【視覚障害者の散歩】謎の叫び声、走る足音…そのときナビが告げた「目的地に到着しました」
早朝の散歩を再開した。
家から不忍(しのばず)通りを歩き、不忍池を越え、中央通りで折り返して戻ってくる。往復およそ7000歩のコースだ。
目の見えない私がどのように散歩をしているか、以下で紹介したい。そして、再開初日に起きた事件のことも──。
・春から始めるつもりだった散歩
本当は春から散歩を始めるつもりだった。
ところが、不忍池の信号待ちでカラスに頭を蹴られた。
人生47年で、まさかの2回目。
嘘のような本当の話だが、あまりにも不吉なので、その日から散歩を断念した。
そして7月某日。今度こそはと、早朝散歩を再開した初日のことである。
・目が見えない散歩
散歩をするとき、私は片手に白杖を持ち、耳には骨伝導イヤホン、首からスマートフォンをぶら下げている。
スマートフォンでは、視覚障害者向けナビアプリ「アイナビ」を起動。
目的地は、不忍通りから上野駅方面へ向かう途中にある中央通りを渡ったところ。
家から1分ほどの不忍通りには点字ブロックが続いている。
その誘導ブロックに白杖を滑らせながら歩く。
歩き慣れた道なので、神経使用率は30%ほど。
調子がいい日は20%くらいまで下がる。
油断しすぎという気もするが、それだけ心地よく歩けているということだ。
その心地よさをさらに増やしてくれるのが、アイナビである。
スマホのカメラが起動していて、横断歩道や点字ブロック、周囲の建物など近くに映るものを音声で教えてくれるのだ。
「目的地の中央通りまで1.6キロ」
信号に近づくと、小刻みな警戒音とともに、
「信号は赤です」
というように。
もちろん周囲の音や車の動きも確認するが、信号の色を知らせてくれるのは本当にありがたい。
さらに進むと、
「29メートル先、1時の方向、マルエツプチ池之端店」
ちなみに方角は、時計の文字盤に見立てたクロックポジションで教えてくれる。
建物の名前を聞くと見えていた頃の風景がよみがえってくる。
少し先の左側には、昔の電車が置かれた小さな公園がある。
春になると、その周りに桜が咲く。
本数は多くない。
でも古い電車の横に咲く桜が妙にきれいで、私はその景色が好きだった。
さらに先には、不忍池の木々が見え始める。
店の名前を1つ聞くだけで、見えていた頃の景色が次々とつながっていく。
そこに植物の匂い、鳥の声、朝の空気が重なる。
これが、今の私の散歩である。
・右後ろ4時の方向から、叫び声が聞こえた
午前5時15分ごろ。
散歩再開初日は、驚くほど順調だった。
アイナビが、
「28メートル先、1時の方向、ケンタッキー・フライド・チキン上野池之端店」
さらに進むと、
「目的地まで50メートル」
と告げる。
そして、中央通りの交差点に差しかかり、信号待ちをしていた。
「信号は赤です」
そのとき、右後ろ4時の方向から、男性の叫び声が聞こえた。
「○△□……ジャパニーズ!」
「○△□……ユー!」
英語力がほぼゼロの私に聞き取れたのは、その程度だった。
声は荒く、かなり興奮している。
一気に心拍数が上がった。
次に、何かがぶつかり、崩れるような音がした。
続いて、女性の怒った叫び声。
「○△□……ジャパニーズ……○△□!」
そして、誰かが走ってくる足音。
見えない私の頭の中では、想像だけが猛烈な勢いで広がっていく。
喧嘩に巻き込まれるのではないか。
怒った男性がこちらへ来るのではないか。
「日本人の男を見なかったか」と聞かれるのではないか。
そもそも、男性は今どこにいるのか。
考えれば考えるほど、分からないことが増えていった。
・人生初の「視覚障害者ですよ」全開アピール
走ってくる足音が、こちらへ近づいてくる。
私はとっさに白杖を右後ろへ持っていき、その場で道路を何度も叩いた。
「バン。」
「バン。」
「バン。」
普段は一度もやったことがない。
完全に、
「私は視覚障害者です。何も見えていません。争いには参加できません」
というアピールである。
足音は私のすぐ近くまで来たように感じたが、そのまま後ろ5時の方向へ遠ざかっていった。
しかし今度は、男女の叫び声がこちらへ近づいてきた。
「ホエアー! ○△□!」
「ジャパニーズ! ○△□!」
・しかし、ナビは冷静だった男女の声が近づいてくる。
そのとき、骨伝導イヤホンから、いつもの冷静な声が聞こえた。
「信号は青です」
よし。
私は内心びくびくしながら、普段ではありえない速度で横断歩道を渡った。
背後では、まだ叫び声が聞こえている。
そして横断歩道を渡り切った瞬間、アイナビが告げた。
「目的地に到着しました」
いやいや。
まだ無事ではないだろう。
目的地には着いた。
しかし、騒ぎが起きていた場所から、まだ道路一本分しか離れていない。
万が一、こちら側へ来られたら怖い。
不忍通りには戻れない。
とはいえ、点字ブロックのある道は限られている。
そこで私は、上野駅方面へ向かい、大回りして不忍通りへ戻ることにした。
・帰り道も、想像が止まらないまだ早朝の上野駅付近。
アメ横の入口前の横断歩道で信号を待っていると、パトカーが2台、サイレンを鳴らして通り過ぎた。
先ほどの騒ぎと関係があるのか。
もちろん分からない。
念のため、もう少し時間を稼いだ方がいいのではないか。
そこで私は、同じ横断歩道を3回渡ることにした。
その後も、普段より数段遅いペースで、不忍通りへ向かった。
上野公園前の信号で待っていると、横断歩道の反対側から、先ほど聞いた女性とよく似た声がした。
おそらくだが、警察官らしき人と話しているように聞こえた。
何を話しているのかは、緊張しすぎてまったく聞き取れなかった。
ただ、女性がまだ怒っていることだけは分かった。
信号が青になり、私はその声の近くを通り過ぎた。
複数の人の声は聞こえたが、内容は分からない。
不忍通りにたどり着き、アイナビの目的地を自宅に設定し直した。
ようやく、いつもの散歩に戻った。
……はずだった。
不忍池の信号付近まで来たところで、突然あることに気づいた。
待て。
男の方は、どこにいる?
結局、家に着くまで緊張は解けなかった。
・今度こそ、本当に到着アイナビが店の名前を教えてくれると、頭の中に街の風景が広がる。
鳥の声や植物の匂いが重なれば、散歩はもっと楽しくなる。
見えない私にとって、想像力は散歩の頼もしい相棒だ。
ただ、正体の分からない叫び声や足音まで、頭は勝手に風景にしてしまう。
この日だけは、その想像力が完全に裏目に出た。
自宅の前まで戻ると、アイナビはまた冷静に告げた。
「目的地に到着しました」
今度こそ、本当に到着である。
なお、早朝散歩は秋になったら再開することにした。
参考リンク:アイナビ
執筆:緑(RYOKU)
Photo:RocketNews24.
イラスト:Gemini