【西洋美術vs日本美術】絵画の権威を破壊した「わかりやすさ」―写実主義と写生画の台頭
西洋美術と日本美術。距離の離れた2つの美術史は、あまり関係し合わずに進みますが、ときに奇跡的なシンクロが起こります。 今回は、よく言われる 「絵画を楽しむには、知識が必要」 という話題について。 正論ではありますが、どんな言葉で誰に向けて言うかは気をつけたいと思っています。 アートに興味を持ちはじめたばかりの人に、Uターンしてほしくはないですから…。
ジャン=フランソワ・ミレー《落穂拾い》
せっかく名画が目の前にあるのに、「机に向かって本を読み、知識を身につけなければ、この絵の意味は理解できませんよ」と言われたらムッとしませんか? これ、どうやら昔の人々も同じだったみたいです。
あるときから、西洋でも日本でも、知識の有無に関係なく楽しめる絵が注目されるようになりました。それが、西洋美術における「写実主義」と、日本美術における「写生画」です。
今回は、「わかりやすい絵画のはじまり」について、西洋美術と日本美術を比べてみましょう。
現実に目を向けた写実主義―市民に開かれた西洋美術
18世紀から19世紀にかけて、ヨーロッパの美術は大きな変化の時代を迎えます。美術の中心地だったフランスでは、新古典主義→ロマン主義→写実主義→印象主義と、次々に新しい様式が生まれ、流行が移り変わりました。
ギュスターヴ・クールベ《こんにちは、クールベさん》
この記事で取り上げたい「写実主義」は、「ありのままの現実を描いた芸術潮流」と説明されます。間違ってはいないのですが、現代の感覚だと違和感がなさすぎて、何がポイントなのか分かりにくくはないでしょうか?
そこで、写実主義の少し前のトレンド、新古典主義とロマン主義から見てみましょう。
ドミニク・アングル《アンジェリカを救うルッジェーロ》
【新古典主義】
古代ギリシャ・ローマの美術にあった崇高さ・壮大さを理想とする美術の流れ。上の絵画は新古典主義を代表する画家アングルの作品。
ウジェーヌ・ドラクロワ《民衆を導く自由の女神》
【ロマン主義】
理性的な新古典主義に対抗する、激しい感情や非現実的な幻想を表現した美術の流れ。上の絵画はロマン主義を代表する画家ドラクロワの作品。
いずれも18世紀のフランス美術を代表する様式で、先に新古典主義が生まれ、対抗する形でロマン主義が台頭。その2つにまとめて対抗する姿勢を見せたのが、19世紀の「写実主義」です。
エドゥアール・マネ《草上の昼食》
新古典主義とロマン主義が追い求めた芸術は、一見正反対のようですが、実は重要な共通点があります。それは、「描かれるテーマが現実離れしている」ことです。
当時、絵画はテーマによって序列があり、神話画や歴史画の位がもっとも高いとされていました。神話や歴史を描いたためか、新古典主義もロマン主義も、目の前にある社会の現実から遠ざかる傾向がありました。
オノレ・ドーミエ《三頭客車》
この潮流に逆らったのが、クールベやマネなど写実主義の画家たちです。彼らは、格差が存在する不平等な社会や、都市化を逃れた郊外の自然風景を、理想化や美化をせずに生々しく描き出しました。
写実主義が「ありのままの現実を描いた芸術潮流」と説明されるのは、このような背景があるためです。たとえ醜悪でも現実を直視し、絵画にして世間に突きつけたのですね。
ギュスターヴ・クールベ《波》
そんな写実主義は、社会派なパッションに溢れてとてもかっこいいのですが、大きな特徴に「わかりやすさ」があると考えています。
神話画や歴史画は、描くために神話や歴史の知識が必要なジャンル。そして、見る側にも同じ知識が要求されました。
一方、写実主義の画家たちがテーマとしたのはその時代の「現実」です。絵を見るときに、神話や歴史の知識はそこまで重要ではありません。同じ時代を生きる人なら誰もが、絵画を見て何かしら感じ取っていたでしょう。
オノレ・ドーミエ《ガルガンチュア》(1831年 ルイ・フィリップの七月王政を風刺したもの)
たとえば、風刺版画家としても知られるオノレ・ドーミエは、腐敗した政治をユーモアたっぷりに皮肉る版画作品で人気を博しました。労働者のリアルな暮らしを描いた絵画も多く、近年は芸術家としての評価も高まっています。
ジャン=フランソワ・ミレー《種まく人》
バルビゾン派のジャン=フランソワ・ミレーは農民画で知られる画家で、農民の生活や労働をテーマに制作しました。格差や貧困を思わずにはいられないものの、彼が描き出す農民は堂々として気高く、ミレーが抱いた賛美すら感じられます。後期印象派の巨匠ファン・ゴッホも、大いに影響を受けました。
また、写実主義を代表する画家ギュスターヴ・クールベは、美術界にはびこる暗黙のタブーを次々に打ち破りました。わかりやすい例が《オルナンの埋葬》です。
ギュスターヴ・クールベ《オルナンの埋葬》
当時の主流な考えでは、大画面は歴史画に与えられるものでした。巨大なキャンバスに名もない村人の葬式を描いたクールベに対し、美術界は猛反発。そんなことで…と感じますが、本作はパリ万博での展示を拒否されました。
しかし、クールベは万博会場のすぐ近くで自作を見せるための展覧会を開催。これが世界初の個展となったのですが、権威への反骨精神がうかがえるエピソードです。
ギュスターヴ・クールベ《画家のアトリエ》
このように、画家の関心は理想から現実へと移り変わっていきました。同時に、絵画を求める人のニーズにも変化が。当時のフランスでは、産業革命にともなって裕福な市民が生まれ、絵画の買い手は貴族から市民へと移行。求められる絵画も、知識や教養が必要な貴族好みの作品から、写実主義のような「わかりやすい作品」へと変化したのです。
つまり、新古典主義・ロマン主義への対抗と、裕福な市民の台頭とが噛み合わさり、写実主義の芸術が開花。エリート的な知識がなくても鑑賞できる絵画が人気を集めるようになりました。
クロード・モネ《日の出・印象》
写実主義に始まる「ありのままの現実を描く」という流れは、その後、モネやルノワールをはじめとする印象主義にも受け継がれていきます。ちなみに日本では、西洋美術のなかで印象主義の人気が突出して高いのですが、西洋の歴史や神話の知識がなくても楽しめるからではないか…と言われることがあります。
様式から写生へ―応挙や若冲が席巻した日本美術
円山応挙《雪松図》(右隻)
わかりやすい絵画が求められる流れは、18世紀の日本でも起こります。西洋とほぼ同時ですが、日本の方が少しだけ早めでした。
日本美術の一大流派といえば、狩野派です。室町時代に始まった狩野派は数々の天才絵師を輩出し、天下人の寵愛を受けて日本で最大の派閥となるのですが、江戸時代に入ると徐々に失速。続々と登場する斬新な画家たちの勢いに押される形となりました。
狩野探幽《春景図》
狩野派が失速した主な理由は、「派閥の画家たちが似たような絵ばかりを描き、再生産に徹したから」と言えます。
狩野派に限りませんが、日本の画家たちの最大のミッションは、師匠の画風をまねて次の世代に受け継ぐことでした。画家たちにとって絵の練習とは、師匠の手本を忠実に描き写すこと。絵の上達とは、師匠と同じように描けるようになること。現実の人間や自然がどうなっていようと構いません。師匠の絵が最高の教科書でした。
円山応挙《孔雀図》
イノベーションの起こらない構図に切り込んだのが、江戸時代に京都で活躍した画家、円山応挙です。応挙の特徴は、写生を重視して絵を描いたこと。狩野派もかじった画家ですが、写生、すなわち現実をお手本とするスタイルを確立しました。現代の感覚だと普通なように思えますが、当時としては画期的なアイデアです。
応挙は身近な動物や植物をよく観察して手を動かし、実物の「らしさ」を追求しました。頭の中で再構成して絵画に落とし込んでいたらしく、ありのままの現実を描いたわけではありませんが、実物の特徴をより「それらしい美しさ」で表現できたのが応挙の凄いところです。
円山応挙《朝顔狗子図杉戸》
狩野派などの絵師たちが師匠の絵を手本とし、現実から離れて絵を描いていた頃、応挙は現実を見つめていました。なんだか、西洋の写実主義の画家たちが重なります。
さらに、文芸の素養がなくても楽しめる応挙の画風は、江戸時代になって力を持った商人を中心に、さまざまな階層から支持を得ました。ここにも、西洋の写実主義と同じにおいがしませんか?
長沢芦雪《虎図》
写生を重んじたのは、応挙だけではありません。一世を風靡した応挙のもとには、大勢の弟子が集まり、その数は1000人とも。長沢芦雪はその筆頭として知られています。
応挙を祖とする系譜を「円山派」、応挙や与謝蕪村に学んだ呉春を祖とする系譜を「四条派」と呼びますが、明確な区分はせず、あわせて「円山四条派」と呼ぶのが一般的です。
竹内栖鳳《班猫》
狩野派が勢いを落としたのに対し、江戸時代に始まった円山四条派は主流へと躍進することに。明治期の京都画壇を率いた竹内栖鳳をはじめ、以降も写生画の遺伝子は脈々と受け継がれ、現代の日本画家たちにも影響を及ぼしています。
伊藤若冲《動植綵絵》「南天雄鶏図」
もうひとり、応挙と並ぶ写生画の重要画家が、江戸時代に活躍した伊藤若冲です。実は、応挙に先んじて写生画に取り組んだ画家として知られています。
若冲もはじめは狩野派に学びますが、写生の重要さを感じ、自宅で鶏を飼育し始めました。どうやら鶏を気に入っていたようで、若冲は鶏の作品を数多く残しています。国宝《動植綵絵》にも多様なポーズの鶏が登場し、若冲の観察力とデフォルメのセンスをうかがい知ることができます。
美術を見るために知識は必要か?
エドゥアール・マネ《オランピア》
社会の変化にともなって、美術は権力者のものから民衆のものへと変化しました。それに伴い、人気を集める絵画の傾向も変化。現実離れした絵より、現実に即した絵の方がわかりやすく、民衆の共感を得やすかったようです。
西洋美術では写実主義の画家たちが、日本美術では写生画の画家たちが、絵画で現実を表現しました。西洋と日本という離れた場所で、似たような力学で美術に変化があったことは、興味深くはないでしょうか?
伊藤若冲《樹花鳥獣図屏風》(右隻)
ここで冒頭を振り返ってみたいのですが、
「絵画を楽しむには、知識が必要」
と、よく言われる話をしました。難しい絵よりもわかりやすい絵に人気が集中するのは、現代だけでなく昔からそうだったんです。たしかに、高度な読解が不要で感覚や共感で楽しめる作品は、古今東西にたくさん存在します。
ただし、わかりやすい絵だけを見て終わらないでほしいな、とも思います。机に向かうタイプの勉強はしなくていいので、美術館で気になったキーワードを調べてみるとか。
ジャン=フランソワ・ミレー《晩鐘》
少しの雑学や面白い小ネタが身についたら、もう一度「わかりやすい絵」に戻ってみてください。そうすると、写実主義や写生画の画家たちが何と戦っていたのかも、彼らの本当の凄みは何なのかも、見えてくるのではないでしょうか。
多くの人は、楽しくなる前に学ぶことをやめてしまいます。あと少しだけ踏ん張れれば、美術を見る喜びは一層大きなものになります。さらにもう少しだけ踏ん張れれば、もっと楽しくなるんです。
「わかりやすい絵」も「わかりにくい絵」も、知れば知るほど面白く見ることができます。当サイト、イロハニアートはその手助けになると思うので、ぜひ他の記事も読んでみてくださいね。