敗れて自害した武将は、なぜ500年後に「神」となったのか? 楠木正成の死後に変わった評価
南北朝の動乱を生きた武将・楠木正成(くすのきまさしげ)は、後醍醐天皇に従って鎌倉幕府と戦い、最後は湊川(みなとがわ)の戦いで足利尊氏軍に敗れて命を落とした人物です。
正成は一国を支配した大名でも、天下を取った武将でもありません。
それどころか出自には不明な点が多く、既存の荘園支配などに抵抗した「悪党」と呼ばれる武装勢力の代表的な人物でもありました。
しかし死後、その評価は時代とともに大きく変化し、江戸時代には忠臣として崇敬され、明治時代には神戸の湊川神社に神として祀られることになります。
敗れて死んだ一人の武将が、なぜ500年以上の時を経て「神」となったのでしょうか。
今回は楠木正成の生涯をたどりながら、後世に「楠公」として崇敬され、湊川神社の祭神となるまでの経緯について見ていきます。
湊川神社
智・仁・勇の三徳を備えた名将として、楠木正成公をお祀りしているのが、神戸市中央区にある湊川神社です。
1872年(明治5年)に創建され、現在では「楠公さん」の名で親しまれ、安産祈願やお宮参り、七五三、厄除など、家族の人生の節目に多くの人が訪れています。
主祭神は楠木正成公で、その子の楠木正行公のほか、後述する湊川の戦いで正成とともに亡くなった一族16柱、さらに菊池武吉卿が配祀されています。
ただし、正成が亡くなってすぐに彼を祀る神社が建てられたわけではありません。
江戸時代の1692年(元禄5年)、正成を深く敬っていた水戸藩主・徳川光圀が、この地に「嗚呼忠臣楠子之墓」と刻んだ墓碑を建立しました。
これをきっかけに正成の墓所は広く知られるようになり、幕末には吉田松陰や坂本龍馬をはじめ、多くの志士たちもこの地を訪れています。
やがて幕末には、正成を祀る神社を建てようとする動きも高まりました。
1868年(明治元年)には伊藤博文らが湊川への楠社創建を建議し、同年、明治天皇から神社創祀の沙汰が下されます。
そして1872年(明治5年)、正成の墓所と殉節地を含む場所に湊川神社が創建されました。
創建当時の社殿は太平洋戦争の戦災で焼失し、現在の社殿は1952年(昭和27年)に再建されたものです。
楠木正成公の生涯
楠木正成の生年や出生地については、実ははっきりしたことが分かっていません。
ただ、鎌倉時代末期には河内国南部、現在の大阪府千早赤阪村周辺を拠点として活動していたことが知られています。
時の鎌倉幕府では、北条得宗家を中心とした政治が続く一方、各地では御家人の困窮や荘園をめぐる争いなどが広がっていました。
こうした中で幕府打倒を目指したのが、後醍醐天皇です。
『太平記』では、笠置山に逃れた後醍醐天皇が夢のお告げによって正成の存在を知り、彼を召し出したという劇的な出会いが描かれています。ただし実際の正成は、それ以前から反幕府勢力として活動していたとみられています。
1331年、正成は河内の赤坂城に拠って幕府軍を迎え撃ちました。
奇策を用いて大軍を翻弄したと伝えられていますが、やがて城を守り切れなくなると、城に火を放って脱出します。
一方、笠置山の後醍醐天皇も幕府軍に敗れて捕らえられ、翌年には隠岐へ流され、討幕に加わった側近たちも処刑や流罪に処されました。
しかし1332年、正成は再び河内で挙兵し、翌1333年には千早城に籠もって幕府軍と戦います。
正成方はわずかな兵力で幕府軍を長く足止めし、その間に播磨では赤松円心が挙兵するなど、各地で反幕府の動きが一気に広がっていきました。
やがて足利高氏が六波羅探題を攻略し、新田義貞も鎌倉へ攻め込みます。
こうして1333年、約150年続いた鎌倉幕府は滅亡したのです。
隠岐を脱出していた後醍醐天皇は京都へ戻り、自ら政治を行う「建武の新政」を始めます。
正成もまた、その政権を支える有力な武将の一人となりました。
しかし、建武2年(1335年)、中先代の乱を鎮圧するため鎌倉へ下った足利尊氏は、やがて後醍醐天皇の建武政権と対立するようになります。
一度は京都を追われて九州へ退いた尊氏でしたが、態勢を立て直すと大軍を率いて再び東上しました。
これに対して正成は、尊氏の大軍と正面から戦うことを避ける策を朝廷に進言したと『太平記』には記されています。
しかし、その策は受け入れられず、正成は新田義貞らとともに尊氏軍を迎え撃つため兵庫へ向かうことになりました。
その途中、桜井の駅(現在の大阪府島本町)で嫡男の正行と別れたという「桜井の別れ」は、正成をめぐる有名な逸話です。
正成は正行を河内へ帰し、自分が死んだ後も朝廷に忠義を尽くすよう諭したと伝えられています。
そして1336年(建武3年)5月25日、正成らは湊川で足利尊氏・直義兄弟の軍と激突しました。
正成の軍勢はわずか700騎ほどだったとされ、激戦の末には73騎まで減ったとも伝えられています。
最期は弟の正季とともに自害し、楠木正成は湊川の戦いでその生涯を閉じたのです。
その後、後醍醐天皇は一時比叡山へ退き、尊氏側との交渉を経て京都へ戻りますが、やがて京都を脱出して吉野へ移ります。
一方、尊氏側は京都で光明天皇を擁立したため、ここから朝廷が南北に分かれて争う南北朝時代が本格的に始まったのです。
神として祀られている武将達
日本では、武将が死後に神として祀られる例は決して珍しくありません。
徳川家康は東照大権現として日光東照宮に祀られ、豊臣秀吉や織田信長、上杉謙信、武田信玄なども、それぞれ各地の神社で祭神となっています。
しかし、楠木正成は彼らとは少し事情が異なります。天下人になったわけでも、一国を治めた大名でもありません。
最後は湊川の戦いで足利尊氏軍に敗れ、自害した武将です。
江戸時代から広がっていた楠木正成への崇敬は、明治以降になると国家的な「忠臣」像へと組み込まれていきました。
学校教育などでも、正成は後醍醐天皇への忠義を最後まで貫いた武将として取り上げられ、戦時期には忠君愛国を象徴する人物の一人として、さらに強く称揚されるようになります。
しかし、戦後になってこうした国家的な顕彰が大きく後退した後も、正成そのものへの関心や崇敬が消えたわけではありません。
現在でも天皇への忠義という側面だけでなく、敗北を覚悟しながらも自らの信念を貫いた武将として、その生き方に惹かれる人も多いでしょう。
『太平記』によって英雄として語られ、江戸時代には忠臣として崇敬され、明治以降には国家的な象徴にもなった楠木正成。
その人物像は時代によって姿を変えながら、現在まで受け継がれているのです。
参考:
『太平記』、大森北義「『太平記』の『文学』と楠木正成」『軍記と語り物』第51号、2015年
湊川神社公式サイト「御由緒」「御創建」他
文/撮影:草の実堂編集部