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#5 善の泉は自分の「内」にある――岸見一郎さんが読む、マルクス・アウレリウス『自省録』【NHK100分de名著ブックス一挙公開】

NHK出版デジタルマガジン

#5 善の泉は自分の「内」にある――岸見一郎さんが読む、マルクス・アウレリウス『自省録』【NHK100分de名著ブックス一挙公開】

哲学者・岸見一郎さんによる


マルクス・アウレリウス『自省録』読み解き #5

自らの戒めと内省こそが、共生への道となる――。

名君と名高いローマ皇帝マルクス・アウレリウスが、自己の内面と徹底的に向き合って思索を掘り下げ、野営のテントで蠟燭を頼りに書き留めたという異色の哲学書『自省録』。

『NHK「100分de名著」ブックス マルクス・アウレリウス 自省録』では、困難に立ち向かう人を勇気づけ、対人関係に悩む人へのヒントに満ちた不朽の名著である『自省録』を、『嫌われる勇気』で知られる岸見氏がやさしく解説します。

今回は、本書より「はじめに」と「第1章」を全文特別公開いたします
(第5回/全5回)

善の泉は自分の「内」にある

『自省録』には、自分を戒める厳しい言葉が繰り返し出てきます。同じような内容の言葉が、巻をまたいで何度も出てきたりもします。これは、人に読ませるための編集が加えられていない“覚え書き”だからというだけではありません。アウレリウスは、ともすれば忘れてしまいがちなことを自分に思い出させ、易きに流されそうになる自分を律するために、あえてストア哲学の教えを繰り返し記し、胸に刻みこもうとしたのです。

 宮廷での生活、皇帝としての現実は不自由なものでした。皇帝だからといって実権を握っていたわけではなく、表には現れない実権を握っていた者によってアウレリウスが利用されていたということもありえます。

 歴史にその名を刻むほどの賢帝だったとはいえ、アウレリウスに敵がなかったわけではありません。逆に、賢明だったからこそ周囲から煙たがられ、彼が自分に厳しくあればあるほど窮屈に思う人、彼を疎ましく思った人もあったでしょう。

死にゆく時に、幾人かの者が今起こっている不幸な出来事を喜んで傍に立っているということがないほど幸福な者はいない。彼が立派で賢い人だったとしよう。最期になって、こう独語する者が誰かいるだろう。「我々はこの『先生』から解放されて一息つけるだろう。彼は我々の誰にも怒ったりはしなかった。しかし、私は彼が無言で我々を裁いていると感じていた」。これは立派な人の場合だ。だが我々の場合、我々から解放されたい者が多くいる理由が他にどれほど多くあることか。されば死にゆく時このことを思い、他ならぬ自分がこれだけ懸命になり、祈り、気遣った仲間たちさえもが私の去ることを欲し、そこから何か別の解放感が生じることを希望しているという、そのような生から私は出るのだということを考えれば、容易にこの世から去っていくことになるだろう。とすれば、なぜこの世にこれ以上長く留まることに執着するだろうか。 

(一〇・三六)

 誰か「自分がこれだけ懸命になり、祈り、気遣った仲間」の裏切りがあったのかもしれません。自分を利用しようとする人がいて、それどころか自分が死ぬことを待ち望んでいるのかもしれないと思うことは、生きることの執着をなくしてしまうほど絶望的な気持ちにさせたことでしょう。他者が決して自分の期待を満たすために生きているのではないことを知っていても、自分の行く手を遮る他者の存在は天変地異と同じくらい受けとめることが困難な運命に感じられたことでしょう。不自由で気の休まらない日々を送っていた彼は、内なる精神、理性に従うことに自由を見出そうとしました。

 内省することで、心の自由を得ることができるのか──。

 ストア哲学では認識は次のようになされると考えます。何か外にあるものを認識するという時、感覚器官はその映像を心の中に刻印します。これを表象、ギリシア語ではパンタシアー(phantasia)といいます。ハンコで押すように外の印象が刻印されるのですが、それがすべて正しい認識とは限りません。それが理性によって承認された時に認識の中に取り入れられると考えるのです。

最初に現れる表象が伝えること以上のことを自分にいうな。何某がお前のことを悪くいっていると告げられた。それは確かに告げられた。だが、お前がそれによって害を受けたとは告げられなかった。私の子どもが病気であるのを私は見る。確かに見ている。しかし、危険な状態であるとは見ていない。このように常に最初の表象に留まり、自分で内から何一つ言い足すな。そうすれば、お前には何事も起こらない。むしろ宇宙に起こるすべてのものを知っている者として言い足せ。 

(八・四九)

 表象は誰かが自分の悪口をいっているということだけです。ところが、この心象に余計な判断を加えてしまいます。悪口をいわれたことが事実だとしても、そのことが直ちに害を受けたということにはなりません。熱を出してぐったりしている子どもを見れば、重篤な状態かもしれないと過剰に慌て、死ぬのではないかと怯えたりします。

お前が何か外にあるもののために苦しんでいるのであれば、お前を悩ますのは、その外なるものそれ自体ではなく、それについてのお前の判断なのだ。 

(八・四七)

事物は魂に触れることなく、お前の外に静かにある。苦悩はお前の内なる判断からだけ生じる。 

(四・三)

災いはどこにあるのか。災いについてお前の思いなす部分があるところにだ。 

(四・三九)

 私たちは、過去だけでなく、そこに未来を持ちこんでしまうこともあります。例えば、勉強していない子どもを目にした親は「このところ、ずっと勉強していない」「今日もしていない」「だからきっと明日もしない」と考えますが、そんなふうに勝手に判断して子どもを叱るのは理不尽です。

お前を悩ます多くの余計なものは、すべてお前の判断の中にあるので、お前はそれを除去できる。

 (九・三二)

 起こることは不可避だとしても、余計な、多くの場合誤った判断をしてはいないか絶えず内省していかなければなりません。

 アドラーは、『生きる意味を求めて』の中で、ストア派の哲学者セネカの言葉を引用して、こう記しています。「『すべては考え(思わく)に依存している』。心理学の探求において、このセネカの言葉を忘れてはならない」。誰もが同じ世界に生きているわけではありません。自分の思わくでこの世界を見ているということです。

虚偽のもの、明晰でない表象を承認しない。 

(八・七)

「最初に現れる表象が伝えること以上のことを自分にいうな」というアウレリウスの言葉を読むと一切判断をしないという意味にも取れますが、「虚偽のもの、明晰でない」ものを承認しないということであって、正しく判断しなければならないのです。個人的な対人関係にとどまらず、噂話や風説、フェイクニュースなど外からの情報に惑わされないよう絶えず注意を払い、自分自身に向かって「それは本当か」「なぜそう思うのか」「自分の都合のいいように解釈しているのではないか」と考えていく必要があります。

 自分の「内」を見つめるというのは、外に起こることに目を伏せることではなく、内なる判断を吟味することで現実に向き合っていかなければならないのです。

人は田園や海辺や山地に自分が引きこもる場所を求める。お前もそういう場所を大いに求めてきたものだ。しかし、そうしたことを望む時、お前はいつでも自己の内に憩えるのだから、すべてこうしたことはこの上なく馬鹿げている。 

(四・三)

 自分探し、幸せ探しをするために異国を旅する必要はないということです。森や水辺の別荘にこもらなくても、幸福な安らぎを得ることはできるとアウレリウスは自分を諭しています。

お前の内を掘れ。掘り続ければ、そこには常にほとばしり出ることができる善の泉がある。

 (七・五九)

 人は誰しも幸福を求めています。これは古代ギリシア以来の哲学の大前提です。幸福を求めない、あるいは不幸を求めるという選択肢はありません。

 しかし、幸福であるための手段の選択を誤らないためには、理性を正しく働かせなければなりません。幸福を求めながらも幸福でないとすれば、知的な誤りによるのです。アウレリウスは「自己のうちに憩える」といっていますが、「善の泉」を掘り当てるためには知的な探求が必要です。それが哲学であれば、その哲学こそがどんな状況にあっても人を守るのです。

 自分は不幸だと思っている人は、その原因を「外」に求めがちです。自分が不幸なのは、「あの人が意地悪をするから」「家族が協力してくれないから」「上司の理解がないから」というようにです。しかし、アウレリウスはいいます。

他人の心に何が起こっているかに注意を向けないからといって不幸である人は容易に見つからない。他方、自分の心の動きに絶えず注意を向けない人が不幸であることは必然である。 

(二・八)

 周囲の目を気にしたり、相手の反応や顔色を窺ったり、他人の心に注意を奪われてしまうことがあります。まわりの人が何を考え、どう思っているかは、どんなに考えてもわかりません。自分のことならわかるかといえばこれも簡単ではありません。だからこそ、自分の心の動きを見つめなければならないのです。

 このような考え方は、アドラー心理学のそれにも非常に近いと思います。例えば、子どもが勉強をしないと悩んでいる親がカウンセリングにこられたとしたら、目の前にいない子どものことは問題にしません。私がたずねるのは、子どもとの関係の中で、親がどう感じているかということです。

 アウレリウスが内省に努めたのは、自分の「内」にある誤った判断から自由になることに加え、「外」なる煩いから自由になるためでもありました。この、外なる煩いの一つが他者の存在です。次章では、手痛い裏切りにも遭ったアウレリウスが、他者とどう接し、どのような関係を築いていこうとしていたのかを見ていくことにしましょう。

第二章以降は、本書『NHK「100分de名著」ブックス マルクス・アウレリウス 自省録 他者との共生はいかに可能か』でお楽しみください。

著者

岸見一郎(きしみ・いちろう)
京都大学大学院文学研究科博士課程満期退学(西洋古代哲学史専攻)。奈良女子大学文学部(ギリシア語)、近大姫路大学看護学部、教育学部(生命倫理)、京都聖カタリナ高校看護専攻科(心理学)などで非常勤講師を歴任。専門の哲学と並行してアドラー心理学を研究。精力的に執筆・講演活動を行っている。著書に『嫌われる勇気』『幸せになる勇気』(古賀史健と共著/ダイヤモンド社)、『幸福の哲学 アドラー×古代ギリシアの智恵』(講談社)、『プラトン ソクラテスの弁明』(KADOKAWA)など、訳書に、アドラー『人生の意味の心理学』(アルテ)、プラトン『ティマイオス/クリティアス』(白澤社)など。

※著者略歴は全て刊行当時の情報です。

■『NHK「100分de名著」ブックス マルクス・アウレリウス 自省録 他者との共生はいかに可能か』(岸見一郎著)より抜粋
■脚注、図版、写真、ルビなどは権利などの関係上、記事から割愛しております。詳しくは書籍をご覧ください。

*本書で紹介する『自省録』の言葉は著者訳です。目下、刊行されている日本語訳には、神谷美恵子訳(岩波文庫)、鈴木照雄訳(講談社学術文庫)、水地宗明訳(京都大学学術出版会西洋古典叢書)があります。
*引用訳文末にある数字「(□・◯)」は、『自省録』中の「□巻・◯章」を指します。

*本書は、「NHK100分de名著」において、2019年4月に放送された「自省録」のテキストを底本として加筆・修正し、新たにブックス特別章「生の直下で死と向き合う」、読書案内などを収載したものです。

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