【阪神淡路大震災から30年】ネット普及以前、それが地震だと伝えてくれたのは…?ニュースセンター専任部長の体験談から。
静岡トピックスを勉強する時間「3時のドリル」。今回のテーマは「阪神淡路大震災から30年」。先生役は静岡新聞の市川雄一ニュースセンター専任部長です。(SBSラジオ・ゴゴボラケのコーナー「3時のドリル」 2025年1月20日放送)
(山田)今年は阪神淡路大震災から30年ということですね。僕は当時、小3でした。
(市川)僕は大学1年生だったんですが、ちょうど震災が起きた時、神戸に住んでいました。
(山田)そうですか。
(市川)もう30年も経ったのかと思うほど、昨日のことのように覚えています。今回、30年という節目に合わせ、各新聞社が阪神大震災の特集記事を掲載していました。震災をきっかけに人生が一変した人たちの、その後30年を振り返るような記事が多く見られました。自分もあの震災で人生が大きく動き出したような気がしています。
(山田)当時のことをちょっと話してもらえますか。
(市川)発生は1995年の1月17日火曜の未明でした。午前5時46分だったので、当然、寝ている時間ですよね。僕は神戸市中央区の新神戸駅の近くの11階建てのマンションの、6畳のワンルームに住んでいました。部屋は4階だったと思います。
寝ていたら5時46分にゴゴゴッーというとんでもない轟音とともに、1分間ほどだと思うんですが体が左右に引きちぎられるような揺れを感じました。揺れが収まった後も、しばらくゴコゴゴッーっていうような轟音が響いていたのを記憶しています。
(山田)音なんですね。
(市川)不気味な音がしましたね。静岡は1976年に石橋克彦さんという方が東海地震説を発表してから、防災訓練にすごく熱心な土地柄とされていて、地震に比較的慣れている県民性だと言われることもありますが、静岡市出身の僕からしても想像の遥か上をいく揺れでした。冗談ではなく、ゴジラがマンションを揺らしているようなイメージでした。
当時は携帯電話もポケベルもない時代だったので、連絡手段は固定電話だけでした。当然、地震直後は電気ガス水道が遮断され、当時の電話は電気がないと使えなかったため固定電話も使えず、しばらく家族と連絡を取ることもできない状況でした。
5時46分って、真冬だったので真っ暗なんですよ。テレビもつかず、何が起きているのか分からず不気味だったので、夜が明けるまでマンションの外に出てたんですよね。同様に外に出たマンションの住民が大勢集まっていたところに、近くに駐車場を借りている方が車を持ってきてくれて、カーラジオをつけてみんなに聞かせてくれたんですよ。
(山田)そうですか。
(市川)そのカーラジオで初めて、神戸、正確に言うと淡路島を震源とする震度7の地震が起きたことを知りました。「やっぱり地震だったんだ」と。しかも、「ここがまさに一番大きな震度を記録した震源だったんだ」と分かったんですよね。
(山田)へえー。
(橋本)夜明けを待ってからようやく部屋に戻ったんですが、後から振り返るとテレビでは高速道路が倒れたりビルが倒れたり、至るところで火災があったりしたのを報じていた状況だったので、家族はすごく心配したと思います。
どこかの住民の方が「うちの電話使えますよ」と言ってくださり、見ず知らずの人でしたがその人の家に図々しく上がりこみ電話を使わせてもらい、そこで家族に初めて電話ができたという記憶があります。なぜあの電話機は使えたのか、今となってはちょっと不思議な感じなんですけどね。
(山田)例えば避難所に行ったりとか、避難生活はしたんですか。
(市川)僕の場合、マンションは無事でした。ただ、水道とガスは1カ月ぐらい駄目でした。電気に関しては恵まれていて、その日の15時に復旧したんです。ガスと水道が全然駄目で、そこに難儀したのはすごく覚えています。
(山田)当時、特に印象的だった風景などはありますか?
(市川)新神戸は神戸の中心である三宮から徒歩15分ぐらいのところだったんですが、三宮の方に歩いて見に行ってみると、大きなビルが道路上に崩れているような状況で、「こんなにビルって普通に倒れてしまうんだ」と感じたことがすごく印象に残っています。
その後1年ぐらい、復興作業でビルを建て直さなくてはならないため、街がずっと粉まみれだったのを覚えています。今はアスベストの問題なんかも出ていますが、ほこりや塵まみれでしたね。
阪神大震災当時もインターネットによる発信があった
(市川)震災から30年ということで、朝日新聞がとても興味深い特集をやっていました。「ネットと災害30年史」というテーマで、「繋がる技術は命を救うか」という、いわゆるインターネットと災害に焦点を当てた特集でした。
その特集を見ると、阪神大震災当時のインターネット利用率が1.6%。ちなみに2011年の東日本大震災のときは79.05%でした。飛躍的に上がっていますね。昨年起きた能登半島地震の時点では86.2%ということでした。
(山田)全然環境が違いますね。
(市川)そうですね。去年の能登半島地震が86.2%と聞くと、むしろ14%使ってないのかと思うぐらい、もう身近なものになっている。でも、1995年当時はわずか1.6%の人しかインターネットを使っていなかったんですよね。
ただ、朝日新聞の記事によると、当時1.6%しか利用していなかったんですが、実はインターネットを使って、地震についての呼びかけが行われていたそうなんです。
(山田)呼びかけというのは。
(市川)災害情報の発信やボランティアの申し出、行方不明者の情報提供などをその1.6%の人たちがやっていたそうです。
(山田)やってたんだ。
(市川)僕も全然知らなかったんですが、その記事では「市民がインターネットで世界に発信した日本初の大災害だった」と総括していました。
当時はなかなか、インターネットを使う人がいませんでしたが、2011年の東日本大震災になると、インターネットが災害救助に結びつくような例も出てきました。ツイッター(現在のX)の発信を見た東京消防局の方たちがヘリを出して、保育園の屋上から人を救い出すというような、ツイッターが直接災害救助に繋がった例もあったりしたんですが…。
この頃から出てきているのが誤情報・偽情報問題です。2016年に発生した熊本地震での「ライオンが動物園から逃げた」というのが有名ですが、昨年の能登半島地震でも、SNSで救助を求める偽情報が出たんですよ。
(山田)それ、見ました。
(市川)その情報は嘘だったんですが、そうした情報の発信元の7割が外国語を使ってるSNSだったということもその記事には書いてありました。
SNSは今、広告の発達で、一般市民の方でも閲覧数を集めるとお金を稼げる仕組みになっているんですよ。アテンションエコノミーと言って、人の注目や関心が経済的価値を生むと言われています。
例えば外国の方が閲覧数を集められるっていうことで利用して、しかもそれがお金儲けになるからといって嘘の情報を流してしまうことがあるかもしれない。しかもその悪意が1%だったとしても、「ここに困ってる人がいる」って、善意の99%が嘘を拡散していくんですよね。「そうしたことが起き始めているのが今の現状だ」というような連載でした。考えさせられましたね。
(山田)30年前は誤情報ってのはなかったわけですよね。
(市川)30年前の当時から、インターネットで情報を投げることによって、行政が動いたみたい話があった。「これがどんどん浸透すれば災害救助にとってものすごい役に立つツールになるはずだ」という夢を当時の人は思い描いていたらしいんですね。
だけど今、その人たちにインタビューをしてみると、「偽情報や誤情報があって、こんなはずではなかった」とか、「せっかくのツールが今は無駄になっている」というような声が上がったことを取り上げていましたね。
「記念日報道」の意義とは
(市川)今回もう一つ触れておきたい論点があります。30年という節目で静岡新聞を含めて各報道機関が今回阪神淡路大震災の特集をやっていましたが、こういう報道のやり方は記念日報道とか節目報道と言われていて、「これってどうなの」と批判されることがあるんです。
「記念日だけではなく、常日頃から報道してほしい」というような批判ですね。実は僕も、こういう記念日報道というのはいかがなものかとコラムで書いたこともあるぐらい、ちょっと否定的な立場でした。
ただ、3、4年前に、おっと思うような出来事がありました。そのこともコラムに書いたことがあるんですが、そのとき引用したのがノーベル賞作家のカズオ・イシグロさんという著名な方が対談集で残した言葉です。ちょっと難しいんですが、「記憶とは、死に対する部分的な勝利なのです」という言葉です。
(山田)難しいな。
(市川)今回の報道でも、阪神大震災で家族を亡くした人というのは数多く登場していますが、その人たちの言葉に共通するのが「記憶の継承の大切さ」なんですよ。
人間ってやっぱり、死に勝つことはできないですよね。もう誰もが受け入れなきゃいけない。ただ、記憶というものがあると、それは死に対して部分的であっても勝利している。
この部分的な勝利という言い方がまた詩的なんですが、「記憶を継承することによって死という絶対的に勝てないものに対して部分的にであれ勝つことができるんだ。だから記憶の継承は大事なんだよ」ということを言っている言葉でした。
確かにそうだなと思いました。記憶を継承することの大切さという意味では、そういう記念日報道とか、節目報道っていうのは、ある程度必要なんじゃないかということを、僕もコラムに書きました。今回も30年ということで皆さんが報道を目にしたり、「30年経ったのか」と思ったりすることが大事なんですよね。
(山田)戦後80年もね。そしていろいろ、どんどん薄れていってしまうのかもしれませんけど。
(市川)そうなんですよね。30年というと、当時18歳から19歳になる年だった僕も50歳になるっていうことですから、当時を知る人たちがだんだんいなくなるのは当然のことです。
一方で、記憶というのは引き継がれていきます。今回の阪神大震災の特集でも、亡くなった大学生の生前の親に宛てた手紙や、死の間際に言った大学生の言葉など、当時報道されていた事柄をあらためて報道すると、やっぱりそれを見た人が思うことっていろいろある。今の生きている人たちにとってもすごく重要なことなのかなと思いました。
(山田)阪神大震災も、もう若い人たちのほとんどが知らない災害になってしまっています。貴重な体験談をお話していただきありがとうございました。