老いに恐怖を覚えていませんか? 「ホットパンツ、何歳まで穿いていい?」――昆虫・動物だけじゃない、篠原かをりの「卒業式、走って帰った」
動物作家・昆虫研究家として、さまざまなメディアに登場する篠原かをりさん。その博識さや生き物への偏愛ぶりで人気を集めていますが、この連載では「篠原かをり」にフォーカス! 忘れがたい経験や自身に影響を与えた印象深い人々、作家・研究者としての自分、プライベートとしての自分の現在とこれからなど、心のままにつづります。第26回は篠原さんが年相応な装いから「イタい」を考察するお話です。
※NHK出版公式note「本がひらく」の連載「卒業式、走って帰った」より
ホットパンツ、何歳まで穿いていい?
「年相応の服を着るべき」とよくいわれる。
子どもの頃、ビキニの水着を着てみたかったけど、絶対に買ってもらえなかった。
今なら、親の対応は、常識的で正当性のあるものだったと分かる。子どもがビキニを着ても、ただかわいいだけで、なんのリスクもない世界であればいいのだけれど、現実はそうではないからだ。
しかし、恐らく20代後半から度々聞かされるようになる「年相応の服」は、そういった妥当な根拠の上で言われているものではない。
大抵の場合、「年相応の服」とは、若作りを咎とがめるものである。「若いのに中年のような服を着て」と怒られているケースはそう多くない。
皆さんご存じのように若作りは、法に触れることではない。「塔の上のラプンツェル」でラプンツェルを塔の上に幽閉する必要があるような若作りでもないかぎり、誰に迷惑をかけることもない。
「イタい」
年齢に対して若い印象を受ける装いを断罪するときにしばしば用いられる言葉だ。
「痛々しい」から派生した語彙であろう。「気の毒」「かわいそう」「哀れ」そんな意味が込められているが、全て受け取り手側の思い込みにすぎない。当然のことながら、「イタい」という人は、かわいそうとか気の毒なんて思ってはいないし、事実、そうではない。これは、年齢に限定せず、顔立ちや体型に対する勝手な他者からの制限でも同じことが言える。
一体なぜ「イタい」とするのか、この機会に考察してみたいと思う。
様々な時代や地域、文化の中に、特定の属性に強いられる装いの基準というものは、存在していて、その中には、明文化されていない、暗黙の了解のようなものもある。そして、それを守らないことで、時には、まるで罪であるかのような扱いを受ける。
「結婚式に白い服を着て出席する」とか、「葬式に赤い服で参列する」みたいなことだというなら、自分のための装いではなく、誰かのための装いなので致し方ないとも思うが、なぜ、年を重ねると「若い人のような服装」をすることがNGになるのだろうか。
スカート丈の、膝が出ている出ていないといった些細なディテールで、誰かを糾弾していた人が聞いたら、自分のその行いを恥じるか、卒倒すると思うのだが、私はしばしば、海外の大きな子ども服を着ている。ポップで派手な色柄がとんでもない安さで手に入る。私はネット通販で購入しているが、キッズの13歳だとか14歳以上を見ると実は170cmくらいまでサイズ展開がある。かなりおすすめである。
今はまだ、世間にも通用する(と思っている)チョイスをしているが、正直なところ、自分という人間について冷静に考えた時、いつ、スパンコールのユニコーン柄を着てもおかしくないと思っている。
一方、スパンコールのユニコーン柄を魅力的だと感じるのと同じ心でありながら、着実に自分が年を重ねていると感じることもある。
最近私は、今まで、自分より上の世代をターゲットとしたものだと感じて眼中になかった、アンテプリマのワイヤーバッグやフェイラーのタオル、プリーツプリーズのセットアップが急激にものすごくかわく見えだした。
いつか、誰が買い支えているのだろうとずっと不思議に思っているブティック○○みたいなお店のマネキンが着ている幾何学模様のブラウスに胸をときめかせる日も来るのかもしれない。
好きになるばかりではなく、似合わなくなって手放すこともある。ムートンブーツに丸襟のブラウス、メリージェーンの靴。まあ、そもそも別に似合っていることすらも、服を着る上で必須ではないのだが、20代半ばから、私の思いどおりには着られなくなったので、一旦彼らとは別の道を歩むことにした。
別れるだけではなく、たまに帰ってくることもある。セーラーカラーの服も好んでいたが、同じ頃、似合わなくなって処分した。しかし、最近、また急に以前とは違う、渋い水兵のような形で似合うようになった。学生鞄ではなく、パイプが似合いそうなセーラーだ。恐らく、20代半ばで訪れた別離は、学生のイメージに引きずられながらも、少し年が上でどこか違う感じが似合わなさの原因になっていたのだろう。どう見ても学生には見えようがないくらい大人になったことで、セーラーカラーは私の人生に帰ってくることができたのだと思う。
年齢不相応に厳しい社会の中でも、一周回っておばあちゃんおじいちゃんはセーフ、という老年免罪符は、共通意識の中に存在すると思う。ヴィヴィッドカラーのおばあちゃん、パステルカラーのおじいちゃん、ゴシックロリータのおばあちゃん、バンドTシャツのおじいちゃん、パンクファッションのおばあちゃん。なるほど、どれも、かっこよさやかわいさ、凄すごみを感じる気がする。
ギャル服のおばあちゃん……まで社会の中で許容されているかは不明であるが、この老年免罪符も、私のセーラーカラーと同じ理由があると思う。恐らく、若さからとことん離れると、若い印象の装いをしていても、若さに執着している印象にならないからだと思う。
「若作り」を「イタい」と嫌悪する人は、◯◯歳の時は「こうあるべき」という規範が動かし難い世界の真理として存在していると思っているのだと思う。朝、太陽が昇るように、大人になると落ち着き、子どもっぽさとは訣別するものだと。
「若作り」と言われるような服装をする人に対して「若さに執着している」と思う人は、老いを受容しているようで、実は老いに恐怖を覚えているのだと思う。
誰しも平等に年を取っていく中で、10代や20代のみが至高の世代であり、あと60年、70年、下るばかりの人生が待っていると思うとつらい。だから、いつまでも若い服装をし続ける人を間違っていると考えたくなるのではないだろうか。
でも、若い服を着ていることが若さへの執着であるとは限らない。
ただ同じものを好きであり続けている場合もあるはずだ。
私は、もう10年くらい、尋常ではない厚みの厚底靴を履いている。これもまた年相応でないと言われそうなファッションアイテムであるが、やめさせる権利は、私の膝関節にしかない。
ところが、2023年に厚底靴が流行のアイテムになった。トレンドアイテムとしてかつてない供給に喜びながらも、私は、2024年を恐れていた。
流行に関係なく、毎年履き続けていた厚底靴が、少し流行に遅れたアイテムに見えてしまうと思ったからだ。ただ好きだから、履き続けていても、誰かの目には、微妙な時代遅れと映るのではないかと心がざわついた。人の目に触れやすい何かを好きであり続けるというのは難しいことだと思った。
人の好みは地層のようだと思う。長い時間の中で好きになったものが積み重なっていくのだ。時に見えなくなるものもあるけれど、テトリスのように消えていくものではない。だから、人によって、ずっと同じものが好きでもおかしくないし、新しいものを好きになってもおかしくない。
以前、電車の座席に座っているとき、私の目の前にホットパンツのおじいさんが立ったことがある。トップスは同素材のデニムのジャケットであった。
普段、私は絶対に電車で席を譲る人間である。子ども連れの人にも、妊婦さんにも、けが人にも、高齢者にも必ずだ。しかし、この日だけは譲れなかった。
ホットパンツというルックから「若く見られたい」に決まっていると考え、なんなら「若く見えていると思っているに違いない」とまで考え、私が席を譲ることによって、悲しい気持ちにさせてしまったらどうしようと思い、譲れなかったのだ。
よく考えると、ホットパンツを穿いているだけで、若く見られたいとは限らないのである。
私も子ども服を着ているけれど、当然、席を譲られたいなんて思わない。
私は、もし、またホットパンツのおじいさんに遭遇したら、迷わず、席を譲る。
プロフィール
篠原かをり(しのはら・かをり)
1995年2月生まれ。動物作家・昆虫研究家/慶應 義塾大学 SFC 研究所上席所員。これまでに『恋する昆虫図鑑~ムシとヒトの恋愛戦略~』(文藝春秋)、『LIFE―人間が知らない生き方』(文響社)、『サバイブ<SURVIVE>-強くなければ、生き残れない』(ダイヤモンド社)、『フムフム、がってん!いきものビックリ仰天クイズ』(文藝春秋)、『ネズミのおしえ』(徳間書店)、『歩くサナギ、うんちの繭』 (大和書房) などを出版。
バナーイラスト 平泉春奈