夫・北村透谷が25歳で自殺、その後アメリカへ渡った妻・石阪美那子の波乱の生涯
明治時代、自由民権運動のリーダーである父をもち、周囲の反対をおして自分の恋愛を貫いた女性がいた。
彼女の名は石阪美那子(いしざか みなこ)。
美那子は、のちに詩人・評論家として知られる北村透谷(とうこく)と恋に落ち、周囲の反対を押し切って結婚した。
しかし2人を待っていたのは、貧しく苦しい結婚生活だった。
やがて透谷は自ら命を絶ち、美那子は28歳で夫を失う。それでも彼女は自分の力で生きていく道を探し、34歳で単身アメリカへ渡ったのだった。
夫の死後も長い人生を歩み続けた美那子は、どのように自分の道を切り開いていったのか、その生涯をみていく。
自由民権運動の有力指導者の父を持つ才女
慶応元年(1865)10月、石阪美那子は自由民権運動のリーダーであり政治家の父・昌孝と母・やまの長女として現在の東京都町田市で生まれた。
父親は政治活動と子ども達の教育のために、財産を惜しみなく使う人だったという。
幼い頃から教育を受けた美那子は、東京下谷仲御徒町で日尾塾を経営する日尾直子の門に入り、和漢学を学んだ。
真面目で優秀な美那子は、15歳から塾で和漢学と習字の助教を務めるようになる。
10代後半、美那子は英学を習得するために横浜共立女学校へ入学し、彼女のその後の人生を支える精神的支柱となるキリスト教に出会う。
明治18年(1885)の夏休みには石阪家に帰省し、弟の友人・北村透谷と出会ったのだった。
父の政治運動の同志や弟の友人たちなど多くの人が出入りする中で、美那子は透谷に対して「他の青年たちとは違う、思索的な人」という印象を抱いたという。
周囲の反対を押し切って結婚するも夫が自殺
明治20年(1887)、美那子は共立女学校を卒業し、卒業式では「自由を張るに女子も亦責任あり」と題する演説を行い、社会に尽くす覚悟を示した。
まもなく美那子は、父親が政治運動の隠れ家としてかまえた東京の別宅で透谷と再会し、2人は惹かれ合うようになる。
透谷からみて3歳年上の美那子は「優美を愛する心」「理想を好むこと」「社会に尽くそうと思っていること」という3つの尊敬すべき性質を持った理想の女性だった。
その後、政治運動に挫折した透谷は、すでにキリスト教の洗礼を受けていた美那子の導きでキリスト教へ入信する。
だが当時の美那子には、彼女の父の政治運動の同志であり医師の婚約者・平野友輔がいた。
また、美那子の父が名望ある政治家であることや、美那子自身も高い教育を受けて育ったことなどから、透谷は自分との境遇の差に悩んだ。
しかし明治21年(1888)11月、二人は周囲の反対を押し切って結婚した。
結婚後、透谷は女学校の英語教師をしたり『女学雑誌』『基督教新聞』などに評論を発表したりしたが、生活は苦しくみじめなものだった。
明治25年(1892)には長女が誕生し、家計はいっそう苦しくなる。
その少し前には、透谷が女学校の教え子にプラトニックな感情を抱くこともあり、夫婦の間にはしだいに溝が生まれていく。
明治26年(1893)、透谷は『評論』『文学界』などに精力的に執筆したものの、心身は次第に疲弊していった。
そして同年12月、自宅で咽頭を突いて自殺を図ったが、一命を取り留めて病院へ運ばれる。
しかし翌明治27年(1894)5月、透谷は自宅の庭で命を絶ってしまったのである。
この時、美那子は28歳だった。
アメリカ留学に活路を求めて渡米し、勉学に励む
透谷の死後、美那子は麻布基督教会の伝道活動に携わるようになった。
やがて、透谷とも関わりのあった宣教師ウッドワースの義姉ペンロードの日本語教師となり、娘・英子を透谷の両親に預けてペンロードと暮らしながら、伝道者(バイブル・ウーマン)として活動するようになる。
そして明治32年(1899)、アメリカ留学に活路を求めた美那子は渡米し、インディアナ州メロームのユニオン・クリスチャン・カレッジへ入学して英語の単科コースで学んだ後、オハイオ州のデファイアンス・カレッジへ入学し神学、文学、音楽を専攻した。
明治39年(1906)、美那子はデファイアンス・カレッジを学業成績優等で卒業し、賞与の金時計を授与されるとともにバチェラー・オブ・アーツ(文学士)の称号を得る。
翌明治40年(1907)1月、美那子は8年ぶりに帰国したが、その17日前に父親がこの世を去っていた。
美那子は母親と娘・英子を引き取ると東京牛込に住み、生活のために自宅で英語を教え始めた。
この時期、北村透谷の「未亡人」がアメリカで苦学のすえ帰国したというニュースが広がり、新聞などの取材がおしよせたという。
その後、透谷の友人・島崎藤村の『春』の連載が始まり、作中で透谷夫妻や藤村の若い頃が描かれたことから、改めて透谷の生涯に関心が集まった。
美那子のもとにも取材や執筆の依頼が寄せられ、透谷との暮らしや晩年についてたびたび回想を語るようになった。
教育者、キリスト教徒として真っすぐに生きる
明治42年(1909)、美那子は開校直後の東京府立豊島師範学校(現・東京学芸大学)の嘱託英語教員となる。
週3日は学校で教え、そのかたわら自宅では英語塾を開き、日曜日には麻布基督教会の日曜学校でも教えるという多忙な生活だった。
学校では真面目できびしい教師だったというが、教壇を離れると気さくで、誰に対しても笑顔であいさつをすることから学生たちにも親しまれていた。
14年間勤めた豊島師範学校を離れた後、美那子は東京府立品川高等女学校(のち府立第八高等女学校→都立八潮高校)へ移る。
関東大震災後、美那子は娘・英子の嫁ぎ先である東京赤坂の堀越家に同居するようになり、学校勤務を続けながら自宅でも英語を教え、友人や教え子、教会で知り合った人々との交流も続けていた。
一方、娘・英子との間には確執があり、娘の家族の中で孤立感を覚えて1人になりたいという思いがあった。
2歳で祖母に預けられた英子も、物心ついた時には美那子がそばにいない状態で、自分に母親がいるという実感を得られず「母親に捨てられた」という思いが強かったという。
昭和8年(1933)5月、美那子は小田原で行われた透谷碑の除幕式に出席した。透谷の死から、すでに40年近くが過ぎていた。
昭和12年(1937)、バスから降りる際に足を負傷したことをきっかけに学校を退職。その後は好きだった草花の世話などをしながら晩年を過ごした。
そして昭和17年(1942)4月10日、美那子は76歳でこの世を去った。
若き日から女性の自立を訴えていた美那子は、自ら学び、働きながら、自分の力で人生を切り開き続けたのである。
参考文献
江刺昭子『透谷の妻 石阪美那子の生涯』日本エディタースクール出版部、1995年
小沢勝美「北村美那の一生―透谷との出会いと苦闘―」『日本文学』第30巻第11号、日本文学協会、1981年
川崎司「北村みな書簡―櫻井成明宛・明治27年11月7日付―」『聖学院大学論叢』第12巻第2号、2000年 他
文 / 草の実堂編集部