「住み良い街に」戦争 高潮の被災地 大阪市港区の復興と街づくりに生涯をかけてきた「武智産業株式会社」92歳の現役社長
大阪湾に面し、水族館「海遊館」や大観覧車を擁する「天保山ハーバービレッジ」がある港湾地帯・大阪市港区。高知県出身の武智虎義さんは、この地で建築業を興し、戦争・高潮で被災した港区の復興と街づくりに生涯をかけてきました。
92歳(2024年6月現在)になった今も現役の社長で、不動産賃貸業「武智産業」を営みながら、「豊かな暮らしと住み良い街づくり」をモットーに人々に住まいを提供し続けています。
「商売の基本は祖父から学んだ」高知の山あいで生まれ育ち大阪へ
―武智さんはどのような経緯で高知県から大阪に出てこられたのでしょうか?
武智さん:高知県の明治村(現・越知町)という山あいの集落で生まれ育ち、商売の基本を祖父から学びました。祖父は山主から山ごと木を買い、仁淀川を下って丸太や木炭を下流の街に売りに行く。帰りは生活雑貨を仕入れて、集落で売っていました。私は関西大学(現・大阪府吹田市)に進学し、大阪に出てきたのですが、在学中に、父が関西の縁で引き取った港区の家に移り、母と暮らすようになりました。
木炭売りに建築業 賃貸業 学生時代に角帽姿で起業
―学生時代に建築業も賃貸業も始められていたそうですね。
武智さん:そういう経緯で港区に住んでいたのですが、大学4回生の時に、家が区画整理で立ち退きを迫られ、同じ区内の代替地に新たに家を建てることになりました。高知県にいた叔父が大工だったので、職人を連れて港区に来てもらい、自力で新居を建てました。
新居が造船所の近くで、「下宿させてほしい」と工員が大勢訪ねてきて、「じゃあ貸すか」と。妻と結婚したのもその頃。母屋は工員たちが住み、自分たちは新婚なのに狭い離れに暮らすという生活でした。商売を始めたのはその時からです。
角帽をかぶったまま木炭の卸売もして、ほかの業者より安く売るので、「あいつはけしからん」と同業者組合に目をつけられたりもしました(笑)。自宅の新築で大工仕事を覚え、職人のつてもできたので、大学を卒業する前には、請負建築業を始めていました。
戦争の傷跡残る港区で勇躍。高潮対策に奔走
―港区は明治時代に大阪港が整備され、日本一の貿易港として発展しました。しかし、太平洋戦争末期の大阪大空襲で、街は見渡す限りの焼け野原と化しました。武智さんが港区に移り住んだのは1950年ですから、まだ戦災の傷跡が生々しかった頃です。
武智さん:港区は戦前からの地盤沈下による高潮の被害も深刻でした。1961年の第2室戸台風では、もろかった河川堤防が決壊し、私の自宅も車も高潮で水浸しになりました。それより前の46年から、高潮対策・戦災復興・大阪港拡大を目的に、港区の9割に当たる690ヘクタールを約2メートル盛土でかさ上げする当時日本最大の区画整理事業を大阪市が始めており、私も後に港地区土地区画整理審議会の委員(後に会長)として事業に関わるようになりました。
街は生き物で、80年代に入ると、弁天町駅前や湾岸の再開発など新時代を先取りするようなニーズが起こり、先輩の委員たちと「早く区画整理を進めてほしい」と交渉を重ね、換地に力を尽くしました。破れた堤防も、再整備時に鉄板を埋め込んで破堤しないようにする対策を求め、実現することができました。今振り返ると、「本当によかったなあ。よくやったなあ」というのが実感です。
「雨でも傘なしで買い物できる」自社ビルで提供
―本業の建築や賃貸不動産業でも港区の発展に貢献されています。
武智さん:日本経済が高度成長期に入った1960~70年代、大阪の都市部では住宅が極端に不足するようになり、建て売りに力を注ぎました。武智産業は現在、自社のビルやマンションを中心に賃貸業をしています。築50年のマンションもありますが、当時から通路を広く取り、日当たりを充実させるなど、「豊かな暮らし」「住み良い街」を目指してきました。
2階に自社のオフィスがある「武智産業ビル」は2階から上は193 戸のマンションになっていて、私も住んでいるのですが、1階にスーパーやドラッグストアが入っていて、入居者からは「雨の日でも傘をささずに買い物ができる」と好評をいただいています。地域にとっても大事な買い物スポットになっています。
―1969年には、ほかの賃貸住宅経営者たちと公益社団法人「全国賃貸住宅経営者協会連合会(ちんたい協会)」を結成。土地所有者がマンションやアパートといった賃貸住宅を建設する際、貸付金利は金融公庫並みに抑え、利子は10年間3%の補給を受けられる「特定賃貸住宅建設資金融資斡旋利子補給制度(特賃)」の制度化を実現しておられます。大阪府下で10万世帯を超える新築住宅の供給に道を開くことにつながっており、業界人としても地域に力を尽くしてこられています。
武智さん:損得勘定で動いているように見えるかもしれませんが、私の場合、損得だけだと、すぐに「あほらしく」なって疲れてしまう。本当のエネルギーは「ロマン」がある時しか出てこない。賃貸住宅はストレートにはロマンを持てる商売ではないのですが、業界全体で上を向いて切り開いていくロマンを持つべきなんじゃないかと思い、取り組みました。
大阪高知県人会の会長も務めましたが、年1回の会合でも、やはり損得の話をするのではなく、同郷の人たちと人的交流を深めたり、郷里・高知のためにどんな協力をしていくのかを考える場にしてきました。
経済原則だけでは人生はつまらないと思うのです。社会とのつながりや自分なりの哲学が大事なのではないかと。商売も人生も同じだと思います。ビルを何棟持っていようと、財産を何百億持っていようと、それは、個人の欲得の世界。「社会にどう貢献したか」を考えて生きていかねばならないと思います。そうした哲学的な喜びをこれからも追い求めていきたい。
「港区で骨をうずめたい」運命の地で街おこし続ける
―今後の展望、これからやりたいことはありますか?
武智さん:港区で事業をさせてもらい、社会活動をさせてもらいました。土佐で生まれた私ですが、港区が私を育ててくれたと言っても過言ではない。それだけ運命的な土地だと感じていますし、ここで骨をうずめたいと思っています。区画整理事業の完成を見守りたいですし、街おこしにさらに取り組んでいきたい。
自分も「いごっそう」私益よりも「社会に役立つ」哲学を
―高知県への思いや、「自分も高知県人だなあ」と思うことはありますか?
武智さん:高知県に「いごっそう」(一般的には「頑固で気骨のある男」などの意味があるが多様)という言葉があります。「個性を大事にする」と言いますか、個性が本能的に強い。主張も強い。妥協もしない。どんなに苦しくても、「自分」を売らない。信念や価値観を持って生きている人が高知県出身者には多いと思いますし、自分も「いごっそう」なのだと思います。一方で、私は、「生きている」ではなく、「自分は生かされている」と感じて生きてきました。
―「いごっそう」と「生かされている」は対立しませんか?
武智さん:対立しないですね。私も含めて、若い頃は利益を追及しがちですが、50歳を過ぎてからは、利益を追い求めすぎるとかえって自分が苦しくなる。哲学を持たねばならない。それが、自分にとっては「社会の役に立つ」ということだったのだと思います。
企業情報
武智産業株式会社
代表取締役社長:武智 虎義
本社所在地:大阪府大阪市港区南市岡3丁目10番21号
電話:06-6582-7752
FAX:06-6582-7978
業務内容:宅地建物取引業、不動産の賃貸借・管理・運用・企画・コンサルタント業など
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