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「1000年以上続いた東ローマ帝国滅亡」最後まで身内で争い続けた皇族たちの末路

草の実堂

画像:撃って出るコンスタンティノス11世 public domain

中世ヨーロッパにおいて、現在のトルコやギリシャを中心とする地域を何世紀にもわたり統治した東ローマ帝国。

かつて地中海世界に君臨した大帝国も、15世紀には領土を大きく失い、滅亡の危機に瀕していました。

その一方で帝国を治める皇族たちは、皇位や領地をめぐって激しい争いを繰り返していました。

なぜ彼らは国が滅びかねない状況で、争いをやめられなかったのでしょうか。

今回は東ローマ帝国最後の皇帝と、その兄弟たちをめぐる壮絶な権力争いをたどります。

身内が一番の敵

画像:1453年頃の東ローマ帝国(紫)とオスマン帝国(緑) NeimWiki CC BY-SA 4.0

15世紀に入ると、東ローマ帝国の領土は大きく縮小し、かつての大帝国の面影は失われつつありました。

当時の皇帝ヨハネス8世には男子がいなかったため、その弟たちには皇位を継承する可能性がありました。
中でも有力だったのが、のちに最後の皇帝となるコンスタンティノスと、その弟デメトリオスです。

しかし、この二人の関係は良好ではありませんでした。

デメトリオスは兄ヨハネス8世が進める東西教会の合同に強く反対し、皇位への野心も抱いていたのです。
そして1442年、その対立は驚くべき事態へと発展します。

デメトリオスは、なんと東ローマ帝国最大の脅威であるオスマン帝国のスルタン・ムラト2世から軍事支援を受け、首都コンスタンティノープルへと進軍したのです。

当時、首都の防衛にあたっていたのがコンスタンティノスでした。

つまり東ローマ帝国では、オスマン帝国の脅威が迫る中、皇帝の弟がオスマン軍の力を借り、別の弟が守る帝国の首都を攻撃するという異常な事態が起きていたのです。

しかしデメトリオスの企ては成功せず、その後も兄弟たちの領地や立場はたびたび変化しました。

コンスタンティノスはモレアで勢力を拡大し、1443年からは中心都市ミストラを拠点として、ペロポネソス半島の統治に力を注ぎます。

画像:1440年代のモレア専制公領とコンスタンティノス・パレオロゴスの拠点ミストラ 草の実堂作成

しかし、兄弟間の対立が消えたわけではありません。

やがてコンスタンティノス、デメトリオス、そして末弟トマスらは、モレアの領地をめぐって複雑な関係を築いていきます。そしてその背後では、オスマン帝国が着実に勢力を拡大していました。

帝国を守るために結束すべき皇族たちが、時には最大の敵であるオスマン帝国さえ利用しながら、互いの立場を争うようになっていたのです。

針のむしろと化した皇位継承

1448年10月31日、皇帝ヨハネス8世が後継者を残さずに崩御すると、ついに皇位継承問題が表面化しました。

有力候補となったのは、弟のコンスタンティノスとデメトリオスです。

かつてオスマン帝国の支援を受けて首都に迫ったこともあるデメトリオスは、今度こそ皇帝の座を手に入れようと動きました。
ヨハネス8世の死後、デメトリオスはコンスタンティノスより先にコンスタンティノープルへ入り、皇位を求めたのです。

しかし、首都ではデメトリオスの即位を認める動きは広がりませんでした。

大きな影響力を持ったのが、兄弟たちの母ヘレナ・ドラガシュです。
ヘレナはコンスタンティノスを支持し、宮廷の有力者たちもこれに同調しました。

こうして、コンスタンティノスが次の皇帝に選ばれました。

画像:コンスタンティノス11世 wiki c ILoveHirasawaYui

1449年1月6日、コンスタンティノスはモレアのミストラで皇帝として推戴され、コンスタンティノス11世となります。

そして同年3月、首都コンスタンティノープルへ入りましたが、その即位には異例な点がありました。

歴代皇帝がコンスタンティノープルで行ってきた総主教による伝統的な戴冠式を、コンスタンティノス11世は最後まで行わなかったのです。

その背景には単なる財政難ではなく、東方正教会とローマ・カトリック教会の合同をめぐって、帝国内が激しく揺れていた事情がありました。

皇帝となったコンスタンティノスでしたが、彼が引き継いだ帝国は、領土の縮小に加え、宗教問題をめぐる深刻な対立を抱えていたのです。

そしてその間にも、オスマン帝国の脅威は刻一刻と迫っていました。

足の引っ張り合いで衰退する国力

画像:デメトリオスの印章 public domain

オスマン帝国に単独で対抗する力を失っていた東ローマ帝国にとって、頼みの綱となったのが西欧からの軍事支援でした。

その支援を引き出すため、歴代皇帝はローマ教皇との関係改善を進めてきました。
すでに1439年のフィレンツェ公会議では、東西教会の合同が宣言されています。

しかし、この決定を東ローマの人々がすんなり受け入れたわけではありませんでした。

長年対立してきたローマ教会の権威を受け入れてまで西欧に助けを求めるのか。それとも、たとえオスマン帝国の脅威が迫っていても、東方正教会の伝統を守り抜くのか。

これは単なる宗教論争ではなく、帝国の生き残りを左右する政治問題でもありました。

デメトリオスも以前から教会合同に反対する立場を取り、それを自身の政治的立場と結びつけていました。
一方のコンスタンティノス11世は、西欧から援軍を引き出すため、最終的に教会合同を受け入れる方向へ進みます。

そして1452年12月、首都コンスタンティノープルのハギア・ソフィアで、東西教会の合同を確認する儀式が行われました。

ところが、帝国を救うために選んだはずのこの決断は、皮肉にも首都の人々の対立をさらに深めることになります。

オスマン帝国との決戦が迫る中、コンスタンティノープルでは「西欧の援助を得るために合同を受け入れるべきだ」という人々と、「信仰を曲げてまでローマ教皇に従うべきではない」という人々の溝が埋まらないままだったのです。

そして、そのわずか数か月後。

メフメト2世率いるオスマン帝国軍が、コンスタンティノープルの城壁の前に姿を現したのです。

東ローマ帝国の最期

画像:メフメト2世 public domain

1453年4月、若きスルタン・メフメト2世率いるオスマン帝国軍がコンスタンティノープルを包囲しました。

これに対し、コンスタンティノス11世はわずかな兵力で首都の防衛にあたります。

このとき弟のデメトリオスとトマスは、コンスタンティノープルにはいませんでした。
二人はモレアに残っており、首都へ援軍を送ることもできませんでした。

オスマン軍はモレアにも軍勢を送り、彼らが兄を救援するのを封じていたのです。

そして5月29日、約2か月に及んだ攻防の末、オスマン軍がコンスタンティノープルへ突入しました。

しかし、コンスタンティノス11世は最後まで首都を離れませんでした。

首都を離れて別の土地で抵抗を続ける道も残されていましたが、コンスタンティノスは帝国の首都を捨てて生き延びることを選ばなかったのです。

そして城壁が突破されると、皇帝自ら敵軍へ撃って出たと伝えられています。

画像:撃って出るコンスタンティノス11世 public domain

その最期を正確に伝える記録は残されていません。

同時代の史料にもいくつか異なる描写がありますが、コンスタンティノスは最後の戦闘の中で命を落としたとみられています。

遺体も確実には確認されず、最後の東ローマ皇帝は、滅びゆく首都とともに歴史の中へ姿を消しました。

こうして1453年5月29日、コンスタンティノープルは陥落し、千年以上にわたって続いた東ローマ帝国は滅亡したのです。

ところが兄弟争いは、これで終わったわけではありませんでした。

兄の死後もモレアには、デメトリオスとトマスの領地が残されていましたが、二人は協力して残された領土を守るどころか、再び互いに争うようになります。

そこへ現地のアルバニア人やギリシャ人による大規模な反乱が起こり、自力で収拾できなくなった兄弟は、皮肉にもオスマン帝国の力を頼りました。

それでも二人の対立は収まらず、ついにメフメト2世自身がモレア征服へ乗り出します。

1460年、デメトリオスはメフメト2世に降伏し、主要拠点ミストラを明け渡しました。一方のトマスは西へ逃れ、最終的にイタリアへ亡命します。

デメトリオスはその後、オスマン帝国内に所領を与えられましたが、やがてその地位を失い、晩年は修道士として生涯を終えました。

もちろん、東ローマ帝国の滅亡は兄弟争いだけが原因ではありません。
オスマン帝国の台頭、長年にわたる領土と財政基盤の縮小、西欧から十分な援軍を得られなかったことなど、さまざまな要因が重なった結果でした。

それでも帝国が存亡の危機に瀕する中、皇族たちが外敵の力まで借りて争い続けたことは、帝国末期を象徴する出来事だったといえるでしょう。

参考文献 :
『ビザンツ帝国の最期』/ジョナサン・ハリス (著),井上 浩一(訳)
『ビザンツ帝国 生存戦略の一千年』/ジョナサン・ハリス(著),松田 治(訳)
Maja Nikolić, “The Greatest Misfortune in the Oikoumene: Byzantine Historiography on the Fall of Constantinople in 1453,” Balcanica XLVII, 2016
文 / 草の実堂編集部

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