【鎌倉 イベントレポ】川口起美雄 Thousands are Sailing - テンペラ絵具と油絵具の混合技法で描く、人々の旅と世界のかけら
2025年11月1日(土)から2026年2月1日(日)まで、神奈川県立近代美術館 鎌倉別館では「川口起美雄 Thousands are Sailing」を開催しています。
川口起美雄(かわぐち・きみお/1951−)は、テンペラ絵具と油絵具による混合技法を用いて、目に見えるものを描き、誰も見たことがない風景を現出する作家です。
今回の展示では、デビュー展の出品作から最新作まで、約40点の絵画とオブジェ作品が会場に集まります。1976年から2025年までのおよそ半世紀に渡る作品を通して、川口起美雄の創作の軌跡をたどります。
11月23日(日・祝)と12月14日(日)には、作家による解説を聞くことのできる「ギャラリートーク」も開かれました。当日の観覧券があれば、誰でも無料で参加できるこのイベント、作家本人から直接話を聞くことができる貴重な場だと思い、12月14日14:00〜15:00の回に参加してみました。
「テンペラ絵画」とは?
14時から始まるギャラリートークの前に、会場をゆっくり見て回ろうと思い、少し早めに美術館へ到着しました。チケット(一般・700円/税込)を手に2階へ上がると、ロビーには展示概要のパネルとともに、川口起美雄が絵を描くときに使う道具が並んでいました。
川口起美雄の絵画は「テンペラ絵具と油絵具による混合技法」で描かれているそうですが、そもそも「テンペラ絵具」とは何のことでしょう。
「テンペラ」ということばは、イタリア語で「混ぜる」という動詞を意味する「Temperare」に由来します。粉末状の着色剤である「顔料」は、そのままでは板や紙に定着しないので、接着剤を混ぜるようになったのが「絵の具」の始まり。接着剤には色々と種類があるけれど、油と水の性質を持つ「Emulsion(乳剤)」で練られた顔料だけを、現在では「テンペラ絵具」と呼んでいるそうです。そして、接着剤の油性が強くなったのが「油絵具」。テンペラ絵具と油絵具を両方使う描き方が、今回の川口起美雄の混合技法です。
もっと詳しい絵具についての解説は、川口起美雄氏ご自身による公開講座「混合技法 技法から読み解く西洋絵画」という大変面白い動画があるので、興味のある方は是非こちらもチェックしてみてください。
観るひとを引き込む静かな絵画
展示室は来館者で賑わっていました。
順路は特に決まっていませんが、なんとなく左側には昔の作品、右側には最近の作品が集められているようです。ただ、過去と現在がはっきり分けられているわけではありません。昔の作品が並ぶ流れの中に、今年制作された《寝台のヒヤシンス》(2025)が掛けられていたり、デビュー作《メランコリィ》(1976)の手前に、立体作品《水の上を歩く》(2025)が置かれていたり。そうした過去と現在の作品が交差する配置によって、展示室全体にまとまりが生まれているように感じられました。
《夜の丘を歩く》(2014)
《二隻の舟》(2010)
絵画を見て感じたのは、チケットやチラシに印刷された絵から受けた印象よりも、実際に作品を見たほうが何倍もすてきだ、ということでした。光よりも闇の多い落ち着いた画面なのに、表面にはつやがあり、不思議な透明感があります。特別な仕掛けがあるわけではないのに奥行きを感じさせ、静かにこちらを引き込んでくるような雰囲気がありました。
《セルロイドの羊たち》2025年
最新作の《セルロイドの羊たち》(2025年)は、チケットに使われているビジュアルから、少し怖い作品なのかなと想像していました。しかし実際に展示室で向き合ってみると、その印象は大きく変わります。
目に飛び込んできたのは、セルロイドの人形そのものよりも、平原の向こうから迫ってくるような、午前4時ごろの朝焼けでした。横に長く継がれた画面や、大きさの異なる人形や樹木も、全てが朝の予感の一部のように感じられます。不穏さというよりも、まだ見えない何かを前にした張り詰めた気配に満ちた作品でした。
ギャラリートーク
14時になると、川口起美雄によるギャラリートークが始まりました。展示室には多くの来館者が集まり、皆さん熱心に耳を傾けていました。
お話の内容は、これまでの経歴や、ウィーンでの出会いを大まかに振り返りながら、主な作品の解説、着想から完成までの思考の過程について触れるものでした。ひとつひとつの作品を細かく解説するというよりも「絵を描くという行為のまわりで、どんなことが起きているのか」を聞かせてもらうような時間でした。
お話の中で面白いと思ったのが、川口起美雄の「故郷」の捉え方でした。1970年以降「故郷を喪失したものたち」をテーマに絵画を描いてきた川口起美雄ですが、故郷ということばを「生まれ育ったふるさと」という意味ではなく「そこにいれば幸せを感じられる、これからいく場所」という意味として捉え、そこを目指してさまよう人々の記録者として、世界のすみずみまで記述しよう、絵を描いていこうと思ったそうです。
今回の展示の副題は「Thousands are Sailing」。直訳すれば「多くの人々が航海している」という意味です。「故郷」の話を聞いて、この展示は、半世紀かけて川口起美雄が見て、そして描いてきた、人々の旅の記録なのかもしれないな、と思いました。
「幻想画家」と紹介されることもあるそうですが、ご本人は現実を描いているのだと話します。お話を聞きながら改めて絵に目を移すと、確かに見たことのない風景ではあるけれど、描かれているものは現実にあるものばかり。絵を描いているうちに、自分の描きたいイメージの上に目に見える風景やものを重ねて描く手法を習得したのだそうです。
観客からの質問にも、とても丁寧に答えてくれました。専門的なことばもありましたが、考えていることを無理に噛み砕かず、そのまま話してくれているようで、芸術家としての素顔に触れられた気がしました。
ギャラリートークは、終始和やかな雰囲気のまま、大盛況で終了しました。
実は、美術館にはよく足を運んでいるものの、ギャラリートークに参加するのは今回が初めてでした。これまで参加することがなかったのは、作品は作品自体で完結しているはず、という考えがあったからなのですが、川口起美雄の話す創作のことばはとても刺激的で、考え方のヒントを分けてもらったような、とても良い時間を過ごすことができました。
絵画の正しい読解を聞いて腑に落ちるためというより、思いもしなかった新しい考え方に出会うために、またギャラリートークというイベントがあれば参加したいと思ったほどでした。
充実の展覧会図録
ミュージアムショップでは、「川口起美雄 Thousands are Sailing」展の図録が販売されています(1,600円/税込)。これまでの批評の再録に加え、担当学芸員・橋口由依さんによる解説も収録されており、読み応えのある1冊です。展示室では気づかなかった作品の細部に、改めて出会えるかもしれません。
「川口起美雄 Thousands are Sailing」展は、2026年2月1日(日)まで開催されています。
2026年1月18日(日)には、橋口由依さんによるギャラリートークも予定されているそうです。こちらにも是非、足をお運びください。
川口起美雄 Thousands are Sailing
開催期間
2025年11月1日〜2026年2月1日 9:30〜17:00(入館は16:30まで)
開催場所
神奈川県立近代美術館 鎌倉別館
〒248-0005
神奈川県鎌倉市雪ノ下2丁目8-1
駐車場:なし
観覧料
一般 700円
20歳未満・学生 550円
65歳以上 350円
高校生 100円
主催
神奈川県立近代美術館
協力
株式会社DNPコミュニケーションデザイン 匠デザイン室、株式会社 竹尾