徳川慶喜、渋沢栄一ほか多くの歴史人を訪ねる谷中散歩は、京成「日暮里駅」南口から
JR日暮里駅を経由して京成本線日暮里駅から、成田空港に向かった経験をお持ちの方も多いことだろう。京成本線青砥駅から路線延長され、当時の国鉄と連絡する京成本線日暮里駅は1931(昭和6)年12月に誕生した。さらに上野まで延びたのはその2年後だったという。現在は、JR山手線や常磐線の乗り換えのターミナル化しているが、普段使いの利用者はともかく、京成本線の南改札口から陸橋を渡れば、谷中霊園、上野桜木を経て、東京藝大も徒歩圏内という、谷中台地は目の前だ。
▲JR、京成本線、日暮里・舎人ライナーを合計するとかなりの乗降客がある日暮里駅。近隣の繊維問屋街、谷根千観光、成田空港利用者など多くの人で行き交う。
70の寺院がある門前町、谷中
国立国会図書館の電子展示会「錦絵と写真でめぐる 日本の名所」を参考にすると、「日暮里」という地名は、古くは、「新堀」または「入堀」(にいほり)と表記されたが、江戸時代中期から「日暮里」と書かれるようになった。というのも、つつじが植えられ、春の桜、秋の紅葉見物に来る人も多く、「一日中過ごしても飽きない、日の暮れるのも忘れるところ」から「ひぐらしの里」と呼ばれるようになったという。
今回は京成本線日暮里駅南改札口から、「谷中」方面に歩を進めた。谷中地域にはお寺が多い。それは、明暦の大火(1657)をきっかけに、多くの寺院が高台の谷中に遷座したからである。その後の関東大震災や東京大空襲でも被災せずに焼け残り、実に70ものお寺があるという。寺町の中心にあるのが「谷中霊園」だ。
日暮里駅の西側に広がる「谷中霊園」は、青山、雑司ヶ谷と並ぶ都内の三大霊園の一つで、東京ドーム約2個分、10万㎡という広さ。7000基のお墓のなかには、歴史に名を残す多くの偉人たちが眠っている。「墓マイラー」という、偉人たちのお墓参りを趣味にしている人もいるようだが、偉人の生涯を思い浮かべながら墓前で手を合わせ、その業績を偲び感謝の言葉を伝えてみると足を運んだ甲斐があり、やすらぎを感じる。
広い谷中霊園には江戸幕府最後の将軍・徳川慶喜、「日本資本主義の父」であり新一万円札の顔でおなじみの渋沢栄一、どちらもNHKの大河ドラマの主人公になった人物である。政治家の鳩山一郎、日本画家の横山大観、鏑木清方、杉山寧、俳優の森繁久彌、長谷川一夫、川上音二郎、河内桃子、小説家・劇作家の獅子文六、小説家の円地文子、第19代横綱の出羽海、第47代横綱の柏戸、彫刻家の朝倉文夫、錚々たる人物が眠っている。そしてNHK朝のテレビ小説「らんまん」の記憶が新しい植物学者の牧野富太郎の墓は、隣接する天王寺の墓地にある。
▲都内有数の桜の名所として知られる谷中霊園には、約170本の桜が植えられ、約300メートルにわたる桜のトンネルが見事だ。谷中七福神めぐり(毘沙門天)の天王寺には、「日本の植物学の父」と呼ばれる牧野富太郎も眠る。その他にも、朝倉文夫(彫塑家)、原田直次郎(洋画家)、新田義貞嫡流の墓所、古河藩主土井家など大名家の墓所もある。
谷中霊園の中心的な存在の墓碑
広い園内、たどり着けるかと不安になったが、その天王寺からまっすぐに延びた春には桜のトンネルができる「さくら通り」を行くと、「谷中霊園・著名人墓碑」が見つかった。そこに墓所番号が記されていて、まずは案内板に従って徳川慶喜から。
霊園内の一画、寛永寺墓地に、葵の御紋のある塀に囲まれた広い墓所は、東京都指定史跡と記されていた。柵の間から覗くと慶喜と妻の美賀子と刻まれた文字が見える。慶喜は武家政権最後の征夷大将軍となり、駿府で余生を送っていたが、大政奉還後、30年ぶりに明治天皇に謁見し、華族の最高位である「公爵」を賜った。明治天皇に感謝の意を表すために、葬儀を仏式でなく神式で行う遺言を残したため、一般皇族と同じような円墳が建てられたのである。慶喜の波乱に満ちた生涯を、NHK大河ドラマで辿ってみると、「青天を衝け」(2021)では草彅剛、「西郷どん」(2018)では松田翔太、「八重の桜」(2013)では小泉孝太郎、「龍馬伝」(2010)では田中哲司、「篤姫」(2008)では平岳大、「新選組」(2004)では今井朋彦、「徳川慶喜」(1998)では本木雅弘、「翔ぶが如く」(1990)では三田村邦彦、「花神」(1977)では伊藤孝雄、「勝海舟」(1974)では津川雅彦、「竜馬がゆく」(1968)では初代尾上辰之助が演じている。ドラマの主人公との兼ね合いや俳優の個性で徳川慶喜像も様々だが、時代と命がけで格闘した将軍であることは間違いない。その苦悩と葛藤を思いつつ、御紋の前で静かに手を合わせた。
慶喜から少し離れた「乙11号1側」が渋沢栄一の墓所である。「青天を衝け」では、主人公の渋沢栄一を吉沢亮が演じた。渋沢は慶喜が将軍に就く前からの家臣で、幕臣となっても慶喜を支えた。渋沢は25年をかけて慶喜の伝記『徳川慶喜公伝』を著し、慶喜の名誉回復を伝えようとした。慶喜への敬意を払うためであろうか、渋沢の墓は慶喜の墓の方向を向いていた。
▲塀に囲まれた約300坪もある徳川慶喜の墓(左)。「徳川慶喜家」の5代目当主にあたる玄孫の山岸美喜さんからは、個人が永続的に管理する限界を感じ、墓じまいをする決意をしたという発表もあった。今後は上野東照宮が引き継ぐ方向のようだ。渋沢栄一の墓所も、渋沢栄一、妻の千代・兼子、渋沢敬三らの墓が眠る広い敷地である。
さくら通り沿いでひときわ目を引くのが、「オッペケペー節」を作った新派劇の創始者・川上音二郎の墓だ。NHK大河ドラマ「春の波濤」(1985)では、音二郎を中村雅俊が演じ、その妻で日本の女優第一号というべき川上貞奴は、松坂慶子が演じた。円柱状の大きな石柱の上には、「川上音二郎君乃像」と銘板がはめ込まれ、「顕彰碑」として存在している。川上音二郎と言ってもあまりピンとこない人も多いが、音二郎は妻の貞奴とともに、海外での商業演劇を成功させた人物である。いわば、日本で最初の世界的エンターテイナーだ。その功績を後世に伝えるため貞奴や後援者が建立したと言われ、きわめて印象的な墓だった。
何の因果か、鳩山一郎と横山大観の墓は隣り合わせだった。調べてみると、鳩山は大観の芸術性を高く評価していたようだ。横山が亡くなったのは1958(昭和33)年、鳩山が亡くなったのは1959(昭和34)年、黄泉の国でも仲良くしているに違いない。
▲川上音二郎の墓はさくら通り沿いにあり見上げるばかりの高さもあってかなり目立つ。鳩山一郎・妻の薫の墓と横山大観の墓は隣り合わせだ。どちらのお墓にもお花が供えられていた。
谷中を行けば立ち寄りたい名所
谷中で立ち寄りたいのは、「朝倉彫塑館」である。日本近代彫塑界の最高峰で文化勲章授賞者、朝倉文夫(1883~1964)の住宅兼アトリエだった建物が1986(昭和61)年に、台東区へ移管された。現在の建物は、昭和10年に建てられたものだが、朝倉自らが細部に至るまで工夫した設計がなされている。敷地全体が国の名勝に指定され、建物も国の有形文化財に登録されている。風格のある外観も見惚れるが、館内への入館には、ホームページで開館日かどうか確認してから訪れたい。散歩の締めは、谷中のもう一つの名所「夕やけだんだん」の夕日だ。
御殿坂の緩やかな坂をのぼり、左折すると「朝倉彫塑館」がある。鉄筋コンクリート造のアトリエ棟と、木造(数寄屋造)の住居棟からなる。朝倉は愛猫家としても知られ、猫をモチーフにした作品も多く残している。
御殿坂を上りまっすぐ進むと「夕やけだんだん」だ。階段を降りると、谷中銀座商店街に連なる。商店街に向かって階段下の左側にはお寿司屋さんがあったのだが、久しぶりに訪れたら、既にお店はなく2棟のマンションが建設中だった。完成すると6階と7階建てのマンションが並ぶことになるという。驚きと落胆の気持ちが交錯する光景だった。
▲谷中銀座商店街は、1945(昭和20)年の終戦直後から自然に生まれ、現在の近隣型商店街へと発展した。商店街の向こうには高層マンション群。夕やけだんだんから見える景色も随分変わったことだろう。左手には建設中の2棟のマンション。レトロな商店街の風情は残して欲しいものだ。
谷中銀座商店街は、地元の人たちだけが利用する昔ながらの商店街ではなく、観光地化して久しい。谷中霊園にも海外からの観光客をみかけたが、商店街では多言語が耳に入る。偉人たちが眠る地の変化は著しい。桜の季節、また訪れよう。