卑弥呼と三国志──知られざるグローバルで、高度な外交戦略【新・古代史】
飛鳥・藤原の宮都の世界遺産登録で、今注目を集める古代史。累計10万部を突破し、新帯にリニューアルされた話題書『新・古代史 グローバルヒストリーで迫る邪馬台国、ヤマト王権』では、最新の発掘調査とAI・DNA分析などの科学的アプローチ、さらには中国や韓国の国際研究の成果から、「日本」という国の始まりを多数の写真や図版とともに描き出します。
今回は、本書より第4章「卑弥呼×三国志──知られざるグローバル戦略」の冒頭を特別公開。卑弥呼が中国の魏へ使者を送った目的は、大国・魏の後ろ盾を得て、邪馬台国連合が倭国の中で優位に立つことだったとされています。その背景にあった中国側の思惑とは、そして、卑弥呼が描いた戦略とは──。
卑弥呼×三国志──知られざるグローバル戦略
前章では、卑弥呼が直面した課題についてグローバルヒストリーの観点から掘り下げた。それは主に中国が日本に与えた影響をたどっていく作業でもあった。対してこの章では、当時の日本・倭国が中国に与えたインパクトも視野に入れながら議論を進めていく。
糸口となるのは、「魏志倭人伝」に残された、卑弥呼が中国の魏に使者を派遣したという記録だ。卑弥呼は狗奴国と長年争いを続けていることを、魏に報告していた。卑弥呼は魏の力を借りることで、狗奴国との争いを打開しようとしていたのだろうか。
一方、大国である中国にとってみれば、倭国は海の彼方の小国であった。この時代、中国は魏・呉・蜀が存亡を賭けて戦う三国志の時代に突入していた。その渦中にやってきたのが卑弥呼の送った使者の一行だった。
戦乱の緊張が続く中で、魏はわざわざ小国である倭国の使者を前例のない破格の対応でもてなした。そこには魏や呉の秘められた戦略や駆け引きがあったと考えられるようになってきている。日本と中国、それぞれの外交戦略という観点からダイナミックな歴史の流れを辿っていく。
倭国と魏の邂逅
「魏志倭人伝」には、卑弥呼が中国の魏に使者を送った時の様子が次のように記されている。
景初二年の六月、倭の女王、大夫の難升米らを遣はし郡に詣らしめ、天子に詣りて朝献せんことを求む。太守の劉夏(りゅうか)、吏を遣はし将(ひき)ゐ送りて京都(けいと)に詣らしむ。其(そ)の年の十二月、詔書して倭の女王に報じて曰く、「親魏倭王の卑弥呼に制詔す。帯方太守の劉夏、使を遣はして汝(なんぢ)の大夫たる難升米、次使たる都市(とし)の牛利(ぎゅうり)を送り、汝の献ずる所の男の生口四人、女の生口六人、班布(はんぷ)二匹二丈を奉りて、以て到る。汝の在る所は踰(はる)かに遠きも、乃ち使を遣はして貢献するは、是れ汝の忠孝、我 甚(はなは)だ汝を哀(いつく)しむ。今 汝を以て親魏倭王と為し、金印紫綬を仮し、装封(さうほう)して帯方太守に付し、汝に仮授(かじゅ)せしめん。(後略)
景初二年の六月、倭の女王(卑弥呼)は、大夫の難升米たちを派遣し帯方郡に至らせ、天子に拝謁して朝献することを求めた。帯方太守の劉夏は、属吏を派遣し(難升米たちを)引率して京都(洛陽)に至らせた。その年の十二月、(皇帝の曹芳(そうほう)は)詔書を下して倭の女王に報じて次のように言った、「親魏倭王の卑弥呼に制詔する。帯方太守の劉夏が、使者を派遣して汝の大夫である難升米と次使である都市の牛利を送り、汝の献じた男性の生口〔奴隷〕四人、女性の生口六人と、班布〔かすりの織物〕二匹二丈を奉じて、到着した。汝のいる所ははるかに遠くにも拘らず、こうして使者を派遣し貢献してきたことは、汝の忠孝(の現れ)であり、我はたいへん汝を慈しむ。いま汝を親魏倭王となし、金印紫綬を仮(あた)え、包装のうえ封印して帯方太守に託し、汝に仮授させよう。(後略)」
卑弥呼の使者の名前は、難升米。吉野ヶ里遺跡の発掘を牽引してきた七田さんの説によれば、かつての倭国王・帥升の一字をいただく有力者と考えられている。
難升米がまず向かったのは、帯方郡。朝鮮半島の西岸中央部に設立された中国の郡名だ。そこで許可をもらい、魏の都・洛陽に旅をすることになる。魏は、三国志の英雄・曹操が礎を築いた大国で、三国のうち最大の人口を擁し、強大な軍隊を誇っていた。
魏の王宮の遺跡が、今も残されている。現在の中国河南省にある「漢魏洛陽古城」だ。日本からの距離は、およそ二三〇〇キロ。近年も発掘調査が続けられ、北魏時代の倉庫や水路が見つかっている。
取材班を遺跡に案内してくれたのは、発掘調査を指揮する中国社会科学院考古研究所研究員の劉濤(りゅうとう)さんだ。かつて正門があった発掘跡から、王宮の方角を指し、かつて卑弥呼の使者たちが歩いたであろう順路を教えてくれた。
「卑弥呼の使者は、門の外で待機し、呼び出しを待っていたのでしょう。そして、時が来て宮殿に入っていったと思われます」
当時、洛陽の都は東西約三・九キロ、南北約四キロ。内城全体の面積は約一一~一二平方キロだったという。日本列島の中で邪馬台国連合がいかに大きなものであったとしても、大国・魏は桁違いだ。
なぜ卑弥呼は魏に使者を派遣したか
卑弥呼が使者を派遣した目的は、大国である魏の後ろ盾を得ることで、邪馬台国連合が倭国の中で優位な地位を占めることだったと言われている。かつて、倭の奴国の王の使者が後漢におもむいて光武帝から金印を授けられたエピソードしかり、倭国内での立場を他のクニよりも高めようとして中国に使いを送った事例がある。
今回の場合、狗奴国との争いが続く中、魏の威光を借りて争いを平定しようとする狙いが卑弥呼にあったのではないかと、浙江大学の王勇さんは考えている。
「中国の王朝は、歴史的に秩序の番人とされ、争いや反乱を平定する機能を果たしてきた。秩序をつくるものが大王だからです。そうした中国王朝の側面をうまく利用することで、卑弥呼たちは狗奴国との争いを収束させようと考えていたのでしょう」
結果として、卑弥呼は魏から親魏倭王の称号を受けることになる。倭国を代表する王として卑弥呼のことを魏が認める、という意味である。「魏志倭人伝」には、親魏倭王であることを証明する金印を「仮授せしめん」と書かれている。
仮授とは、本来は資格のない者に恩恵として仮に授けることを指し、破格の待遇を卑弥呼は与えられたことになる。しかし、なぜそのようなことが可能だったのか。まずは、魏の立場から状況を整理してみたい。
卑弥呼の使者が魏にやってきたと記されるのは景初二年。西暦にすると二三八年になるが、これは『日本書紀』などに記述のある景初三年に当たる二三九年の間違いではないかとも言われている。詳しくは後述するが、二三八年は中国や朝鮮半島などで大規模な戦いがあり、卑弥呼の使者が旅をする状況ではなかっただろうというのだ。
また、この一年の違いによって、卑弥呼の使者が拝謁した魏の皇帝は異なってくる。仮に二三八年に卑弥呼の使者が魏に到着していたとしたら、魏の皇帝は、第二代皇帝の曹そう叡えいとなる。しかし、曹叡は二三九年の一月に若くして死去する。
急遽、次の皇帝となったのは曹芳(そうほう)。この時、わずか八歳の幼帝であったため、後見人となったのは司馬懿(しばい)。のちに魏の大権を握り、西晋の礎を築いた人物だ。どちらの皇帝に拝謁したかという不明な点は残るが、ともあれ魏の混乱期に卑弥呼の使者はやってきたことになる。
魏と、呉・蜀との覇権争い
混乱していたのは魏の政治だけではない。呉や蜀との覇権争いが起こっていた。
そもそも三国時代とは、後漢の滅亡後、魏・呉・蜀の三国が対立した時代を指す。黄巾の乱をきっかけに後漢王朝の支配力が失われると、華北を平定した曹操、江南に拠る孫権(そんけん)、四川に入った劉備(りゅうび)が勢力を誇るようになる。
二二〇年に曹操が死亡すると、その子である曹丕(そうひ)が跡を継ぎ、後漢の献帝の譲りを受けて即位。国号を魏とし、初代皇帝となった。翌年、劉備は成都で帝位につき、蜀(蜀漢)の初代皇帝となった。孫権もまた、二二九年に建業で皇帝の位につき、呉を建国することになる。
三国志で有名なのが、二〇八年の赤壁(せきへき)の戦いだ。蜀の劉備と呉の孫権の連合軍が八〇万と称された魏の曹操の水軍を大敗させた戦いである。こうした敗北もあり、魏には蜀と呉の二国を正面から相手にする構図は避けたいという心理が働きやすい。
この時、戦略的に重要となるのは魏の同盟国である。魏のはるか西、現在のインドに当たる地にクシャーナ朝という王朝が当時存在した。地理的には、魏のライバル蜀の背後に位置する。魏は、クシャーナ朝を味方につけ、挟み撃ちにする構図をつくり出すことで、蜀を牽制しようとした。
そのために魏がクシャーナ朝に提示した待遇は破格だった。二二九年に遣使奉献してきた大月氏王波調(だいげっしおうはちょう、クシャーナ朝ヴァースデーヴァ王)を「親魏大月氏王」として金印を授けた。金印を魏から受け取っていたのは倭国だけではなかったのだ。
この出来事から一〇年後に金印を受け取ったのが卑弥呼の使者たちだった。こうした状況から、魏が卑弥呼を破格の待遇でもてなしたのは、もう一つのライバル呉を牽制するために味方につける目的があったのではと考えられている。
地理的に日本列島は、正確には呉の背後に位置するわけではない。しかし、前述したように、現存する世界最古の世界地図の一つである「混一疆理歴代国都之図」では、日本列島の位置は実際よりも中国大陸に近い西側に描かれている。
こうした地理感覚に基づくと、倭国は呉の背後をつき、魏と挟み撃ちする構図になる。つまり倭国は、魏にとって三国志の時代を生き抜くために戦略上、重要な意味を持っていたという説である。
卑弥呼の高度な外交戦略
倭国を重要視していたのは魏ばかりではなかった。三国志の最新研究から、卑弥呼の知られざる外交戦略に迫ろうというのが復旦大学教授の戴燕(だいやん)さんだ。卑弥呼は、魏と呉の対立関係を巧みに利用したと考えている。
「古代中国と倭国の密接な関係が、海洋史の研究が進む中、明らかになっています。注目すべきは三国の海上における覇権争いです。これまで三国志の歴史を語るとき、魏・蜀・呉の関係に焦点を当てすぎていました。
しかし、海側に視野を広げれば、じつは魏と呉は倭国と非常に密接な関係にあったことがわかります。もちろん、朝鮮半島の動向も視野に入れなければなりません。アジア情勢を大局的に俯瞰することで新たな歴史が見えてくるのです」
中でも戴燕さんが注目するのが、呉を率いた孫権の行動だ。呉の歴史書に当たる『三国志』呉書には二三二年、「呉の孫権が、将軍の周賀(しゅうが)と校尉(こうい、官職の一種)の裴潜(はいせん)を遣わし、海路で遼東(りょうとう)に向かわせる」と記されている。
遼東は位置的に魏の領海に隣接する。そこに軍を派遣するということは、孫権が魏を海上から攻めようという壮大な計画を持っていたことを示している。孫権は赤壁の戦いで魏の曹操を打ち破るなど、強力な水軍の力を有していた。だが、大量の船と兵士を動員するためには、補給基地が必要不可欠だった。
その際、呉は倭国に接近したと戴燕さんは考えている。
「孫権が即位して三年目の二三二年に、彼は急いで周賀将軍たちを海路で遼東に送りました。海から魏の東側に回り込み勢力を拡大することが目的でした。陸路を使ってこれ以上勢力を拡大する方法がなかったこともあります。その際、孫権は遼東・朝鮮半島を足場に、倭国と接触していたと考えられます。海上での補給や物資を得ようとしていたのです。呉の鏡が日本列島から出土していることからも、呉が倭国と取引をしていた証拠だと考えています」
確かに兵庫県の安倉高塚(あくらたかつか)古墳から、「対置式神獣鏡」と呼ばれる呉の鏡が出土している。鏡は倭国の有力者たちによって用いられ、権威の証として尊ばれてきた。
呉の立場からすれば、倭国を味方につけることには、補給基地を得る以上の意味合いもある。もし、魏と倭国が手を結べば、挟み撃ちされる構図になるため、倭国と手を結ぶことは後方の憂いを断つことになるからだ。
一方、魏の立場からすれば、もし、呉と倭国が手を結べば、海上から攻められ不利な状況に置かれる危険性が生まれる。戴燕さんは、魏と呉の利害が拮抗するこの状況こそが、卑弥呼が魏との交渉を有利に進める突破口だったのではないかと語る。
「卑弥呼は魏と呉と倭国のパワーバランスを利用し、魏から破格の支援を引き出すことに成功しました。卑弥呼は優れた外交力を持っていたのです」
キャスティングボートを握る、とは言いすぎかもしれないが、卑弥呼には自分たちを魏に高く売り込む条件が整っていた。混乱と争いが続く中国に、わざわざ使者を派遣したのは、卑弥呼が高度な外交戦略を持っていたからだという説である。
本書『新・古代史 グローバルヒストリーで迫る邪馬台国、ヤマト王権』では、下記の構成で、東アジアを見渡すグローバルな視点から謎に満ちた日本古代史の最前線に迫ります。
第1章 邪馬台国と古代中国
第2章 最新研究で迫る邪馬台国連合
第3章 漢王朝の崩壊と「倭国大乱」
第4章 卑弥呼×三国志──知られざるグローバル戦略
第5章 卑弥呼の最期と歴史の断絶
第6章 「空白の四世紀」に何が起きたのか
第7章 ヤマト王権と朝鮮半島情勢
第8章 激動の東アジアと倭の五王
第9章 「日本」はいかに誕生したか
NHKスペシャル取材班
私たちの国のルーツを掘り下げ、古代史の空白に迫るNHKスペシャル「古代史ミステリー」の制作チーム。他にもこれまで「戦国時代×大航海時代」「幕末×欧米列強」といったテーマを掲げ、グローバルヒストリーの観点から新たな歴史像を描いてきた。