#5 世界を震撼させた「のろま」――佐藤勝彦さんが読む、アインシュタイン『相対性理論』【NHK100分de名著ブックス一挙公開】
佐藤勝彦さんによる、アインシュタイン『相対性理論』読み解き
時間は、絶対ではない――。
20世紀における物理学の最大革命の一つである「相対性理論」。しかし、その有名な論文の内容を正確に知る人は多くありません。
『NHK「100分de名著」ブックス アインシュタイン 相対性理論』では、佐藤勝彦さんが、アインシュタインが得意とした「思考実験」を軸に、高度な数式を使わずしてその理論を紹介します。
今回は、本書より「はじめに」と「第1章」を全文特別公開いたします(第5回/全5回)
あだ名はビーダーマイヤー
アルベルト・アインシュタインは一八七九年、ドイツの南部のウルムという町で、ユダヤ人夫婦の長男として生まれました。父親は電気工事店などを経営する事業主でしたが、あまり商才には恵まれていなかったようです。アインシュタイン自身も、幼い頃は言葉を話すことが苦手な目立たない子供で、九歳くらいになるまでは、まともに会話すらできなかったともいわれています。言葉を話し始めるのが遅かった理由を、のちに本人は「センテンスを丸ごと話そうと考えて、声を出さずに練習して、きちんと言えるようになったという自信がついてから声に出していた」と語っています。
ミュンヘンの小学校に通った後は、ルイトポルト・ギムナジウム(日本でいう中学・高校)に入学。学校の成績はそれなりに優秀だったものの、暗記科目は大の苦手。何事においても目立つ生徒だったアインシュタインは教師からは目の敵(かたき)にされて、友人たちからは「ビーダーマイヤー」(要領の悪いやつ、のろま、馬鹿正直)とからかわれていました。
しかし、科学や数学への関心だけは人一倍強く、五歳の時に父親に買ってもらった方位磁石に興味を抱いたのをきっかけに、どんどん自然科学の世界に魅了されていきます。十歳の頃に、すでにピタゴラスの定理に興味を持ち、十二歳の時にはユークリッド幾何学の本を読んで、自分なりに理解していたといいます。その時のことをのちに振り返って「ユークリッド幾何学には、どんな疑いの余地もないように思えるほどの確実さで証明できる主張があった。その明瞭さと確実さに、言い表しようのない感銘を受けた」と本人は語っています。
また十六歳の時から、すでに「光の存在」にも強い興味を抱いていて、光に乗って自分が空を飛ぶ姿を夢想し、「もし光の速さで飛びながら、鏡で顔を見たら、そこには顔が映るのだろうか?」などと考えながら、「思考実験(頭の中で考える実験)」を行なっていたそうです。
学ぶことが(興味のあることに限りますが)何よりも好きだったアインシュタインですが、学校生活にはなじめなかったようで、十五歳の時にギムナジウムを自主退学。軍国主義国家への道を突き進んでいた当時のドイツでは、教育現場においても知識の丸暗記や団体行動が重視されていました。そうした学内の重苦しい雰囲気に嫌気がさしたことが退学を決めた理由でした。
その後、名門チューリッヒ連邦工科大学を受験するも、言語系の科目があだとなって受験に失敗。しかし、当時の学長に数学の秘めたる才能を認められて、スイス北部の町アーラウの州立学校に通って、翌年再挑戦するようすすめられます。アーラウの州立学校は、ミュンヘンの学校とは違い、自由な校風なうえに、科学教育が盛んな学校だったため、アインシュタインには向いていたのでしょう。彼が本格的に自然科学の研究者への道を目指そうと決意したのは、この学校で受けた授業がきっかけだったともいわれています。
一年後、大学進学を無事に果たしましたが、大学時代のアインシュタインは、講義にはほとんど顔を出さずに、物理の実験室にこもって実験ばかり行なっていたため、全般的な成績は「中の上」で、特に突出した才能を発揮することもなく、四年間を過ごしました。
世界を震撼させた相対性理論
一九〇〇年、大学を卒業したアインシュタインは、そのまま大学に残ることを希望していましたが、物理学部長に嫌われていたため、しかたなく助手への道を断念。しばらくは家庭教師のアルバイト、臨時の代理教員などで生計を立てていましたが、学生時代から交際を続けていたミレーバと結婚するのを機に、知人の口利きでベルンのスイス特許庁に三級技術専門職として就職します。当然のことかもしれませんが、公務員の退屈な事務仕事に彼は興味を持てなかったようで、仕事に対してはあまり熱心なほうではなかったと伝えられています。午前中にさっさと仕事のノルマを終えて、午後はこっそり、物理学や数学の本を読みふけっていました。
こうやって振り返ってみると、二十世紀を代表する天才といわれているわりには、若い頃のアインシュタインは、さえない地味な人物だったようにも感じられます。大学入学も一度失敗しているし、就職でも挫折しています。しかし、彼のすごいところは自分の興味のあることにはひたすら情熱を注ぎ、没頭する姿勢を崩さなかった点です。本人も自分の長所をのちにこう語っています。「まぁ、私に唯一才能があるとすれば、それは『ラバのような強情さ』です」と。
その情熱とねばりがついに身を結ぶことになったのが、就職して四年目の一九〇五年。この年にアインシュタインは三つの論文を発表して、物理学の世界に大きな衝撃を与えました。
まず三月に発表したのが「光量子仮説」についての論文。これは先ほどお話ししたように光の正体を論じたものです。彼はそれまで光は波だと考えられていた物理学の常識を覆し、光を小さな粒であると主張しましたが、根拠として「光電効果」を例にあげて説明しています。光電効果とは、金属に波長の長い光(赤外線)を当てた場合はなにも起こらないが、波長の短い光(紫外線)を当てると、金属から電子が飛び出す現象のことです。光を波と定義してしまうとこの現象を説明することは不可能ですが、光の正体が小さな粒で、波長の短い光は波長の長い光よりも一粒あたりのエネルギーが大きいと考えれば、この現象を説明できる。だから光は小さな粒であると考えるべきだ── というのがこの論文の主旨です。
それから一ヵ月後に発表したのが「ブラウン運動」についての論文。ブラウン運動とは、イギリスの植物学者ロバート・ブラウンが発見したもので、水面に花粉を落とした時に花粉がジグザグに動く現象のことです。この運動は花粉に水の分子が不規則にぶつかることで起こるといわれていましたが、アインシュタインは花粉の大きさとその動きから、水の分子の大きさを推定することに成功しました。
そして同年六月に、「特殊相対性理論」を発表します。すでに発表されていた二つの論文が、それまでの物理学の流れに沿って理解できる学説だったのに対して、この論文はあまりに常識を逸脱した革命的なものでした。そのため、最初は批判する者もいましたが、同時に賛美をよせる著名な学者も多く現れ、またたくまにアインシュタインの学説は物理学の常識を塗り替えていきます。その後、スイスのベルン大学の講師となったのを皮切りに、アインシュタインはさまざまな大学を渡り歩きながら研究を続け、十年後の一九一五年から一六年にかけて、永年の宿願であった「一般相対性理論」を書き上げて、再び世の中を震撼させることになるのです。
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著者
佐藤勝彦(さとう・かつひこ)
宇宙物理学者。理学博士。専攻は宇宙論・宇宙物理学で、インフレーション宇宙論の提唱者として知られる。北欧理論原子物理学研究所(コペンハーゲン)客員教授、東京大学理学部助教授、同大学大学院理学系研究科教授などを経て、現在は東京大学名誉教授、大学共同利用機関法人自然科学研究機構機構長、明星大学客員教授。90年仁科記念賞受賞、2002年紫綬褒章受章、2010年学士院賞受賞。著書に『岩波基礎物理シリーズ9 相対性理論』(岩波書店)、『宇宙は無数にあるのか』(集英社新書)、『眠れなくなる宇宙のはなし』(宝島社)など多数。
※著者略歴は全て刊行当時の情報です。
■「100分de名著ブックス アインシュタイン『相対性理論』」(佐藤勝彦著)より抜粋
■書籍に掲載の脚注、図版、写真、ルビなどは、記事から割愛しております。
*本書は、「NHK100分de名著」において、2012年11月に放送された「アインシュタイン 相対性理論」のテキストを底本として一部加筆・修正し、新たにブックス特別章「相対性理論が切り拓いた「現代宇宙論」」、読書案内、年譜などを収載したものです。