【敵方だった秀吉に寵愛された美女】忍城を守った女武者・甲斐姫の伝説
豊臣秀吉は、多くの女性を側室として迎えたことでも知られており、女性関係の逸話が数多く伝えられている。
一方で、当時の武将たちの間で一般的だった衆道に関心を示した記録は見られず、その点でも異彩を放つ存在であった。
秀吉の側室の中で、最もよく名が知られているのは織田信長の姪である淀殿だが、武蔵国埼玉郡の忍(おし・現在の埼玉県行田市)の戦国大名・成田氏長の長女である甲斐姫もまた、秀吉の側室となった女性である。
「東国無双の美人」と謳われ、その美しさに甘んじず聡明で武芸にも秀でていた甲斐姫は、もし男子であれば天下に名を成していたとも評されたほどの才媛だった。
伝説によれば、秀吉の関東征伐の際には城を守るために自ら指揮を執り、200余騎を率いて秀吉方の軍勢を退ける戦いぶりを見せたという。
今回は、秀吉と敵対関係にありながら、後に秀吉の側室になったと伝わる甲斐姫の波乱に満ちた生涯と、彼女にまつわる謎に触れていこう。
甲斐姫の出自
前述のとおり、甲斐姫は武蔵国埼玉郡の戦国武将、忍城城主の成田氏長の長女として生まれた。
母は上野国の戦国武将、金山城城主の由良成繁の娘である。
父方の成田氏は一説によれば藤原師輔の流れを汲む家系で、母方の由良氏はかつて新田四天王の1人に数えられた南朝の武将、由良具滋の末裔にあたる家系である。
由緒正しい名家同士の間に誕生した甲斐姫であったが、その人生の始まりは順風満帆とはいかず、成田氏と由良氏の関係悪化による両親の離縁で、母とは2歳の時に離別している。
母との離別後は、父の継室であった太田資正の娘のもとで養育されたが、幸いにも継母や異母妹たちとの関係は良かったという。
産みの母とは早くに離れ離れになったものの、幼い頃から聡明で長身だった甲斐姫は父から格別の期待をかけられ、女子でありながら武芸や軍事を教え込まれて育つ。
その後、甲斐姫は「東国無双の美人」と称えられるほど、美しく勇猛な女性へと成長していった。
しかし由緒正しい名家とはいっても、当時の成田氏は地元では名を馳せていたが、それほど強大な勢力ではなかった。
甲斐姫がそのまま実母や継母のように東国のどこかの武将の妻になっていれば、歴史に名を残すこともなかっただろう。
彼女の運命が大きく変わるきっかけとなったのは、1590年に起きた「忍城の戦い」だった。
忍城の戦い ~城代の急死と石田三成の水攻め
1590年に豊臣秀吉の小田原征伐が始まると、甲斐姫の父であり成田家当主であった氏長と、その弟の成田泰親は、後北条氏に加勢して秀吉と敵対し小田原城に籠城した。
主である氏長が留守の忍城では、その頃すでに隠居していた成田泰季(氏長の叔父)が氏長の命により城代を務めており、甲斐姫も泰季の嫡男である成田長親や成田家家臣団とともに、忍城に籠城することとなった。
忍城には、500あまりの兵と忍城下の民衆あわせて約3000人が籠城していたが、そこに石田三成率いる秀吉軍が約2万3000人の兵を率いて侵攻してきた。
秀吉軍が圧倒的に有利かと思われたが、利根川と荒川に挟まれた湿地帯に位置する忍城は、周囲の川や地形が自然の堀を形成する難攻不落の城だった。
また、数の上では圧倒的不利であるにもかかわらず籠城する成田勢の士気も高く、忍城の守りの固さも相まって、三成の忍城攻めは難航した。
しかし成田氏側にも想定外の不幸が起きた。
粘り強く籠城を続けていた泰季だったが、75歳の老体に無理が祟ったのか体調を崩して発熱し、籠城中の1590年7月8日に急死してしまったのだ。
甲斐姫とその継母は、臨終の床に就く泰季から「長親を私の代わりに」という遺言を受け、忍城の総大将は長親が務めることとなる。
同年7月17日には、石田勢による水攻めにより忍城周辺が水で満ちてしまったが、その翌日には大雨が降って突貫工事で築かれた堤防(石田堤)が決壊し、洪水によって秀吉軍から約270人もの溺死者が出た。
石田勢が築いた堤防の決壊は、成田勢による破壊工作が原因だったとも伝わっている。
水攻め失敗の結果、忍城の周囲は泥沼化して、馬すらまともに歩けない状況となってしまった。
ちなみにこの三成の失敗は、後に彼が「戦下手」と吹聴される要因になったとされるが、水攻めは現地の地形を知らなかった秀吉の指示によって行われた作戦であり、現場での指示は三成が行ったものの、三成主導で実行された作戦ではなかった。
三成もまた、現場の状況を知らない主君の命令に翻弄され、苦しい状況に陥ってしまったのだ。
忍城の戦い ~秀吉軍の猛攻と甲斐姫の活躍
石田勢による水攻めは失敗に終わったが、それで秀吉が忍城を諦めるわけがなかった。
同年7月26日には、岩槻城や鉢形城を落とした浅野長政率いる軍勢が援軍として忍城に差し向けられ、その2日後から浅野勢による忍城への直接攻撃が開始された。
本丸に迫る勢いの浅野勢に対抗しようと長親は出陣を試みたが、それを止めたのが甲斐姫であったと伝えられている。
伝説によれば、当時まだ19歳だった甲斐姫は、長親に代わって自ら甲冑をまとい、200余の兵を率いて出陣したという。
甲斐姫率いる軍勢は、忍城大手門前で長政率いる秀吉軍と、成田家家臣である正木利英率いる成田勢の戦いの場に鉢合わせとなった。
甲斐姫の奮起を促す叫びに成田勢は呼応し猛烈な戦いぶりを見せ、彼女自身も名刀「浪切」を手にして幾人もの敵兵を討ち取り、見事浅野勢の侵入を阻止したという。
その後、8月4日には石田三成、佐竹義重、浅野長政、大谷吉継、真田昌幸らが率いる豊臣軍が三方向から忍城へ総攻撃を仕掛けたが、このときも甲斐姫は兵を率いて奮戦したとされる。
また、彼女の美貌に心を奪われ、無礼な交渉を持ち掛けたと伝わる三宅高繁という武将を、矢で一撃して討ち取ったという逸話もある。
激戦の末、成田勢にも多数の死傷者が出たが、忍城が落ちることはなかった。
翌8月5日、北条氏直が秀吉に降伏し、小田原城も開城する。
だが成田勢はなおも籠城を続け、最終的には秀吉の命を受けた成田氏長が開城を勧め、8月13日、忍城はついに開城した。
このとき、甲冑をまとった甲斐姫とその継母、妹たちは馬に乗り、成田勢の諸士に見送られながら忍城を後にしたという。
忍城開城後の成田家で起きた謀反
忍城の開城後、成田氏は豊臣方に降伏し、その身柄は蒲生氏郷に預けられた。
やがて氏郷が会津に移封されると、成田氏長らもこれに従って会津へ移り、福井城の守備を任されるとともに、1万石の領地を与えられた。
本拠地である忍城を失ったものの、領地を得たことでかつての成田家家臣たちが集まり始めたが、氏郷は自らの家臣の中から新参の浜田兄弟を氏長に与えた。
それから2ヶ月後、伊達政宗の軍勢に対抗する蒲生頼郷に加勢するため、氏長は家臣を率いて会津の塩川に向かうことになった。
浜田兄弟は福井城の留守を任せられたが、あろうことか謀反を企て、氏長不在の福井城本丸に攻め入り、成田家譜代の家臣や氏長の妻を殺害してしまったのだ。
甲斐姫はこの報せを知って憤り、すぐさま兵を率いて福井城へと向かった。
同じく報せを知って引き返してきた氏長や、蒲生氏の援軍と協力して浜田兄弟の弟を討ち取って、兄は生け捕りにして、後に磔のうえ斬首の刑に処した。
この武勇が秀吉の耳に入り、甲斐姫は秀吉に気に入られて側室として迎えられることとなった。
そして氏長は秀吉からの寵愛を受けた甲斐姫の口添えにより、下野国烏山城の城主として2万石の領主となり、再び大名の地位に返り咲くことができたのだという。
秀吉没後の甲斐姫
甲斐姫は秀吉の側室となった後、秀吉が病に倒れ最期を迎えるまで、その側近くに仕えていたと伝えられている。
しかしその後の詳しい消息はわかっておらず、甲斐姫が眠る墓も見つかっていない。
一説によれば、甲斐姫は淀殿の信任を受けて豊臣秀頼の養育係となり、さらに秀頼と側室との間に生まれた娘・奈阿姫の養育も担ったとされる。
豊臣家滅亡後には、奈阿姫を戦火から救い出し、縁切寺として知られる鎌倉の東慶寺に同行して入寺したという伝承も残っている。
この奈阿姫こそが、後に徳川秀忠の娘・千姫の助命嘆願によって命を救われ、鎌倉・東慶寺に入って第20世住持となった天秀尼である。
中には、甲斐姫が奈阿姫の産みの母ではないかとする説もある。
これは、秀頼の側室とされる伊勢の成田吾兵衛助直の娘が、同じ成田姓の甲斐姫と混同された結果、生まれた説と推測されている。
甲斐姫が、奈阿姫とともに鎌倉の東慶寺に入ったという説は、あくまでも推測にすぎない。
しかし、東慶寺にある奈阿姫(天秀尼)の墓のすぐ隣には、「彼女の世話役を務めていた人物のもの」とされる墓塔が存在する。
その墓塔には、「台月院殿明玉宗鑑大姉」という戒名が刻まれており、「院殿」の号は、僧侶でない高貴な身分の女性にのみ与えられる称号である。
一方で、奈阿姫の乳母については、大坂の陣ののちに主君のもとから離され、夫のもとへ帰されたという記録が残っており、その人物が東慶寺に同行した可能性は低いとされている。
熾烈な戦場から幼い奈阿姫を連れ出し、千姫と直接交渉して助命を嘆願するには、相当の胆力と立場が必要だったと考えられる。
そうした条件を満たす存在として、甲斐姫が最もふさわしいのではないか、と推測されているのである。
姫武将・甲斐姫が実在した証拠は乏しい
このように、様々な伝説が残されている甲斐姫だが、実はその逸話のほとんどが後世に書かれたものである。
正確な記録として確認できる事柄は今のところ、甲斐姫という女性が側室として、秀吉の死の間際までその側で務めていた点のみとされている。
甲斐姫に関する詳細な説話が記されたのは、「忍城の戦い」からおよそ200年後の安永年間のことであり、これらは主に江戸時代に編纂された『成田記』などをもとに構成されたものである。
つまり女武将・甲斐姫の武勇伝は、後世の人々が生み出した創作である可能性が否めないのだ。
だが甲斐姫は、謎に包まれているがゆえに人々の想像力をかき立て、現在に至るまで創作物の中で「東国一の美しさと武勇を誇る姫武将」として描かれてきた。
いつの時代も強く潔く美しい女性に、人々は魅了されてしまうものなのだろう。
参考 :
三池純正 (著)『のぼうの姫 秀吉の妻となった甲斐姫の実像』
文 / 北森詩乃 校正 / 草の実堂編集部