まだまだ現れる高輪築堤、田町駅周辺でも発掘された!見学会参加レポ
高輪築堤は、新橋〜横浜間を結んだ日本初の鉄道が開業する際、品川駅から北側の海に築かれた海上築堤です。JR東日本田町車両センター跡地「品川開発プロジェクト」大規模再開発の2019年に発掘され、高輪築堤と命名されました。高輪築堤の第七橋梁など一部の遺構は国指定史跡として現地保存され、その後も田町駅の山手線付近と品川駅側でも発掘されました。品川駅側で公開された見学会へ参加した模様をお伝えします。
高輪築堤は大規模に発見された部分だけではない
海上築堤は品川開発プロジェクトの再開発中に発見発掘され、高輪築堤と命名されました。ビルなどの建設に支障をきたすためさすがに発掘された全ての築堤は保存できませんでしたが、第七橋梁などが「旧新橋停車場跡及び高輪築堤跡」として現地に保存され、2025年に予定されている「高輪ゲートシティ」のオープン後に一般公開されます。
高輪築堤の発掘調査の模様は、廃なるものを求めてでも3回に分けて紹介しました。調査の状況や内容はそちらをご参照ください。そして、高輪築堤は発掘された場所だけではありません。築堤は田町〜浜松町駅間の芝浦1丁目付近から品川駅まで続いていました。
田町駅付近や品川駅付近は、山手線などの線路の地中に築堤が埋まっていることになり、2023年の羽田空港アクセス線建設に伴う埋蔵文化財の試掘調査を実施したところ、田町駅から100m北東の地点で高輪築堤の石垣、田町駅の直下には薩摩藩が江戸末期に築造した「薩摩台場」が発見されました。
石垣が発見された場所は、江戸時代より雑魚場と呼ばれる船着場と小さな魚河岸があって、いまは「本芝公園」となっています。雑魚場は海に面していましたが、築堤によって遮られてしまいました。そこで橋梁を設けて小舟の入出港ルートを確保しました。史跡となった第七橋梁と同じ役割です。その地点は「雑魚場架道橋」と呼ぶ線路を潜る人道となり、架道橋の橋台には開業時の「第五橋梁」橋台が残存(埋まっている?)可能性が高いとのことです。
築堤が発見されたことで、羽田空港アクセス線の建設工事は一部変更し、雑魚場可動橋を境にして浜松町駅寄りは触らずに現地保存、田町駅側はどうしても建設工事に支障をきたすために記録保存をするとのこととなりました。
品川駅側に埋まっている高輪築堤
田町駅から南下すると、工事が佳境となった「高輪ゲートシティ」工事現場となり、数年前までは900mもの長さの高輪築堤が発掘調査されていた現場でした。建設中の高層ビルはいくつかの街区に分かれており、品川駅寄りは4街区の複合棟1の「North」と「South」です。South棟から品川駅までは、都道の環状4号線が線路を跨ぐため高架橋が建設中で、一帯は高輪ゲートシティ第二期工事エリアの5街区と6街区となり、まだ建設工事は始まっていません。
5街区と6街区には高輪築堤が続いていると推測でき、港区教育委員会などは工事前にどの程度築堤が残存しているのか確認するための調査を、2024年6月から実施していました。
調査は「トレンチ1〜9」の合計9カ所で行われ、数メートル幅の地面を掘削し、7カ所で石垣が出土、2カ所で築堤の盛土が確認できました。この調査結果により、高輪築堤は品川駅まで連続し、築堤の位置も正確に把握することができました。確認できたトレンチは工事に支障をきたすため埋め戻されました。土に埋めたほうがしっかり保存できるからです。
調査確認用の掘削部分を一般公開した
港区教育委員会とJR東日本は、調査結果をもとに第二期工事と築堤をどうするか、協議を重ねていくこととなります。我々一般人にとっては、一連の調査と流れはニュースで知るのみでしたが、港区教育委員会では広く高輪築堤のことを知ってもらおうと、2024年12月8日と9日の2日間、確認箇所として最後まで残っていたトレンチ1の場所を一般公開しました。以前の見学会では抽選制でしたが、今回は誰でも見学できます。
訪れたのは9日の月曜日。高輪ゲートウェイ駅から見学場所へ移動する人々が見受けられ、建設が急ピッチで進む複合棟1のSouth棟近辺に見学会の入り口があり、昼時の会場はやや混雑しています。それほど、高輪築堤に関心があるのでしょう。会場にいる人々は、鉄道ファンというよりも一般の方々が目立っていました。
人だかりの先に、お目当ての築堤が露出しています。譲り合いながら見学地点の一番前へ。目の前には斜めに積まれている石垣と、不規則な大きさの石が埋め込まれた盛土、てっぺんには雨樋(あまどい)のような構造物が確認できます。
前回の見学会以来、久しぶりに高輪築堤の石垣とご対面できました。「品川駅まで築堤は続いていたのだから出土するよね」と、新たな場所で発掘された姿を見て、大きくうなずきます。感動の再会……ではなく必然の出会いであり、願わくば品川駅まで全て把握したい気持ちに駆られますが、それは今後の開発の検討会で決まるはずです。
そういえば、数年前に品川駅北側を空撮したとき、石垣らしきものが露出していたような……。あれは埋め戻されたのか、それとも撤去されたのだろうか。
以前と同じ構造の築堤なのだがちょっと違うかも
さて、目の前の築堤の構造を観察します。海側は約30度の傾斜角となっており、石の積み方は『布積み』。底部は石垣が流出しないよう留杭が施されています。不規則な石が埋め込まれた盛土は『裏込め石』と呼ばれた土台部分で、本来は石垣で覆われますが、何かの理由で上側の石垣が取り払われたようで、裏込め石が剥き出しになっていました。
築堤は見た感じ、以前見学したときと構造が同じに見えます。コンクリート製の棒が突き刺さっているのは、後年になって設置された架線柱です。おそらく戦後のコンクリート架線柱だと推測できますが、架線柱は裏込め石の盛土部分に突き刺さりました。仮に石垣があったら異変に気がつき、そのときに築堤の存在が分かったと思われます。
ふと、気になるのは築堤上部。何か排水溝のような石の列が見られました。高輪築堤は明治後期に西側へと増築して線路を複々線化したのですが、増築の痕跡にしては、以前見たものと比べて幅が足りない。あれはなんだろう。
「これは排水溝を作り、両側にレールがあったのです」
港区教育委員会の方が、我々見学者の質問に丁寧に説明してくれます。この地点は品川駅に近い場所で、複々線となった線路は、駅へ近づくにつれてポイントで増えていきました。そこで、何かしらの理由で排水溝が必要となり、その痕跡が発掘されたとのことです。品川駅は開業当初複線の相対式ホームというシンプルな構造で、輸送力の増強と共に発展していきます。見学地点は駅構内外れ、線路が増える地点だったのですね。
「この石垣は、築堤西側の東海道の護岸の石垣を剥がして流用したのです」
江戸時代につくられた東海道は、築堤と並行していました。ということは、東海道は石垣が無くなって護岸が崩れてしまうのでは……。
「そうなんです。そこで東海道は板と杭で土留めをしたのです。」
東海道は海に沿っていたため、護岸を石垣で堅牢にしていました。しかし高輪築堤ができたので、海の力を受けるのは鉄道の築堤となり、東海道は板で土留めする程度でも問題ありません。やがて築堤との間も埋め立ててしまうのだから、板で十分だったのです。この度の一般公開では見られませんでしたが、その板と杭も発掘されています。
高輪築堤や東海道は錦絵か、後年になって撮影された古写真しか当時を知るものがなく、再開発による発掘調査によって細かいことが分かってきました。
また明治後期の埋め立ては、現代と違ってそのまま土で被せて埋めちゃったのですね。
埋め立て用の土は、大井町の大井鉄道工場(現在の東京総合車両センター)建設で掘削された残土を使用したそうです。
この見学会終了後は工事車両の動線となるため、あっという間に埋め立てられます。品川駅まで続いている築堤はどうなるのか、開発と保存で協議が続けられ、これから方針が決まります。
高輪築堤は人々の関心を引きつけ、今後のこともニュースとなることでしょう。品川・高輪の発展と築堤がバランスよく共存できたらと、切に願うのでした。
取材・文・撮影=吉永陽一
吉永陽一
写真家・フォトグラファー
鉄道の空撮「空鉄(そらてつ)」を日々発表しているが、実は学生時代から廃墟や廃線跡などの「廃もの」を愛し、廃墟が最大級の人生の癒やしである。廃鉱の大判写真を寝床の傍らに飾り、廃墟で寝起きする疑似体験を20数年間行なっている。部屋に荷物が多すぎ、だんだんと部屋が廃墟になりつつあり、居心地が良い。