【鎌倉 観光スポットレポ】十一人塚 - 鎌倉幕府滅亡時に討死した勇士を偲ぶ
日本史の授業で「一味散々(1333)」という語呂合わせを使って、鎌倉幕府の滅亡を学んだ方も少なくないかと思います。
時は1333年(元弘3年)5月19日、鎌倉へ攻め込んだ新田義貞(にった よしさだ)の軍勢は、ここ稲村ガ崎で幕府の軍勢と死闘を繰り広げました。
その時に討死した新田軍の将兵を祀るために供養塔が建立され、後に十一人塚(じゅういちにんづか)と呼ばれるようになります。
今回はこちらの十一人塚について紹介。鎌倉観光のひとときに、往時を偲ぶよすがとなれば幸いです。
十一人塚の歴史
まずは十一人塚にまつわる歴史をたどっていきましょう。
大館宗氏の最期
『太平記』や『梅松論』などによると、新田の部将である大館又次郎宗氏(おおだて またじろうむねうじ)が兵を率いて極楽寺坂から鎌倉へ攻め込もうとしていました。
そこへ幕府方の本間山城左衛門(ほんま やましろざえもん)がわずかな手勢を率いて奇襲をかけ、稲瀬川に本陣をしいていた宗氏へ斬り込みます。
奇襲によって宗氏ら11名が討死。山城左衛門らは最初から大将だけをピンポイントで狙っていたのでしょうか。一説には、奇襲によって宗氏の部隊はほぼ全滅。最後に残った宗氏ら11名が自刃に追い込まれたとも言われます。
本間山城左衛門の忠義
なお、宗氏らを討ち取った山城左衛門は、故あって主君の大仏貞直(おさらぎ さだなお。北条一門)から謹慎を命じられていました。しかし、幕府存亡の危機に居ても立ってもいられず、武功をもって永年の御恩に報いようと出陣したのです。
そして、見事に宗氏を討ち取る大功を立てた山城左衛門は、これで御恩に報いることができたと喜び、自刃して果てたのでした。敵も味方もそれぞれに、志をまっとうするため命懸けで戦っていたことが偲ばれます。
十一面観音が祀られる
忠勇の士を喪ったことを嘆いた義貞は宗氏ら11名をこの地に葬り、十一面観音を祀りました。そのことから、後に十一人塚と呼ばれるようになったそうです。
時代は流れて1959年(昭和34年)、付近の極楽寺橋で討死した武士たちのものとみられる人骨が多数出土したため、その一部がこちらの十一人塚へ埋葬されました。
さらに1961年(昭和36年)には鎌倉市史跡として指定され、現代に至ります。
十一人塚ギャラリー
歴史をたどったところで、次に十一人塚の境内には何があるのか、一つずつ見ていきましょう。
大館宗氏らの墓
墓碑には、こう刻まれています。
「元弘三(げんこうさん)癸酉年(みずのとのとりどし)五月十九日
大館又次郎(おおだて またじろう)源宗氏(みなもとの むねうじ)主従十一人墓
於此處(ここにおいて)戦死」
この「苗字+通称+姓(かばね)+諱(いみな。実名)」つまり、「大館又次郎こと源宗氏」という名前表記は史料や文献などでも多く目にするので、覚えておくと史跡巡りを楽しめるでしょう。
鎌倉武士らの骨が埋葬された塚
丸い石が可愛らしく置かれている塚の下には、かつて極楽寺橋の辺りで死闘を繰り広げた武士たちの遺骨が埋葬されています。
一見すると何だかよくわからないかもしれませんが、立派なお墓ですから、相応しい接し方や立ち居振る舞いを心がけるとよいでしょう。
伝承の松?
十一人塚に植えられた松は「どれほど枝が生い茂っても、決して枝が十字には交差しない」という伝承があるそうです。
それは宗氏が自刃する時に腹を十文字に切り裂いたため、十文字を嫌ったからだと言います。写真の松がそれなのかははっきりしませんが、昔はもっと大きな松があったそうです。
「新田義貞 稲村ヶ崎 古戦場入口」石碑
通りに面して建てられた古戦場入口の石碑です。歴史的な地名として表記する時は稲村「ヶ」崎、鎌倉市の行政的な地名(大字)として表記する時は稲村「ガ」崎と使い分けられています。
鎌倉町青年団「十一人塚」石碑
鎌倉市内のあちこちにある石碑の一つですが、昔は鎌倉「町」でした。
いま同じものを建てようとしたら多分8ケタはするであろう立派な石碑ですが、昔の人たちは地元の伝承を大切にする思いが強かったのでしょうね。
また、解説文の「……鎌倉ニ攻入ラントセシニ……」などの時代がかった言い回しや、現代ではあまり使わない漢字たち(※)が、実に味わい深いものです。
(※)斫(斬り)・茲(ここ)・瘞メ(埋め)・之(これ)・云フ(言う)など。
鎌倉市教育委員会「鎌倉市 指定史跡 十一人塚」案内板
十一人塚の由来について、日本語と英語の併記で紹介されています。
史跡って英語で「Historical Site(ヒストリカル・サイト)」、十一人塚は「Eleven Men Mound(イレブン・マン・マウンド)」と表現するのですね。
鎌倉市教育委員会「鎌倉時代の出土人骨の埋葬について」案内板
解説文では「左手の丸い石の下」とありますが、現在は墓に向かって右手に丸い石(塚)があります。単なる誤記なのか、あるいは墓か塚を移したのか、はっきりしません。
まとめ
今回は鎌倉幕府滅亡時(元弘の乱)における古戦場の一つとして、十一人塚を紹介しました。かつて武家の都として栄え、一度は滅び去った鎌倉。しかし完全に廃れ切ったわけではなく、その後も東国の要衝として存在感を示し続けます。
江戸時代に入ると軍事的価値が失われたことから廃れるものの、江ノ島詣でなどの観光需要を通じて賑わいを取り戻していったのでした。
ここ十一人塚はそんな歴史の転換点となった場所の一つ。極楽寺から稲村ガ崎の海へ出られる際に通りがかったら、ぜひ参拝してみてください。
十一人塚
参拝
24時間
夜間も立入可能ですが、墓所のためおすすめしません。
拝観料
無料
アクセス
所在地:鎌倉市稲村ガ崎1-13-22
江ノ電「稲村ヶ崎駅」から徒歩3分(240m)
江ノ電「極楽寺駅」から徒歩10分(750m)
駐車場:なし(公共交通機関のご利用がおすすめです)
連絡先
鎌倉市教育委員会 教育文化財部 文化財課 史跡担当
電話:0467-61-3857
メール:bunkazai@city.kamakura.kanagawa.jp
外部リンク
十一人塚|鎌倉市観光協会|時を楽しむ、旅がある。~鎌倉観光公式ガイド~