#2 日本にあふれている「あわい」とは? 安田登さんと読む『平家物語』【別冊NHK100分de名著】
安田登さんによる『平家物語』読み解き #2
公家の時代から武家の時代へ、平家から源氏へ。時代の転換期のダイナミズムを描いた『平家物語』。平家はなぜ栄華をきわめ、没落していったのか。戦乱のなか、人々は何を思い、どう行動したのでしょうか。
『平家物語』を知り尽くした博覧強記の能楽師・安田登さんが、難解で長大な物語を「大きな出来事」に絞って解説する『NHK別冊100分de名著 平家物語 こうして時代は転換した』では、時代が動くとき、世の価値観はどのように変化したのか。その変化のありようを私たちが生かせる道とはどんなものなのかについて、読み解きとともに考えていきます。
全国の書店とNHK出版ECサイトで2025年10月まで開催中の「100分de名著」フェアを記念して、歴史が私たちに伝えようとしたことを探る本書より、その一部を公開します。(第2回/全7回)
日本にあふれている「あわい」
現代人が『平家物語』を読むときにもうひとつ意識したいキーワードがあります。それは「あわい」です。
「あわい」に似ている言葉に「あいだ(間)」がありますが、このふたつは少し違います。「あいだ」の語源は「空き処(ど)」で、AとBに挟まれた空間を言います。それに対して、「あわい」は「合う」を語源とし、AとBの重なるところ、交わった空間を言います。
日本は「あわい」にあふれています。
たとえば建築における「あわい」は縁側です。日本の家屋は三つの部分から成っています。ひとつは「うち」です。「うち(内)」は身内だけが入ることができる閉鎖空間です。それに対してよその人のための開かれた空間が「そと(外)」。そして、「うち」でもあり、「そと」でもある空間を「なか(中)」と言いました。仲間ならば入れる「なか」です。縁側はこの「なか」の空間であり、「うち」と「そと」との「あわい」の空間です。
夏の縁側で寝っ転がっていると友だちが「遊ぼ」と呼びに来るし、小春日和の縁側ではおばあちゃんが編み物をしている。その横では猫があくびをしていたりもする。縁側は建築空間であるだけでなく情緒をも宿す「あわい」の空間なのです。
和歌における「あわい」は掛詞(かけことば)ですし、茶室への石組も「あわい」で組まれる。音楽では雅楽(ががく)の笙(しょう)の手移り(運指法)なども「あわい」だし、日本文化には「あわい」があふれていて、書いていくと切りがない。
変化にも「あわい」があります。ものごとの変化には、ゆるゆると変わっていく「漸進型(ぜんしんがた)」と、あるときに突然変化する「跳躍(ちょうやく)型」とがあり、もうひとつその中間型があります。外から見ると変化していないように見えるけれども、内側でゆるゆると変化が行われている。そして、それが飽和点に達したときに外見も突然変化する。それが中間型で、「前適応(ぜんてきおう)型」の変化と言います。これが「あわい」の変化です。
時代の変化もそうです。ゆるゆると変わっていく漸進型の変化もあれば、突然変わる跳躍型の変化もあるし、前適応型の変化もある。特に、大きな時代の変化は前適応型で変化します。前適応型の変化の時代を「あわい」の時代と呼ぶならば、『平家物語』が描く時代はまさに「あわい」の時代でした。
学校では、平安時代は貴族の時代、鎌倉時代からが武士の時代と習います。しかし平家一門が権勢を誇っていたのは末期とはいいながらも平安時代です。貴族の時代ですが、その実権は武家がすでに握っていた。そして、それはそのまま鎌倉時代に移行し、武家政権として確立します。
『平家物語』の時代は、貴族の時代と武士の時代との「あわい」の時代なのです。
「魚の目に水は見えない」と言われるように、その渦中(かちゅう)にいる人は、いまが「あわい」の時代であるということにはっきりとは気づきません。
たとえば『平家物語』の時代に生きた藤原定家(ふじわらのさだいえ)。彼の日記『明月記(めいげつき)』を読むと、彼はそのとき自分が大きな変化のただ中にいることに気づいていない。しかし、日記の中で藤原定家はいつも気分や体調がすぐれないと愚痴をこぼしています。なぜ、武士はああなんだ、理解できないと不満をもらしています。変化そのものは見えなくとも、それは気持ちや体調の変化として現れているのです。
『平家物語』の「あわい」とは
「あわい」の時代は大きな変化を呼びます。そのときに起きることがもうひとつの『平家物語』のキーワード、「諸行無常」です。
諸行無常の「行」は、仏教における五蘊(ごうん)の「行」です。五蘊とは、私たち人間を成り立たせている「色受想行識(しきじゅそうぎょうしき)」という五つの要素のことを言います。「色」は存在そのものを言い、「受想行識」はそれを認識する五つの方法を言いますが、その中でも「行」は特別な認識方法です。
「受(vedanā)」は「知る」を意味するサンスクリット語の語根「vid」の使役名詞で、ある刺激によって感受する認識作用を言います。「想(samjñā)」の語根「jñā」もやはり「知る」。それに集合を意味する「sam」がついて、全体的なイメージとして知ることを言います。「識(vijñāna)」は語根「jñā」にふたつに分けるという意味の「vi」がついて「分けて」知ること、すなわち、識別での認識です。
そして「行(samskāra)」は、「まとめる、整える」という意味で、意識・無意識すべてをひっくるめて行う認識作用です。
「諸行無常」とは、無意識の領域までもがごっそりと変化してしまうことを言います。「あわい」の時代とは、無意識の領域までもがすべて変化する、そんな大きな変化の時代なのです。
そして、いまもまさに「あわい」の時代ではないでしょうか。
現代が大きな変化に差し掛かっているということは、多くの人が言っています。新型コロナウイルスによるパンデミックも、この変化を加速するものでしょう。そして、「あわい」の渦中にいる私たちにはその変化がはっきりとは見えません。しかし、藤原定家と同じく、なんとなく気分や体調がすぐれなかったり、いろいろなことに不満を感じたりする。これは「あわい」の時代の渦中にいるひとつの証(あかし)なのかもしれません。
『平家物語』は、「あわい」の時代が終わってから書かれました。ですから、私たちはその変化を俯瞰的(ふかんてき)に眺めることができます。『平家物語』を読むことによって、これからやって来る次の時代を見据えることができるかもしれません。
最後に大事なことをひとつ付け加えると、『平家物語』はフィクションです。実際に起きた歴史上の出来事をベースにしてはいますが、細かいところで史実と異なる部分が数多くあります。また、『平家物語』の登場人物たちにはある種のキャラクター化が施(ほどこ)されている場合が多々ある。
本書では、実際の歴史がどうだったのかということよりも、そうしたキャラクター化や象徴化に込められた意味を読み解きながら、物語としての『平家物語』を味わっていくことにしましょう。
■『別冊NHK100分de名著 集中講義 平家物語 こうして時代は転換した』(安田登 著)より抜粋
■脚注、図版、写真、ルビは権利などの関係上、記事から割愛しております。詳しくは書籍をご覧ください。
※本書における『平家物語』『太平記』の原文および現代語訳の引用は『新編 日本古典文学全集』(小学館)に拠ります。読みやすさを考慮し、現代語訳の一部に手を加えています。
著者
安田 登(やすだ・のぼる)
能楽師。1956年千葉県生まれ。下掛宝生流ワキ方能楽師。関西大学(総合情報学部)特任教授。高校教師時代に能と出会う。ワキ方の重鎮、鏑木岑男師の謡に衝撃を受け、27歳で入門。現在はワキ方の能楽師として国内外を問わず活躍し、能のメソッドを使った作品の創作、演出、出演などを行うかたわら、『論語』などを学ぶ寺子屋「遊学塾」を全国各地で開催。日本と中国の古典の「身体性」を読み直す試みにも取り組んでいる。
※著者略歴は全て刊行当時の情報です。
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