古墓から生きた女が出てきて数か月後に喋り出した『三国志』の奇妙すぎる記録
古墓から現れた死んだはずの女
3世紀頃の中国は、後漢王朝が滅亡した後、魏・呉・蜀の三国が天下を争う「三国時代」の真っただ中にあった。
今回紹介するのは、そのうち魏の2代皇帝・明帝曹叡(そうえい)の時代に記録された奇妙な出来事である。
正史『三国志』には、戦乱や英雄たちの活躍だけではなく、現代人には到底信じがたいような不可思議な記録も多く残されている。
その一つが『三国志』魏書「明帝紀」の裴松之注に引かれた、顧愷之(こがいし)『啓蒙注』の記録である。
それによると魏の時代、ある者がかつての周王の墓を開いたところ、中から一人の若い女性が見つかったという。
年齢は20歳ほどで、周王の死にともなって墓に葬られた女性だったと伝えられている。
発見された当時の様子について、史料は多くを語っていない。しかし、古い王墓の中から若い女性が見つかったというだけでも十分に異様な出来事である。
そして、この話はここからさらに不可解な展開を見せる。
数日後に息を吹き返した女性
古墓から見つかったその女性は、発見から数日後に「気」が戻ったという。
ここでいう「気」とは、生命の気配、つまり呼吸のようなものと見てよいだろう。
腐敗していない仮死状態のような遺体だったのかは不明だが、少なくとも発見された当初は生者とは認識されておらず、数日経った後に息を吹き返したということになる。
そしてさらに驚くべきことに数か月後、彼女は言葉を話せるようになったというのである。
魏時人有開周王冢者,得殉葬女子,經數日而有氣,數月而能語。
意訳:魏の時代、周王の墓を開いた者があり、殉葬されていた女性を発見した。数日を経て生命の気配が現れ、数か月後には言葉を話せるようになった。
『三国志』魏書「明帝紀」裴松之注所引 顧愷之『啓蒙注』より
こうして彼女は、古墓から発見された謎の存在ではなく、一人の人間として扱われるようになる。
太后のもとへ送られる
奇妙なことに、この女性はそのまま地方に留め置かれたわけではなかった。
都の洛陽へ送られ、当時の魏で最も高貴な女性の一人であった郭太后(かくたいごう)に養われることになったのだ。
郭太后は、魏の初代皇帝・曹丕(そうひ)の皇后であり、明帝曹叡の養母として知られる人物である。
なぜ古墓から発見された女性が皇太后のもとへ送られたのかは、はっきりとは分かっていない。
しかし後代の『晋書』や『宋書』では、この種の不可思議な現象は単なる奇談ではなく、王朝の盛衰や権力者の興亡の兆しとして解釈されている。
古墓から現れて息を吹き返し、さらに言葉を話すようになったこの女性も、当時の人々にとっては何らかの吉兆を示す存在と受け止められていたのかもしれない。
ただし後世の歴史家たちは、この女性について「後に司馬懿が台頭する前兆であった」と解釈しており、魏王朝にとっては結果的に凶兆だったことになる。
いずれにせよ郭太后は、この不思議な女性を深く慈しんだという。
こうして周王の墓から現れた20歳ほどの女性は、魏の宮廷で新たな人生を送ることになったのである。
郭太后の死後、彼女もまた世を去った
この女性はその後、10年以上にわたって郭太后のもとで暮らした。
しかし郭太后が崩御すると彼女は深く悲しみ、その一年余り後に、まるで後を追うかのように亡くなったという。
宮廷でどのような生活を送り、どのような立場に置かれていたのかは明らかではないが、郭太后との間には深い情愛があったようである。
古墓から発見され、息を吹き返し、言葉を話せるようになった女性は、最後には一人の人間として誰かを慕い、その死を悼みながら生涯を終えたのだ。
もちろん現代の医学や科学の観点から見れば、この記録は事実としては受け入れ難い。
しかし興味深いのは、この話が民間の奇談ではなく、『三国志』の注に記録され、さらに『晋書』や『宋書』にも引き継がれている点である。
古代中国の史書では注釈であっても、皇后や妃嬪でもない無名の女性について、その後の人生や死まで記されることは決して多くないことから、この記録に近い出来事はあったのかもしれない。
彼女の存在は、1800年近く経った現在でも奇妙な記録の一つとして語り継がれている。
参考 :
陳寿著・裴松之注『三国志』魏書巻三「明帝紀」
『晋書』巻二十九「五行志」他