江戸時代の奈良は誰が治めた?奈良奉行と諸藩が入り組んだ大和の実像
奈良といえば、平城京や東大寺、興福寺など、古代の歴史を思い浮かべる人が多いでしょう。
都が京都へ移った後も奈良は長い歴史を歩み続けていましたが、江戸時代の姿はあまり語られることがありません。
江戸時代の奈良や大和は、どのような姿をしていたのでしょうか。
江戸時代の奈良・大和の政治的統治
江戸時代の奈良・大和は、東大寺や興福寺、春日大社などがそれぞれ寺社領を支配する一方、徳川直轄の天領は奈良町奉行や代官が統治し、そのほかにも藩領や旗本領が複雑に入り組んでいました。
大和国内の藩は時代によって改廃されましたが、幕末から明治初年には15万石の郡山藩をはじめ、高取藩、小泉藩、柳生藩、柳本藩、芝村藩、櫛羅藩、田原本藩の8藩が存在していました。
こうした複雑な統治が行われた背景には、奈良時代以来の有力寺社が広大な領地を持っていたこと、幕府が商業都市として栄える奈良を直轄地とし、その経済力を直接掌握しようとしたことが挙げられるでしょう。
天領を統治する奈良町奉行
奈良の町は、興福寺や東大寺などの寺社領に囲まれるように広がっており、町民が暮らす幕府直轄地は、奈良奉行の支配下に置かれていました。
具体的には、有力な町人の中から数人の惣年寄(そうとしより)が選ばれ、奉行の指図を受けて町政にあたり、そのもとに4〜5名の町代がいて、実務を担当するといった仕組みを構築していました。
17世紀末の調査では、奈良町の総町数は205、人口は約3万5千人となっています。
現在、観光地として知られる「ならまち」も、江戸時代に発展した奈良町の一部を受け継いでいます。
奈良町奉行が行政を行った奈良町奉行所は、現在の奈良女子大周辺の広範なエリアにありました。
その敷地は京都町奉行所や大坂町奉行所に比べてはるかに広大で、約8700坪に及んだと記録されています。
奈良町資料館には、奈良町奉行所の模型が展示されています。
奈良奉行の痕跡を現在に伝えるものは、あまり多くありません。
しかし、興福寺南円堂の南側を通る三条通りには、奈良奉行所の通達を記した高札が掲げられていた高札場(こうさつば)が復元されています。
また、猿沢池北側の五十二段付近に建つ「植桜楓之碑(しょくおうふうのひ)」にも、その痕跡を見ることができます。
この「植桜楓之碑」は、奈良奉行の中でも名奉行として知られる川路聖謨(かわじ としあきら)が、東大寺周辺や佐保川沿いなどに数千本の桜や楓を植えたことを顕彰するために建てられたものです。
これらの植樹は、現在の奈良公園周辺に残る風景の一部にもつながっています。
江戸幕府直轄地の姿と住民の暮らしぶり
江戸時代には、興福寺や東大寺はすでに巡礼や観光の地となっており、その周辺には門前町が形成され、旅籠や商家が立ち並んで大いににぎわっていました。
また、木辻(きつじ)などの遊郭も繁栄し、町の経済を支えました。
当時の奈良では「奈良晒(ならさらし)」と呼ばれる麻織物をはじめ、酒や墨、甲冑、刀、団扇などの特産品が全国的に知られ、商工業の町としても知られていました。
また、大和には幕府の直轄領が多く、藩領に比べて年貢の取り立てが緩やかだったため、農民は比較的豊かだったともいわれています。
ただし年貢の負担は地域や時期によって異なり、厳しい取り立てに苦しんだ村もあったようです。
忘れてはならない自治を貫いた今井町
一方、奈良には強い自治権を認められ、大いに栄えた今井町があります。
今井町は、織田信長が大和を支配下に置く過程でも、一向宗(浄土真宗)称念寺の門前町として抵抗を続け、巧みな交渉によって自治的な特権を認められました。
江戸時代になっても、その自治的な性格を色濃く残した環濠集落として発展し「大和の金は今井に七分あり」といわれるほど豪商が軒を連ね、大いに栄えました。
現在、今井町は重要伝統的建造物群保存地区に指定されており、国の重要文化財9件を含む約500棟の伝統的建造物が残されています。
その保存地区は全国でも最大級の規模を誇り、江戸時代の町並みを色濃く残しているのです。
参考 : 奈良市文化財課「奈良町の成立 中世から近世へ」「史料保存館企画展示 奈良奉行所」他
文:撮影 / 草の実堂編集部