手取り19万円の取締役
おれは以前「手取り19万円の栄光の終わりに」という記事を書いた。
親会社的なところから我が社が見捨てられたときのことを書いた。もう、手取り19万円の栄光の日々は終わったのだ、と。
その後、どうなったのか。なんと、同じ会社がまだ続いている。上の記事が2024年の5月なので、それから一年以上は続いている。
その理由の一つには、親会社的な会社が、うちがこしらえた損失である2,000万円くらいを放棄してくれたところにある。これが要求されていたら、そんな金はないので会社は倒産、社長も自己破産していたことだろう。情けをかけてくれたのか、親会社的な会社の社長(上場会社の創業社長)が自らの見る目のなさを認めたのかわからない。
ちなみに、関係が切れたあとも、何ヶ月かその社長は月に一度わが社を訪れ、経営相談をしてくれた。よくわからない関係だ。
しかし、金銭の援助は切れた。いつ潰れてもおかしくない状態だ。それでも、何ヶ月かはもつ予定だった。そんななか、おれは2024年の8月に信州支社長になった。
支社長といっても名前だけのものである。勤務地は横浜のまま。名前だけ貸した。支社といっても働いているのは一人。
ただ、地方では支社長の名前は男の名前のほうがいい、という理由でおれが名前を貸した。おれは支社長になった。手取りは19万円のままだ。仕事は増えもしないし、減りもしない。ハンコをおす機会もない。
べつに「支社長」というものは名目だけのものだ。そういうものに過ぎない。
それからの経営状態
そして、親会社的なものがなくなってからの経営状態がどうなったのか。これが悪くない。意外に悪くない。
理由はある。また、親会社的になってくれるところはないかと、長い付き合いのある老舗中小企業、形としてはうちが材料のようなものを仕入れている企業に、支援を頼んだのだ。
そうすると、向こうさまがなぜか乗り気になってくれて、買収や提携という形ではないけれども、ある種の商品について、目の上のたんこぶのような会社を一緒になって追い抜いてやりましょう、ということになった。そして、材料のようなものを、ほぼ原価で卸してくれるようになった。これが大きい。
その会社と今後どうなるのかはわからない。ただ、わが社のオフィスには、その会社の人が来てデスクワークできるスペースを作り、たまに誰かが訪れては、持参したノートパソコンで仕事をして帰っていくようになった。
そんなこともあって、なんだかんだでなかなかいい決算となって、一年以上が過ぎた。おれの手取りも19万円のままだ。栄光は終わっていなかった。
手取り19万円の取締役
そんな状況のなか、いきなりおれに「取締役になれ」という話がふりかかった。なにやら信用金庫か帝国データバンクに、「役員は一人ではなく二人いたほうが格好がつきます」と言われたらしい。
役員は二人いたのだが、以前の親会社的なところからの指示によって、一人退任していたのである。退任したあとも、顧問という形で週の半分は出社しているのだけれど。
ともかく、役員が社長一人になった。べつに、法律的には社長一人でも構わない。でも、なにやら体面というものがあるらしい。おれにはよくわからない。とにかく、おれに取締役になれというのである。十人未満の零細企業で、おれが一番若く、おれが一番下っ端だ。
まあ、しかし、会社役員になるのも悪くない。名刺に「取締役 支社長」と入る。なにかモテるような気がする。今までは「制作」とだけ書いてあった。悪くない。人生で一度くらい「取締役」という名刺を持つのも悪くない。おれはそう思った。
そしておれは言われるがままに、近くのコンビニの多機能プリンタで戸籍謄本だかの写しと、印鑑証明を出力した。マイナンバーカードは便利といえる。
それを社長に渡したら、おれは役員、取締役になっていた。ハンコのひとつくらいおしたかもしれない。
名刺も作られた。肩書は「取締役 信州支社長」である。モテるのではないかと思う。ただ、おれが名刺交換をするのは年に三度あれば多い方なのだ。キャバクラとか行かないし。……キャバクラで名刺配ることあるのか? 行ったことないのでしらない。モテたいっすね。
取締役になるメリットとは?
というわけで、おれは取締役になった。なにか職業を書かなければいけないときに、「会社役員」と書くことになった。まあ、ネットのアンケートでは「会社員・役員」となっていることが多いのだが。
おれの生活のなにが変わったのか? なにも変わらない。会社に行って、Adobeのアプリケーションを使って、DTPをする。調べ物をして文章を書く。一番の下っ端である。
ただ、あれだ、おれは手帳持ちの精神障害者であって、朝起きられないことがある。朝、起きられないので、午後から出ることも少なくない。一週間通して定時出社できることは少ない。
これはなんだろう、重役出勤というものではないのか? おれが役員になったことによって、これが名実ともに重役出勤になったということではないのか。悪くない話である。
というわけで、おれは役員取締役になったのを、支社長になったのと同じようなことと考えていた。単に名前を貸しただけなのだと。なにも変わらないのに、名刺の肩書だけが変わったのだと。
ところがどうだろうか。「いや、どうだろうかじゃねえだろう」という声もあるだろうが、おれは社会の仕組みも会社の仕組みもしらないのだ。高卒の底辺労働者だ。おれは人生で履歴書を書いたことがない。
というわけで、「取締役になるというのはどういうことか?」について、この記事を書くにあたって検索してみた。してみて、「メリット・デメリットについて」のような記事が出てきた。書いてあるのは同じようなことだった。
まずはメリットだ。
定年がない、という。
……明日の運命もしれない零細企業に定年もなにもあるだろうか。そんなものは存在しない。会社があるかぎり働くだけである。辞めたくなったら辞めるだけだが、べつに会社から辞めてくれという話はない。むしろ、誰一人欠けても会社が回らなくなる。
重要な仕事ができる、経営に参画できる。
……メリットだろうか。というか、カツカツの零細企業において、経営理念も、業務の計画もなにもない。ただ、日々の仕事をこなすだけだ。だいたい参画もなにもない。社長が「これこれこういう仕事がある」とか言ったことについて、おれが「いや、それはねーんじゃねーですか? 儲けもねえし、やらんほうがいいですよ!」とか言って、そんなもんである。べつに役員も平社員も関係ない。それが、零細企業。
高額の報酬を得られるかもしれない。
……そんなことはない。おれの手取りは19万円のままである。取締役になったからといって、どこかのだれかがおれにたくさんお金をくれるわけではない。お金をくれるのは会社であって、会社にはお金がない。お金がないのでおれに振り込まれる金は変わらない。それだけの話である。
取締役になるデメリットとは?
では、デメリットはなんなのか。
おれはこれについて、本当になにも考えていなかった。
労災に入れない。
……これは知らなかった。とはいえ、一日中iMacのモニタに向き合うだけで、仕事中になにか怪我をすることは少ない。いや、しかし、前に、自転車通勤をしているとき、段差で肩に衝撃を受けたことがあったが、あれも病院に行っていれば労災がおりたのだろうか。まあいい、あまり関係ない。いや、おれの双極性障害が仕事由来だとすれば、それはそれで一局というところだろうが、とりあえず関係ない。
労働基準法が採用されない。
……これについてはどうということはない。もとから有給休暇というのも曖昧だし、残業代とかもいい加減だ。それが零細企業である。むしろ、おれが朝起きられなくて、LINEで「すみません、遅れます」で午後から出社しても、とくになにもない。おれについていえば、むしろいい加減ななかでろくに働いていないという重い事実がある。その割には、夏とかに「ここ三日休みます」とかいって休んで熱海に旅行にいく。適当なものである。
役員として経営の責任が大きくなる。
……そういうこともあるかもしれないが、零細企業にそんなものはない。詰めてくる株主なども存在しない。べつにおれが吸っているCBDに大麻成分が含まれていたとしても、だれも問題にしない。いや、おれはAmazonでMade in Japanのものを買っているので問題にならないのですが。大丈夫です、取締役。
でも、最大の問題があるのを知った。これはやばいとしか言いようがない。
雇用保険に入れない。
失業保険が出ない問題
取締役になると、雇用保険に入れない。おれはこれを認識していなかった。
つまりは、会社が潰れて無職になっても、失業保険が出ない、ということである。これは、大問題ではないのか?
おれが解雇あるいは解任される、ということは考えていない。おれのようなろくに働けない障害者でも、いなければ会社が回らないからだ。たとえおれが一日のうち半分しか働けなくても、まあなんとか役割を果たしている。
問題は、会社が潰れたときのことだ。そのほうが現実的である。いや、現実的ではなく、現実といおう。
業績が悪くなる。それもある。それは十分にある。しかし、業績がなんとかなっても訪れる問題がある。社長と社員の高齢化である。いや、高齢化というより、もうすでに高齢である。四十代の半ばを過ぎたおれが一番若いのである。だれかが欠けても会社が成り立たない可能性は高い。そして、そのときは遠くない未来にやってくる。いや、病気やなにかで明日訪れてもおかしくはない。
だれかを新たに雇う? それも難しい。属人化の極地が零細企業というものである。それに、貧しい零細企業ならではの労働環境、たとえば残業の概念がいい加減だとか、月によっては給料が少ないとか出ないとか、そういう条件で働いてくれる「新しい従業員」というのは考えにくい。
なあなあゆえに、「すみません、病院行くので早退します」とか、「いとこ会があるので休みます」が口頭だけで簡単に済むというメリットもあるが、労働基準法が厳密に守られているかはあやしい。
つまりは、おれは業績云々ではなく、数年以内に会社は潰れるものと思っていたのである。確信に近い。そうなったらどうするのか? まるでわからない。乏しい蓄えと失業保険で一年くらいはどうにかしようと思っていた。
その、失業保険が失われた。
おれはどう生きるか
というわけで、おれは名刺の肩書と引き換えに、失業保険を失ってしまった。
それがわかっていれば、「いや、登記の体面なんてべつにどうでもいいじゃないっすか?」とかいって、取締役にはならなかった。というか、失業保険の問題があるから、おれに取締役の話がきたのではないか。いやはや。
もしもあなたが大企業に勤めていて「役員にならないか」といわれたらすごいことだし、そのために競争を勝ち抜いてきたのだからなるのだろう。あるいは、将来有望なスタートアップ企業に勤めているならば、役員になる価値もあるだろう。
ただ、あなたが将来みえない小企業、零細企業に勤めているなら、「取締役、モテるかも!」という理由で役員になってはいけない。失業保険が出なくなるからだ。職種によっては労災も大きいだろう。
正直なところ、「どうせならおれは代表取締役社長になりたいです」といえば、「どうぞどうぞ」と社長にもなれるだろう。ただ、おれにはやる気と能力がない。この二つを兼ね備えていると、なにもできない。
おれからの遺言である。取締役を打診されたら、ちょっと考えろ。いきなりコンビニに行くな。戸籍謄本と印鑑証明を印刷するな。おれから言えるのはその程度である。とはいえ、この程度を理解していないビジネスパーソンもいないものだと思いたいが。
***
【著者プロフィール】
黄金頭
横浜市中区在住、そして勤務の低賃金DTP労働者。『関内関外日記』というブログをいくらか長く書いている。
趣味は競馬、好きな球団はカープ。名前の由来はすばらしいサラブレッドから。
双極性障害II型。
ブログ:関内関外日記
Twitter:黄金頭
Photo by :Marten Bjork