦の友社)が創刊されたのは9月。これはギャルの年齢層拡大を象徴している。また11月、J-PHONEから初のカメラ付き携帯電話『J-SH04』が発売され、「写メール」という新文化が誕生。これにより、『写ルンです』は遠い過去のものとなった。 12月に「TAKE BACK」という曲でデビューした倖田來未は、のちに “エロカワ” 路線で特定のギャル層に支持されるようになる。
21世紀に突入すると、ギャル文化は細分化され、規模は小さくなりつつも、様々な流行が生まれ続けた。拠点を原宿へ移すギャルも現れ、さらに時代を経てギャルのリバイバル現象も起こっている。Wikipediaの英語版では “Gyaru" が “Japanese fashion subculture for women” と表記され、ギャルが日本発の独自のファッション・サブカルチャーであることが強調されている。
今なお使われ続けている “ギャル” という言葉
“ギャル” という言葉が日本で使われるようになってから、50年近くが経った。現在も “性的な視点で商品化・消費された若い女性” というニュアンスは “巨乳ギャル” のような表現に残っている。一方、“群像としての若い女性” は “女子” という言葉に置き換わった。例えば、キャンプが好きな女性は “キャンプギャル” ではなく “キャンプ女子” と呼ばれる。
そして何より、 “奔放に遊ぶ若い女性” というニュアンスを持ちながらも、渋谷をベースに全国各地に広まり、自由で派手なファッションと制約に縛られないライフスタイルを楽しむ女性たちを象徴する言葉として、今なお使われ続けている。