【追悼:久米宏】テレビ史における歴史的番組 「ザ・ベストテン」と「ニュースステーション」
生放送で、生の情報を、お茶の間にわかりやすく伝えた久米宏
ーー『ニュースステーション』はニュース番組の形を借りたバラエティで、『ザ・ベストテン』はバラエティの形を借りたニュース番組でした。
先の1月1日に81歳で亡くなられた不世出の司会者、久米宏サンの有名なコトバである。コレ、何を言ってるのかというと、久米サンがMCを務めた2つの歴史的番組が “地続き” だったコトを表してるんですね。生放送で、生の情報を、お茶の間にわかりやすく伝える意味において、両番組は同じ方向を向いていたと。
実際、『ザ・ベストテン』(TBS系)は、今この瞬間、歌手がどこにいても―― カメラが出向いて、その場で歌ってもらった。番組フォーマットも市場のランキング順に発表と、大変わかりやすかった。一方の『ニュースステーション』(テレビ朝日系)も “中学生でもわかるニュース” をコンセプトに、例えば国会の各党の議席を積み木で見せたりと、平易な言葉や表現でニュースを伝えた。久米サンのエスプリの利いたコメントもニュースに親近感をもたらした。
いや、もっと言えば、久米宏サンが生涯手掛けた数々の名番組たち―― 初めてリポーターとして爪あとを残したラジオ番組『土曜ワイドラジオTOKYO』(TBS)から、晩年のライフワークだったラジオ番組『久米宏 ラジオなんですけど』(TBS系)に至るまで、局や媒体が変わっても、彼はずっと地続きで仕事をしてきたのではないか。そう、生放送で、生の情報を、わかりやすく伝える――。
司会者・久米宏のレーゾンデートル
そういえば、『ニュースステーション』の終了から1年後の2005年4月、久米サンは日本テレビで『A』なる情報バラエティ番組を始めたことがあった。しかし、よもやの低視聴率で、およそ2ヶ月で終了。当時、人気絶頂の松浦亜弥サンと司会を組み、“アジア” をテーマに、現地からのリポートを見たり、コメンテーター陣と語り合う内容だった。しかし、 思うようにハネず。敗因は “収録放送” で、誰の目にも久米サンの持ち味である生放送の機動力が生かされていないのは明らかだった。
そう、生まれついての生放送気質―― それが稀代の司会者・久米宏のレーゾンデートルだった。昨年末、『第76回NHK紅白歌合戦』が久しぶりの高視聴率に沸いた一方、舞台転換に予想外の時間がかかるなど、司会陣が度々無言になる場面が指摘された。if もしも―― あの場に久米サンがいたら、きっと水を得た魚のように、そんなトラブルすら面白いシーンに変えてくれたに違いない。
そうそう、それで思い出すのが、かの山口百恵サンが武道館で行ったファイナルコンサートの千秋楽(歌い終えてステージにマイクを置いたアレ)を生中継した、1980年10月5日のTBSの特番である。なんと放送時間よりかなり前に終わってしまい、リポート役の久米宏サンが番組終了まで、客席から9分間もアドリブで繋いだんですね。これが素晴らしかったのなんの。背景には帰る客、居残る客、アンコールを叫ぶ客らが映り、その臨場感の中、久米サンはコンサートの雑感から、大スター山口百恵の社会論までひたすら喋り続けた。お陰でお茶の間は、コンサートの余韻にしばし浸れたのである。
入社4年目、リポーター役で起用された「土曜ワイドラジオTOKYO」
ところが―― 驚くべきことに、そんな久米サンは最初から喋りのプロというワケじゃなかった。むしろ、TBSに入社した当時は極度のアガリ症で、新人アナが担当するラジオの5秒程度のスポットアナウンスですら、舌がもつれて満足に喋れなかったという(シンジラレナイ!)。遂にはストレスと緊張で食事がのどを通らなくなり、入社半年で神経系の胃腸炎と診断される。アナウンスの仕事を外され、電話番が業務になった。
かくして、セミリタイアのような社会人生活がソコから2年半―― この間、同期の林美雄アナ(ラジオの『パックインミュージック』でデビュー前の荒井由実を発掘した御仁である)や1年後輩の小島一慶アナらは深夜ラジオでたちまち人気者になり、久米サンは彼らの活躍を仰ぎ見ては、悶々とした日々を過ごしたという。
だが、待てば海路の日和あり。そんな久米サンもようやく体調が戻り、入社4年目となる1970年5月――1本のラジオ番組にリポーター役で起用される。それが前述の『土曜ワイドラジオTOKYO』だった。メインパーソナリティは作家の永六輔サン。久米サンの起用は、永サンからの “好青年を” という直々のご指名だったという。 “なぜ自分が起用されたのか?” ―― 久米サンは長年の疑問を人生の恩人に訊けぬまま、永六輔サンは2016年に他界した。
番組の名物となった久米宏の機動力と軽快な喋り
さて、そんなチャンスをくれた永六輔サンの期待に応えるように、同番組で久米宏サンは覚醒する。狭いスタジオと違って、大空の下でのリポートはプレッシャーから解放され、久米サンは舌がなめらかになり、生き生きとリポートができたという。
例えば、「なんでも中継」なる企画では、街角の電信柱を巡って、柱を叩いたり、なでたり、時に電信柱になりきり、その気持ちを代弁したりしながら、ひたすらリポートした。また、渋谷・道玄坂の中継では、道端に落ちたハイヒールのかかとを見つけると、“道端に吹き寄せられた落ち葉が側溝に溜まり、その脇に赤いハイヒールのかかとが落ちています” と語り始め、即興で落とし主の女性のバックストーリーまで創作した。
リポーター・久米宏の機動力と軽快な喋りはたちまち同番組の名物となった。だが、暴走が過ぎて、時に問題になることも――。「隠しマイク作戦」なる企画では、久米サンがホームレスに扮して、懐に隠しマイクを仕込み、銀座の街中を歩いて様々な人々の反応(声)を生放送の電波に乗せるというもの。この時、交番でトイレを借りようとしたら “ダメダメ、向こうへ行け!” とお巡りさんに断られ、それがオンエアに乗り、警視庁に苦情の電話が殺到。TBSは警視庁記者クラブから出入り禁止を食らったという。
そんなある日、久米サンが某団地でリポートをしていると、他局のテレビ番組のロケ隊から声をかけられた。“大将がちょっと” ―― マイクロバスに案内され、相手が誰かも知らずに乗り込むと、車内に欽ちゃん(萩本欽一)の姿。その時まで久米サンは、欽ちゃんが業界で “大将” と呼ばれていることを知らなかったという。―― “久米ちゃん、今聴いてたよ。面白いね”
萩本欽一の推薦で「ぴったしカン・カン」の司会に
それから1ヶ月ほどして、TBSで新番組のオーディションをやるから来ないかと先輩に言われてスタッフルームに行くと、簡単なクイズ番組の司会を30分ほどやらされたという。ほどなくして、久米サンは合格を知らされ、晴れて新番組の司会に就任する。番組名は『ぴったしカン・カン』。久米サンを司会に推薦したのは、欽ちゃんだった。
1975年は久米サンにとって、第二の飛躍の年になった。先の『ぴったしカン・カン』に加え、同じく新番組の『料理天国』にリポーターとして起用される。どちらも視聴率がたちまち20%を超え、TBSの人気番組となった。ただ、お陰で、それまでラジオで声しか知られていなかった久米サンの面が割れ、『土曜ワイドラジオTOKYO』で以前のような「隠しマイク作戦」などのムチャなリポートができなくなる “副作用” も起きた。
しかし―― 災い転じて福となす。1978年4月、久米サンは番組内リポーターを卒業して、晴れて同番組の3代目パーソナリティに就任する。そして、『土曜ワイドラジオTOKYO』の代名詞とも言われる、あのヒット企画が誕生する。「素朴な疑問コーナー」である。
例えば、ある回ではリスナーからこんなハガキが舞い込んだ。“ヤクザの人たちは『西部警察』を見る時、刑事の側に感情移入するのでしょうか。それとも犯人のヤクザの側に感情移入するのでしょうか” ―― 実に同コーナーらしい、どーでもいい質問である(褒めてます)。これに対して久米サン、しっかり××組の事務所に電話をかけ、件の質問をしたところ、電話口の若い衆、ちょっと考えてから大マジメにこう答えたそう。“1人で見ている時は刑事の側を応援するが、組でみんなで見ている時はヤクザの側を応援します” ――。
フリーに転じるキッカケになった「料理天国」
閑話休題。テレビの話に戻るけど、前述の『ぴったしカン・カン』で、久米サンはその軽妙洒脱な司会ぶりが評判となり、あれよあれよと全国区の人気アナの仲間入りをする。ラジオの『土曜ワイドラジオTOKYO』は関東ローカルだったので、このタイミングで久米サンを知った人も多いだろう。ちなみに、伏字を表す “ホニャララ” なる造語は、同番組で久米サンが発明したものである。
そして――『ぴったしカン・カン』で久米サンが得た最も大きな財産が生放送への耐性だった。というのも同番組、毎週火曜日に生でオンエアして、その直後に翌週分を疑似生で収録。その方針は編集嫌いの欽ちゃんの意向だったが、図らずして久米サンの2つとない強みになるのだから、人の運命というのは面白い。ちなみに、黒柳徹子サンも『徹子の部屋』(テレビ朝日系)を疑似生で収録しているのは有名な話。後に司会を組む2人には、そんな共通点があったのである。
一方、『料理天国』では、総合司会を芳村真理サン、アシスタントMCを西川きよしサンが務め、久米サンは「味は道づれ」なるゲストの行きつけの店を紹介するコーナーMCだったが、同番組できよし師匠と出会えた経験が、後にフリーに転じるキッカケになったという。
同番組は、それまでになかった豪華な料理バラエティショーであり、時に収録が深夜に及ぶことも珍しくなかったという。しかし、きよし師匠はどんなに時間が押しても、一切、文句を言わずに、常に全力で番組に臨んだ。ソレを見て久米サン、生活が保障されたサラリーマンの自分と違い、病気やケガで倒れたら代役を立てられるタレントという立場の脆弱さを知り、いつか同じ土俵で仕事をしなければフェアじゃないと、密かにフリー転身への志を抱いたそう。
テレビ史上最高!黒柳徹子との最高コンビ「ザ・ベストテン」
さて、2つの番組のヒットで、図らずも久米サンはラジオからテレビへと軸足を移しつつあった。それを決定づけたのが、あの歴史的番組である。
1978年1月19日、『ザ・ベストテン』(TBS系)がスタートする。司会は、黒柳徹子サンと久米宏アナ(*番組開始当初はTBSの局アナである)。久米サンを推薦したのは、黒柳サンだった。彼女は永六輔サンと旧知の仲で、よく『土曜ワイドラジオTOKYO』にゲストで呼ばれた。その際、リポーターとして声だけ聴く久米サンを “なんだかとっても大胆で、おかしなリポートをする人がいるなぁ” と思っていたそう。
ある日、中継終わりで久米サンがTBSの副調整室に弁当を取りに来た時、たまたま黒柳サンがゲストで、永サンから “あれがリポーターの久米だよ” と教えられ、それまで小柄で太ったコメディアンと思っていた人物が、身長180センチのひょろっとした男で、“なんて喋りと外見にギャップがある人なんだろう” と驚いたエピソードが残されている。
かくして、日本のテレビ史において、史上最高コンビと評される司会者2人による生放送の音楽番組が誕生する。ここで、コラムの冒頭で紹介したあの言葉に戻りたい。
生放送ゆえのハプニングも珍しくなかった「ザ・ベストテン」
『ザ・ベストテン』はバラエティの形を借りたニュース番組でした。
―― そう、ベストテンは単なる音楽番組の枠に収まらず、時代を映す鏡のように、ニュースにあふれていた。
奇しくも、久米サンがベストテンに在籍した1978年1月から1985年4月までの7年は、日本の音楽界が大きく変貌した “過渡期” だった。番組黎明期の1970年代末はニューミュージック勢の活躍が目立ち、1980年代を迎えると、今度は松田聖子サンを筆頭に、アイドルの黄金時代が到来した。ヒットソングと共に出場歌手は刻々と入れ替わった。CMや映画など、メディアの垣根を越えてヒットソングが生まれるクロスオーバーが進んだのも同時代の特徴だった。
生放送ゆえのハプニングも珍しくなかった。例えば “テレビには出ない” と公言した松山千春サンが、ファンのリクエストで1位になったのを機にコンサート会場から中継出演して、当初予定の3分間の独白が8分間にも及び、その煽りで山口百恵サンの歌唱の時間がなくなったり、シャネルズ(現:ラッツ&スター)が「ランナウェイ」でランクインした際、中継先の1人の少年が何気に発した “黒人のくせに……” の発言に、黒柳徹子サンが少年を悪者にしないよう配慮しつつ、涙で人種差別の非を訴えたり── と、常にドキュメンタリーの様相を呈していた。
“テレビにしかできない、これがテレビだ!” という番組
久米宏サンがTBSを退社して、フリーになったのは意外と早く、ベストテンがスタートして1年半が経過した1979年7月である。そして、かねてより話のあった企画・制作プロダクションのオフィス・トゥー・ワンに所属する。社長の海老名俊則サンは、久米サンがTBSにいた頃から “いずれ報道番組を" と秋波を送り続けていたという。
いつからか、久米サンは毎週、事務所主催の定例の新番組の企画会議に参加するようになった。場所は南青山のとあるマンションの一室。いつしか “青山会議” と呼ばれるようになった会議は、ディレクター以外にも、CMカメラマンや映画監督など、テレビの枠を超えて、様々な人材が集った。実はその部屋、1981年に飛行機事故で亡くなった脚本家の向田邦子サンが生前、住まわれていた部屋。趣味のよい家具や調度品、絵画や観葉植物などがそのまま置かれていたという。
最初はフリーディスカッションで進んでいた会議も、次第に具体的なアウトラインが見えてきた。久米サンの思いは、“テレビにしかできない、これがテレビだ!” という番組。突き詰めれば、それは “生放送” ということになる。次に何が起こるかわからないのが生の特性で、テレビの本質である。ならば、新聞を読まない視聴者にもわかりやすく情報を伝える報道番組、リズミカルな呼吸のあるニュースショーはどうかと。もちろん、テレビに必要なエンターテインメント性は外せない――。
横山やすしとのコンビでスタートした「久米宏のTVスクランブル」
驚くべきことに、この段階で、既に『ニュースステーション』のひな型ができていた。だが、ここから生まれた番組はそれではない。局も違う。1982年10月にスタートした情報バラエティ『久米宏のTVスクランブル』(日本テレビ系)である。政治、経済だけでなく、風俗や流行など硬軟織り交ぜた旬のネタのVTRを毎回10本程度流し、それについて、出演者らが自由に意見を言い合うというフォーマットだった。
メインパーソナリティはご承知の通り、久米宏サンと横山やすしサンのコンビである。やすしサンを推薦したのは、当の久米サンだった。以前、『料理天国』で共演する西川きよしサンに “やっさんに会ってみ、面白いから” と紹介してもらい、同番組の「味は道づれ」のコーナーで共演して、その本音を通す姿勢に心を動かされたという。“やすしさんの存在は欠かせない。やすしさんさえ口説けたら、この番組はできる” ――。
久米サンのオーダーに事務所側が動き、横山やすしサンの出演が決まる。狙い通り、その起用は当たった。生放送ゆえに、いつ放送禁止用語を吐くか分からない緊張感もさることながら、時に酒を飲んで出演し、番組中にヘベレケになることも。本番中にトイレに行ったきり、帰ってこないことも――。その無軌道ぶり、ドキュメント感が生放送に緊張感を生み、番組は話題になった。視聴率も裏が大河ドラマながら、15〜16%と健闘した。
ただ、番組は1985年3月、余力を残した状態で終わる。久米宏サンが同年10月からテレビ朝日で『ニュースステーション』を始めるにあたり、半年間のインターバルを置くためである。前年(1984年)11月に横山やすしサンが無断欠席から番組を降板させられたことで、久米サンが当初思い描いた番組の非・予定調和感が崩れたコトも大きかった。永遠にやすしサンが出演を続けるのは土台無理な話だったし、いいタイミングで終わったのかもしれない。
既存のニュースの枠内に収まらなかった「ニュースステーション」
ここから先の話は長くない。
ご承知の通り、久米サンは『ニュースステーション』に専念するために1984年3月、『おしゃれ』(日本テレビ系)を除く、すべてのレギュラー番組を降板する。ベストテンのみ1ヶ月延ばして4月になったが、この時点では『ニュースステーション』の話は公言できず、多くの関係者に迷惑をかけたと、後に久米サンは述懐している。この番組の存在がスポーツ紙にすっぱ抜かれ、テレ朝が正式発表するのは、番組開始まで3ヶ月を切った1985年7月29日だった。
考えてみたら、久米サンがTBSに入社してから、ベストテンを降板するまでが18年。そして『ニュースステーション』開始から、同番組終了までが18年半である。いくら生放送に強いとはいえ、18年半、1時間以上のニュース番組を続けるのは、並大抵のコトじゃなかったはず。ただ、それができたのは、『ニュースステーション』が既存のニュースの枠内に収まらず、テレビの使命である(広義の)エンターテインメントを忘れず、スポーツ報道を厚くし、時のゲストとのトークを楽しみ、夜桜中継などの季節感も取り入れ、何より久米サンが言いたいコトを言えたからじゃないだろうか。
よく、日本のニュース番組は『ニュースステーション』以降、キャスターが意見を言うのが当たり前になって劣化したという声が散見される。確かに、欧米のニュース番組では、基本、アンカーパーソン(日本で言うキャスター)は自分の考えを述べない。意見が割れそうな案件には、専門家を2人呼んで、それぞれの立場の意見を聞いて、その判断は視聴者に委ねる。それがジャーナリズムの矜持とされる。
去り際まで実に久米宏らしかった「ニュースステーション」
ただ、『ニュースステーション』の場合、そのカテゴリーは、あくまでニュースショーである。しかも久米サン自身 “私はニュースキャスターではなく、ニュース番組の司会者です” と公言していた通り、どちらかと言えば、送り手より視聴者の立ち位置に近かった。つまり、隣にいる小宮悦子サン(久米サンが彼女を呼ぶ “悦ちゃん” もよかったですナ)が読むニュースを聞いて、その感想をポツリとつぶやく。
しかも通り一遍のコメントではなく、ちょっと視点を外すのが久米サン流だった。ある時は、何か文句を言うかと見せかけて “……コマーシャルです” とやって無言の抗議を示したりと、そのコメントには “クリエイティブ” があった。昨今の政府批判に終始する凡百のキャスターとは、器が違うのである。
2004年3月26日、『ニュースステーション』が終了した。ラストは久米サンが自分へのご褒美と称して、後ろの冷蔵庫から瓶ビールと冷えたグラスを1つ取り出し、隣の渡辺真理サンが “1つじゃないですか” と聞くと “当たり前ですよ!”(これぞ久米節である)と返して、“じゃ、乾杯!” と一気に飲み干した。変に感傷的にならず、遊び心を忘れず、何より生放送らしさ(まさかビールを飲むとはお茶の間は1人も想像できなかったはず)を最大限に生かした、去り際まで実に久米サンらしかった。
『ニュースステーション』終了から2年半後となる2006年10月、久米宏サンは古巣のTBSラジオで新たなレギュラー番組を始めた。『久米宏 ラジオなんですけど』である。1985年3月に同局の『土曜ワイドラジオTOKYO』を降板して以来、実に21年ぶりとなるラジオ番組のパーソナリティだった。思うに、それはラジオが拾ってくれた自身のアナウンサー人生に対して、久米サンなりの恩返しだったのではないか。
2026年1月1日、久米宏サンは天国に旅立った。享年81。お正月で皆がワイワイ楽しんでる時に、“お先に” と人知れずサッと立ち去るなんて、去り際までなんてカッコいいんだ。ご冥福をお祈りいたします。
<参考文献>
・久米宏です。ニュースステーションはザ・ベストテンだった / 久米宏(朝日新聞出版)