世界各地で見つかった謎の落書き『キルロイ参上』の正体とは?
壁の向こう側から、異様に長い鼻を垂らした奇妙な男が、じっとこちらを見つめている…。
これは「キルロイ参上(Kilroy was here)」と呼ばれる謎の落書きであり、アメリカの大衆文化にしばしば登場する図像の一つである。
特に第二次世界大戦中においてアメリカ兵によって描かれ、進軍した地域や駐屯地を中心に世界各地で目撃された。
この「キルロイ参上」とは何を意味しており、どのようにして生まれたのか、そして「キルロイ」とは何者なのか。
その背景を詳しく見ていこう。
チャド
キルロイ参上がいつ、どこで生まれたかについては、様々な説が存在する。
有力な説の一つとして、「チャド(Chad)」と呼ばれるキャラクターと「キルロイ参上」のフレーズが合わさり、それがミームとして定着していった、というものがある。
では、「チャド」とは一体何者であるのか。
チャドは第二次世界大戦中にイギリスで流行した落書きの一つであり、壁越しにこちらを覗く、毛髪の少ない鼻の大きな人物として描かれることが多かった。
当時のイギリスは物資が不足し、食料は僅かな量が配給されるのみであり、国民は不満を募らせていた。
特に砂糖が無いことは、紅茶が大好きな英国人にとって耐えがたい苦痛であったという。
そこでチャドがWot,No sugar?(砂糖ねぇの?)などと呟く落書きを描くことで、少しでも憂さを晴らそうとしていたのだ。
(Wot,noの後には他にも、ビールやガソリンなど様々な言葉が入り、汎用性は抜群であった)
このチャドの起源についてだが、実はこれにも様々な説が存在する。
その中の一つに、チャドはイギリスの漫画家・ジョージ=エドワード=チャタートンによって描かれたキャラクターだというものがある。
彼は1950年までイギリス空軍に所属していたとされ、1938年には既にチャドの図像は出来上がっていたそうだ。
また、チャタートンの愛称が「チャット」であり、それが転じて、このキャラクターがチャドと呼ばれるようになったという説もある。
もう一つの説は、ギリシャ文字のΩ(オメガ)が元になっているというものだ。
Ωは電子回路によく使われる記号であるゆえ、チャドの作者は電気技師ではないかという指摘がある。
さらには電子回路の図そのものが、チャドの原型になったのではないかという説も存在する。
キルロイ爆誕!
では「キルロイ参上」なるフレーズはどこから来たのか。
こちらも諸説あるので、いくつか紹介しよう。
一つは実在の人物・ジェームス=J=キルロイ(1902~1962年)が起源という説だ。
彼は第二次大戦中、マサチューセッツ州の造船所で検査官として働いており、部品を検査した印として、チョークで「キルロイ参上」というフレーズを頻繁に書いていたとされる。
その後、船が軍に納品された際、消されずに残ったそのフレーズを見た兵隊たちが気に入り、侵攻先や駐屯地などで、面白半分に落書きをするようになったという。
そしていつの間にか、先述したチャドのキャラクターとこのフレーズが合わさり「キルロイ参上」のミームに至ったとされる。
二つ目の説は、壁によじ登って野球観戦をしていた、キルロイという男が起源というものだ。
キルロイはボストンに住んでおり、野球チーム「レッドソックス」の大ファンであった。
その鼻は異常に大きく、後の第18代フランス大統領・シャルル=ド=ゴール(1890~1970年)と同じくらい大きかったという。
やがて彼は軍に徴兵され、かの「ノルマンディー上陸作戦」に参加することになった。
(ノルマンディー上陸作戦…ナチスに占領されたフランスへの上陸作戦)
そこで彼は、後の第34代アメリカ合衆国大統領・ドワイト=D=アイゼンハワー(1890~1969年)にその巨大な鼻を見出され、
ド・ゴールのコスプレをして敵の目を引き付ける役目を仰せつけられた。
仲間たちは囮となったキルロイの身を案じ、その生還を信じて、そこら中の壁に「キルロイ参上」と書き殴った。
そしてキルロイは無事に帰還し、退役後は再びレッドソックスの試合を観戦し続けたという。
しかしこの説は、あまりにも荒唐無稽なため、創作であると考えられている。
キルロイはどこでも参上する!?
第二次世界大戦中、「キルロイ参上」の落書きは、アメリカ軍の兵士たちによって至るところに描かれた。
その数は膨大であり、戦場のあらゆる場所や兵士の装備、建造物などに残された。その結果、単なる落書きに過ぎなかった「キルロイ参上」は、さまざまな都市伝説を生み出すまでに至った。
例えば、ナチス・ドイツの総統アドルフ・ヒトラーは、アメリカ人捕虜の装備や軍の物資に頻繁に描かれている「キルロイ」を見て「これはどこにでも潜入できる、凄腕のスパイに違いない」と考えたという話が伝えられている。
また、ソ連の指導者ヨシフ・スターリンがポツダム会談の際、トイレでこの落書きを見つけ、「キルロイとは何者だ?」と呟いたという逸話もある。
これらの話はいずれも都市伝説の域を出るものではないが、「キルロイ参上」の広まりがいかに強烈な印象を与えたかを示すエピソードとして語り継がれている。
戦後、「キルロイ参上」の落書きは次第に描かれることが少なくなり、一般の人々の間では次第に忘れられていった。
しかし、そのユーモラスなデザインと戦時中の歴史的背景から、アメリカ軍の間では一種のマスコットキャラクターとして親しまれ続けているという。
特に、軍の施設や装備の隅にさりげなく描かれることがあり、兵士たちの間では伝統的なジョークとして残っている。
また、イラク戦争(2003年)では、アメリカ軍が占領した建物内の黒板に「キルロイ参上」と落書きされていたことが報道されるなど、軍の文化の一部として今も息づいている。
第二次世界大戦を象徴するミームのひとつとして、「キルロイ参上」は戦時中の兵士たちのユーモアや連帯感を示すものとして記憶され続けているのである。
参考 : 『KILROY WAS HERE-Remembering The War Years』他
文 / 草の実堂編集部