なにが後醍醐天皇を討幕へと駆り立てたのか──安田登さんが読む『太平記』#4【別冊NHK100分de名著】
『太平記』の戦いの背景──安田登さんによる『太平記』読み解き #4
なぜ、ある者は勝ち、ある者は敗けたのか──。
博覧強記の能楽師・安田登さんによる『別冊NHK100分de名著 集中講義 太平記』は、これまでの日常と新しい日常が重なり合う「あわい」の時代に、歴史の方程式を学ぶ素材として日本最大の軍記物語『太平記』を読み解きます。
「公」と「武」の「あわい」、鎌倉時代と室町時代の「あわい」に描かれた『太平記』は、私たちにどんなヒントを与えてくれるのでしょうか。
今回は『太平記』への入り口として、その読み解きの一部を抜粋して公開します。(第4回/全5回)
後醍醐天皇、討幕に動く
高時が執権になると、幕府内部には暗君に対する不信に加え、ある不平不満が広がっていました。将軍と御家人の主従関係を支えてきた「御恩と奉公」の制度が、二度の元寇を機に有名無実化していたのです。
「御恩と奉公」は土地を仲立ちにした関係です。しかし、蒙古との戦いは防戦一方で戦利品がなかったため、基本的に恩賞がありませんでした。命がけで奉公してもタダ働き同然。なのに、暗君は闘犬を集めて献上しろと言う。御家人たちが「冗談じゃない」と憤るのも無理はありません。
しかし、その憤りは表面化しない。それも「あわいの時代」の特色です。皆が不満を内に抱えながら、それがぐつぐつ、ぐつぐつと飽和点に達するのを待っているのです。
そんななか、討幕に動いたのが後醍醐天皇です。そこには、無能な棟梁を討ち世を乱す元凶を絶つというだけに留まらない、格別な思いと事情がありました。
後醍醐天皇の六代前から、朝廷では二つの皇統(持明院統と大覚寺統)の皇子が交代で皇位に就く決まりになっていました。後醍醐天皇も、この両統迭立(りょうとうてつりつ)の原則に従って即位したのですが、実は甥の邦良(くによし)親王が成人するまでの、いわば中継ぎとして選ばれたに過ぎなかったのです。
そんな不遇の天皇が深く傾倒していたのが宋学(そうがく)です。宋学とは、中国宋代に生まれ、その後、中国思想の核を成すようになる儒教思想のことで、これを大成した朱子(しゅし)にちなんで朱子学とも呼ばれます。朱子が基本経典とした四書の一つ『論語』は「一人の王(周王)の下に国は統一されるべきだ」という思想のもとに書かれています。天皇一統による親政こそが理想の政(まつりごと)──その思いが後醍醐天皇を討幕へと駆り立てていったのです。
彼のサロンに集まっていた貴族たちも、幕府の権勢に押されて不遇をかこち、やはり宋学を熱心に修めていました。一三二四年、後醍醐天皇は、サロンの主要メンバーである日野資朝(ひのすけとも)・日野俊基(としもと)らと討幕を企てます。
しかし、これは未然に幕府の知るところとなり失敗しました(正中(しょうちゅう)の変)。まだ不満が飽和点に達していなかったのです。
本書『別冊 NHK100分de名著 集中講義 太平記』では、
第1講 『太平記』が描く「あわい」とは
第2講 時代に乗れる人、乗れない人
第3講 現世を動かすエネルギー
第4講 太平の世はいかに訪れるのか
補講 『太平記評判秘伝理尽鈔』を読む
という講義を通して、歴史を振り返ると見えてくる「波乱の時代で勝つための方程式」を、傑物たちの生きざまを分析しながら読み解きます。
■『別冊NHK100分de名著 集中講義 太平記 「歴史の方程式」を学べ』(安田登 著)より抜粋
■脚注、図版、写真、ルビは権利などの関係上、記事から割愛しております。詳しくは書籍をご覧ください。
※本書における『太平記』の引用(原文・現代語訳)は、水府明徳会彰考館蔵天正本を底本とする『新編日本古典文学全集』所収「太平記」(校注・訳=長谷川端、小学館)に拠ります。また、『太平記 ビギナーズ・クラシックス 日本の古典』(編=武田友宏、角川ソフィア文庫)も参照しました。
著者
安田 登(やすだ・のぼる)
能楽師。1956年、千葉県生まれ。下掛宝生流ワキ方能楽師。高校教師時代に能と出会う。ワキ方の重鎮、鏑木岑男師の謡に衝撃を受け、27歳で入門。ワキ方の能楽師として国内外を問わず活躍し、能のメソッドを使った作品の創作、演出、出演などを行うかたわら、『論語』などを学ぶ寺子屋「遊学塾」を全国各地で開催。おもな著書に『能 650年続いた仕掛けとは』(新潮新書)、『すごい論語』(ミシマ社)、『学びのきほん 役に立つ古典』『学びのきほん 使える儒教』『別冊NHK100分de名著 集中講義 平家物語』(NHK出版)、『見えないものを探す旅 旅と能と古典』『魔法のほね』(亜紀書房)、『野の古典』(紀伊國屋書店)など多数。
※著者略歴は全て刊行当時の情報です。