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川崎大空襲76年特別企画 忘れ得ぬ、空襲に怯えた日々 市ノ坪在住・田口弥生さん(81)〈川崎市中原区〉

タウンニュース

本紙の取材に応じた田口さん

米軍機200機余りが飛来し、10万人を超える被害者を出した川崎大空襲から15日で76年。市ノ坪在住の田口弥生さん(81)は6歳で立て続けに東京大空襲と川崎大空襲に遭遇。「ただただ怖かった」という幼い頃の記憶を本紙に語った。

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田口さんは1939年、東京都蒲田の大工の家に生まれ、両親と姉2人の下で育った。2年後には太平洋戦争が開戦。「欲しがりません勝つまでは」。味のしないサツマイモと水で空腹を紛らす日々だった。

45年3月10日未明、東京を焼き尽くした大空襲。田口さん一家は大師河原に逃げ命拾いしたが、爆弾で熱くなった地面を必死に歩いて帰ると自宅は全焼。「家がない」。小さく呟いた姉の声が耳に残る。すぐに父の故郷・区内市ノ坪に一家で移ることになった。

「落ちれば死ぬ――」。東京と神奈川を結ぶガス橋も戦火で焼け、残っていたのは枠組みだけ。「皆で列になって枠組みの上を四つん這いで渡った。下は川。怖かった」と声を震わす。市ノ坪に移っても安堵はできなかった。近辺は軍需工場が多く、米軍機の標的の地。「空襲の度に庭の防空壕に隠れ、過ぎるのをじっと待っていた」。幼かった田口さんにとって、どの記憶が川崎大空襲なのか定かでない。ただ、自宅の畑に焼夷弾が落ちて爆発する場面が脳裏に焼き付いている。

「世界仲良く」父の言葉胸に

ほどなくして迎えた終戦。現・中原平和公園には米軍に接収された印刷工場があり、あちこちに銃を持った米兵がいたという。ある時、自宅に米兵2人が押しかけてきた。父は不在。姉妹は奥に隠れ、母が一人で対応した。帯揚げや髪飾りを差し出すと、米兵は機嫌良く帰ったという。田口さんは「編み上げの軍足に大きな足音。風呂敷を被って震えた」と話す。

田口さんが時代の変化を感じたのは戦後数年経ってから。県狩猟会の支部長だった父が狩猟を通じて米兵と仲を深め、自宅に招いていた。見知らぬ顔が怖く、なぜ来るのかと尋ねた田口さんに父は優しく言った。「日本は負けたんだよ。これからは世界中が仲良くしないといけないんだ」。未来への希望を込めた父の言葉を胸に、太平の世が続くことを祈る。

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