【倉敷市】現在も倉敷に息づく民芸品を愛でる文化 〜 倉敷に民藝が根付いた歴史をたどりました
倉敷には、酒津焼、羽島焼、倉敷ガラス、緞通(だんつう)など「民芸品」と呼ばれる暮らしの道具が数多く存在します。
私は2023年12月に関東から倉敷へ移住してきたので、県外の友人と倉敷観光をすることが頻繁(ひんぱん)にあります。友人たちに倉敷で訪れてみたい場所を聞くと、やはり「民藝の歴史を学べる場所」や「民芸品を実際に手に取れる場所」を希望されることが多いです。
なぜ、倉敷にはこれほどまでに民芸品が数多く生まれ、それらを生活に取り入れる文化が普及したのでしょうか。
民藝運動の時代から遡(さかのぼ)りながら、倉敷に民藝が根付いた歴史をたどっていきましょう。
大原美術館・倉敷民藝館内は通常、撮影禁止です。今回は特別に撮影許可をいただいています。
民藝と民芸
「民藝」という言葉は「民衆的工藝」の略で、柳宗悦(やなぎ むねよし)によって作られた造語です。柳は、日常生活で使われるものには、その用途に根ざした美しさ「用の美」があると考え、河井寛次郎(かわい かんじろう)・濱田庄司(はまだ しょうじ)・富本憲吉(とみもと けんきち)らとともに民藝運動を立ち上げました。
彼らは、地産地消の手工芸品であり、市井の人々の普段の生活を支えた品々の価値を認め直す運動をおこし、そうした観点から見出され、また生産の復興が目指された品々が「民藝品」「民芸品」と呼ばれるようになります。
なお、倉敷美観地区にある倉敷民藝館は「民藝」なのに対して、お土産屋さんでは「民芸」と異なる漢字を使用していますが、その違いはあまりないようです。
この記事では、以降「民芸品」と表記します。
倉敷と民藝
大原美術館の設立者としても知られる倉敷出身の実業家・大原孫三郎(おおはら まごさぶろう)は、地域の工芸品の魅力を多くの人に伝えようと活動していました。
柳宗悦に出会ったことをきっかけに民藝運動を支援し、その結果、大原美術館 工芸・東洋館に、民藝運動に携わった人たちの作品が展示されることになります。
大原家と民藝の歴史について、公益財団法人大原芸術財団 学芸員の長谷川祐里(はせがわ ゆり)さんに話を聞きました。
民藝運動の支持者でもある作家たちの作品を収集・展示する場
──大原美術館の工芸・東洋館には、民藝運動を提唱した作家の作品が展示されていると聞きました
長谷川(敬称略)──
大原美術館設立者の大原孫三郎は、民藝運動の支援と並行して、個々の作り手への支援に力を入れていました。
民藝運動の支持者のなかには、作家として活動している人も多くいました。工芸・東洋館のうち工芸館部分(以下、「工芸館」と記載)では、民藝運動を支えた6人の作家による工芸品が部屋ごとに展示されています。
──倉敷には、倉敷民藝館もありますよね。大原美術館の工芸館と倉敷民藝館、それぞれの役割を教えてください。
長谷川──
大原美術館の工芸館は1961年に、倉敷民藝館は1948年に開館しています。つまり、倉敷民藝館のほうが先に開館しました。
倉敷民藝館では、日本民藝館と同様に日本だけでなく世界各地から集められた民芸品を展示しています。
実際の生活で使われていた、あるいは今も使われている「日用品」を展示することが、倉敷民藝館の役割の一つです。
一方で、大原美術館の工芸館には民芸品を展示していません。
こちらは、民藝運動を支持した作家たちの作品を展示する場となっています。
工芸館に作品を展示している作家たちの作品は、民芸品ではなく美術品という扱いです。もちろん、民芸品から影響やインスピレーションは受けていますが、それらは日用品ではなく作品です。
作家たち自身も、自分たちが作ったものは作品であって民芸品とは異なるという認識をもっていたのだろうと思います。
このように展示作品の棲(す)み分けをしながら、時代を重ねています。
大原孫三郎が、民藝運動を支援
──大原美術館と民藝運動の関係について、教えてください
長谷川──
倉敷は民藝運動が提唱される以前から、酒津焼のような地域の焼き物を復興したいという思いのある街でした。
そのようなこともあり、大原孫三郎やその息子の總一郎(そういちろう)は民藝運動の支援をしていました。
1936年、日本で初めての民藝館である東京駒場の「日本民藝館」が設立される際にも、孫三郎は建設費を支援しました。
──孫三郎が民藝運動を支援するきっかけとなった出来事はありますか
長谷川──
いつから、ということははっきりしませんが、少なくとも1930年頃までには河井寛次郎とは知り合っていたようで、それ以降、柳宗悦をはじめ、民藝運動の支持者たちと徐々に親交を深めていったようです。
そのなかでも、濱田庄司との間には、大原家の主治医である三橋玉見(みはし たまみ)が所有していた土瓶の美しさに孫三郎が感動し、作品を求めたというエピソードも残っています。工芸館に展示されている作家たちとは、単に交友関係を持つだけでなく、作品を購入したり、倉敷で展覧会を開催したり、制作の支援などもおこないました。
まず作家たちの作品に惹かれ、そこから民藝運動の思想にも共感し、その支援へとつながっていったのでしょう。
今後も、工芸の現代作家の発掘や支援をしていきたい
──現在も、大原美術館では工芸作家の支援をしていますか?
また、今後も新たな工芸作家の作品を展示する予定はありますか?
長谷川──
もちろんあります。
近年では、2004年に有隣荘にて陶芸作家の田嶋悦子(たしま えつこ)さんの作品展を、2013年には工芸・東洋館にて染色家の八幡はるみ(やはた はるみ)さんの作品展を実施しました。
現在お知らせできる企画はありませんが、今後も大原芸術財団がおこなう作家共同交流事業において、工芸作家とともに展示を作っていく機会はあると思います。
──大原美術館 工芸館の見どころを教えてください
長谷川──
棟方志功や芹沢銈介の作品は紙や布で作られているため、作品保護の観点からおよそ3か月ごとに展示替えをおこなっていますが、それ以外の作品はほとんど展示替えがありません。そのため、いつ訪れても同じ作品をじっくり鑑賞できます。
また、工芸館はもともと蔵だったスペースです。
外装・内装・展示、蔵の配置すべてを、染色工芸家であり總一郎と親交の深かった芹沢銈介が、細かくデザインしています。
朝鮮張りの床の響きや、エスカレーターに着想を得た階段の手すりなど、作品だけでなく建物自体もぜひお楽しみください。
外村吉之助の想いが詰まった倉敷民藝館
大原美術館 工芸・東洋館のすぐ近くには、大原孫三郎が建設支援をした日本民藝館についで全国で2番目に開館した民藝館、倉敷民藝館があります。
倉敷民藝館 館長補佐、公益財団法人大原芸術財団シニア・アドバイザーの柳沢秀行(やなぎさわ ひでゆき)さんに館内を案内してもらいつつ、倉敷の民芸品について話を聞きました。
──倉敷の民芸について一目でわかる展示室はありますか
柳沢(敬称略)──
倉敷民藝館に入って最初の部屋をよく見ていただくと、「民藝とは何か」をつかむヒントがあります。
倉敷は江戸時代、海だった場所です。そこを干拓する過程で、塩に強い綿花の栽培が盛んにおこなわれました。
綿花からできた織物には、真田紐がありますよね。
これを麦稈(ばっかん)で編んで連なったものが、麦わら帽子やバッグになり現在も笠岡市などで作られています。
民芸品というのは、その土地ならではの材料を使ってできているものです。
過去の古いものではなく、現在にもつながる産業のひとつなんですよ。
もちろん、権力者やお金持ちは遠くの土地から良い材料を集め、名のある専門の職人の手による道具を使っていました。
そうしたものを上手物(じょうてもの)とすると、その土地の材料で、おそらくは農民が農閑期などに自ら作って使ったものは下手物(げてもの)です。当然、作り手の名前など伝わらない品々となります。
民藝運動以前は、上手物こそ良いものだとされていましたが、下手物に価値を見出したのが民藝運動です。
つまり、倉敷民藝館には、いわば下手物が多く展示されているわけですね。ただそれは、人々の日々の暮らしを彩り、そして丈夫で長く使えるたくましい道具たちなのです。
──特定の作家の作品である「倉敷ガラス」は、なぜ展示されているのですか
柳沢──
倉敷ガラスは、小谷眞三(こたに しんぞう)さんが生み出し、今は、その息子の栄次(えいじ)さんへと引き継がれています。
つまり、第二次世界大戦以後は、作者が誰かわかる作品も、丈夫で長く使え 人々の日々の暮らしを彩る品々ならば、民芸の品として扱われるようになりました。
このように、その時代ごとにこの倉敷の地で「良い」とされ生活で使われてきたものが並んでいるのがこの部屋の特徴です。
──海外のカゴもたくさんありますよね
柳沢──
カゴはまさに実用品です。
役割に応じて形が決まってくるので、作家個人の表現というのはあまり出なくなってしまいます。
それがゆえに、その土地で取れる植物や、その土地の暮らしぶりを反映した作品が見られるのが特徴です。これらは、初代館長の外村吉之助(とのむら きちのすけ)が収集した品々です。
さて、ここまで倉敷民藝館を一緒にまわってみて、ここにある展示作品は現代の暮らしで使っていけそうですか?
──家具も一つひとつが大きく、現代のマンションやアパートにはなかなか置けそうにありません。
柳沢──
そうですよね。
倉敷民藝館が創設された1948年から外村吉之介が収集に尽力した時期は、われわれのライフスタイルが激変した時期でもあるわけです。今では、畳の部屋がない家も多いし、椅子に座る時間のほうが長い生活です。それに衣類も変われば、産業構造も変わりました。
私たちの暮らしは、時代によって少しずつ変化していますよね。
それとつれて、「民藝とは何か」「民芸品とは何か」の定義も、少しずつ考え直さないといけないかなと思います。ただ根本は、人々の日々の暮らしのなかで普段使いできる品々であることに変わりはないと思います。
倉敷美観地区には、民芸か否かはともかく普段使いできる器や道具を扱っているお店がたくさんあるので、巡ってみてください。お店ごとに印象が異なるので、とてもおもしろいですよ。
徒歩圏内にたくさんの民芸品店が集う倉敷美観地区
柳沢さんに案内してもらい、倉敷美観地区内のセレクトショップを巡りました。
倉敷民藝館売店
倉敷民藝館の売店では倉敷や岡山の民芸品はもちろんのこと、全国各地の民芸品を取り扱っています。
絵葉書など普段から使えるようなお手頃価格のものもあるので、倉敷民藝館に来た記念に手に取れるものが多いという印象を受けました。
滔々toutou 倉敷民藝館南店
滔々toutou (とうとう)は、国内の工芸品の紹介と宿泊施設を運営するお店です。
キッチン用品など、生活の道具として使われるものが使う順番に陳列されています。自然光が入り、垢抜けた印象のお店です。
滔々toutouGallery
滔々toutou Gallery(とうとう ギャラリー)は、さまざまなジャンルの現代作家による工芸品を販売しています。
店内の商品も洗練された印象で、作品を鑑賞しているような感覚を覚えました。
工房イクコ
工房イクコは、倉敷美観地区から少し離れた倉敷市芸文館横に位置するギャラリーです。女性ものを主としたアパレルメーカー「IKUKO」を母体にできた、アートやクラフトを扱うお店です。工芸作品も全国的に知られた作家から、岡山で頑張る若い作り手まで幅広く販売しています。
2階建てになっており、2階では定期的に工芸作家の展覧会も開催されているそうです。
プラスワンギャラリー +1GALLERY
プラスワンギャラリーは、日本郷土玩具館に併設されているギャラリーです。
ガラス・陶器・人形・アクセサリー・インテリアまで、クラフト作品を中心とした多種多様な作家の展覧会も定期的に開催されています。
アチブランチ
アチブランチは、林源十郎商店内にある紙・布・木をはじめとする素材を生かした商品が並ぶお店です。こちらも、併設するギャラリーで定期的な展示があります。
他のギャラリーはガラス作品や陶器などの展示が中心ですが、アチブランチでは傘や文房具など、家の外に持ち歩きたくなる手仕事の道具も多く展示されているのが特徴です。
融民藝店
倉敷民藝館は民藝を「見せる」場所、融民藝店は民藝を「配る」場所として、1971年から続く民藝の店です。店主や前店主が実際に足を運んで買い付けてきた作品の数々に、全国からファンが集うお店です。
どれも実用的な作品ばかりで、手に取りやすいお値段のものも並んでいます。店主が実際の使いかたや作り手の思いを教えてくれるので、じっくりと自分の生活に合うものを選べそうな印象を受けました。
同じ作家の作品でも、お店によって少しずつラインナップが異なる
徒歩でまわれる範囲に、何軒もの民芸品のあるお店が並ぶ倉敷美観地区。
競合店なのかと思いきや、同じ作家の作品でもお店によってラインナップが少しずつ異なるのだそうです。
お店の雰囲気に合わせて、作家も「このお店には、こういう作品を置きたい」と考えて制作しているため、どのお店のスタッフも「あの作品は、あちらのお店にありますよ」と親切に教えてくれます。
セレクトショップを巡る散歩を終えて、柳沢さんは次のように語りました。
「美観地区のように、狭い範囲にギュッと大原美術館に倉敷民藝館、そして個性的なショップが集まる街はとても珍しいです。自分の暮らしに取り入れたい作品に出会いやすい街だと思うので、ぜひさまざまな店をまわってそれぞれのお店を見比べる楽しみを味わってください」
おわりに
私自身も、倉敷に来てから生活の道具を美観地区のセレクトショップで手に入れることが増えてきました。
それは実際に作り手の思いを直接聞ける機会や、手仕事の道具を実際に使うかたから「こんなふうに使っているよ」と、生活のなかに取り入れるイメージを教えてもらう機会が移住前と比べて増えたからのように思います。
それは、民藝運動の時代からそれに賛同して支援し、民藝運動を支持した作家たちとの交流が活発だった地域性も大きく影響しているのでしょう。
大原美術館工芸館や倉敷民藝館をゆっくり鑑賞したあとは、倉敷美観地区を散策しながら、自分の暮らしに合う手仕事の道具を探す旅に出かけてみてはいかがでしょうか。