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#6 なぜ平家は栄えたのか── 安田登さんと読む『平家物語』【別冊NHK100分de名著】

NHK出版デジタルマガジン

#6 なぜ平家は栄えたのか── 安田登さんと読む『平家物語』【別冊NHK100分de名著】

安田登さんによる『平家物語』読み解き #6

公家の時代から武家の時代へ、平家から源氏へ。時代の転換期のダイナミズムを描いた『平家物語』。平家はなぜ栄華をきわめ、没落していったのか。戦乱のなか、人々は何を思い、どう行動したのでしょうか。

『平家物語』を知り尽くした博覧強記の能楽師・安田登さんが、難解で長大な物語を「大きな出来事」に絞って解説する『NHK別冊100分de名著 平家物語 こうして時代は転換した』では、時代が動くとき、世の価値観はどのように変化したのか。その変化のありようを私たちが生かせる道とはどんなものなのかについて、読み解きとともに考えていきます。

全国の書店とNHK出版ECサイトで2025年10月まで開催中の「100分de名著」フェアを記念して、歴史が私たちに伝えようとしたことを探る本書より、その一部を公開します。(第6回/全7回)

平重盛が重視した「忠」と「孝」

『平家物語』において重盛は、冷静沈着で、気性の激しい父を諫める人物として描かれています。しかしこの事件、貴族の日記によれば、実際に報復したのは清盛ではなく重盛だと読むこともできるようです。その報復者が誰なのかを歴史的に決定することは難しいようですが、しかし物語の中では、重盛=冷静沈着、清盛=直情径行と、いわばキャラクター化されています。

 第0講で説明した通り、『平家物語』はフィクションです。その登場人物の多くは、ひとつの性格を人物化(キャラクター化)された人間として描かれます。重盛は、滅びつつある平家にあってただひとり、組織の持続可能性を追求した人として描かれています。彼の言葉や行動にならっていれば、平家は没落しなかったかもしれない可能性を体現する人物。そんな役割を、重盛は担っていたと言えるでしょう。

 重盛が体現する教訓が拠って立つところは儒教です。特に「忠(ちゅう)」と「孝(こう)」という徳目が重要です。

「忠」という字は「中」と「心」でできています。つまり「忠」とは、真心を尽くすこと、最初に決めたことをやり通すことを意味します。一時の怒りや悲しみに惑わされずに、一途に真心を込めて何かをやり通す徳目が「忠」なのです。

 それはまずは政策の一貫性を意味し、また天皇や上皇、そしてその代わりとなる摂政に対する忠義としても表れます。清盛のように、その場の気分で対応を変えたり、天皇の立場に取って代わろうとするのは「忠」ではありません。「忠」とは、組織においては下の者よりも上の者に求められる資質なのです。

 もうひとつの徳目は「孝」です。摂政と事を起こすという資盛の行動は、重盛にとっては清盛の悪名が立つ、つまり平家の評判が下がる行為にしか映りませんでした。それは「不孝」に当たります。自分が清盛のために尽くすように、資盛も一族に尽くす気持ちを持つべきである。「子が親に尽くす」、それが「孝」です。

 しかし、「孝」は、古代の日本にはなかった倫理観です。『平家物語』において重盛は、この新しい儒教的倫理観を体現する人物として描かれているわけですが、反対に、「親が子を思う」という古代日本的な倫理観を表しているのが、清盛や、このあと登場してくる清盛の三男・宗盛です。

「親が子を思う」という古代日本的な倫理観で組織を運営すると、無能な子でもトップに就けるということが起きてしまいます。『平家物語』には、平家の一門であるというだけの無能な指揮官に率いられた軍隊が七万人以上の犠牲を出すさまが描かれます。重盛の言動は、一貫して「平家」という組織の持続可能性に向けられていたのです。

 このように、『平家物語』には古代日本的な倫理観と、新しい儒教的な倫理観のせめぎ合いが描かれています。

なぜ平家は栄えたのか

 重盛は、このあとの大きな事件(清盛を討とうとする鹿ヶ谷(ししがたに)の陰謀)で、その性格をさらに発揮するのですが、その前に、平家がなぜここまで繁栄できたのかを改めて確認しておきましょう。

 平家は、もとをたどれば桓武(かんむ)天皇に連なる血筋の家ですが、その三代あとに皇族を離れ、そこから六代はずっと地方の受領(ずりょう)を務めていました。貴族ではないので日記もなく、すなわち歴史も持っていません。何も持たない存在と言っても過言ではないわけですが、そんな平家が力を付けていくために採った方法は、天皇家、貴族、寺社など、さまざまな勢力のハブ(中心軸、結節点)になることでした。

 天皇家との関係については、すでに述べたように、忠盛が鳥羽院に得長寿院や荘園を寄進し、保元・平治の乱で清盛が後白河院と強い関係を結んだことがまずはあげられます。次いで、清盛の妻である時子(ときこ)の妹・滋子(しげこ)が後白河院に入内したことで、平家と天皇家は姻戚関係となります。清盛は、後白河院のために蓮華王院(れんげおういん)を建造。さらに、娘の徳子を高倉天皇に入内させたことで、天皇家との強固なパイプを築き上げました。

 貴族についても、平家は自分の娘たちを次々に嫁がせることで、その関係を深めました。たとえば、藤原基実(もとざね)(摂政)、藤原基通(もとみち)(関白、摂政)など、当時権勢を誇っていた藤原北家(ほっけ)の貴族たちにです。

 寺社に対しては寄進です。特に延暦寺、厳島神社、熊野神社とは強い関係を結びました。

 寺社への寄進もさることながら、貴族や天皇に自分の娘を嫁がせるというのは、ものすごくお金のかかることでした。当時はお付きの女房を付けたり、子どもが生まれたら養育は妻側の実家で行わなければなりませんでした。経済力がないととてもそんなことはできません。

 さきほど、平家は長いあいだ受領を務めていたと言いましたが、特に忠盛のときに博多などで日宋貿易に関わり、そこで莫大な富を得ています。地方で蓄えた圧倒的な経済力が、こうした姻戚関係を可能にしたのです。

 当時の婚姻の形態は、基本的に婿取婚(むことりこん)でした。結婚をすると、妻の家に夫が入るという形です。つまり、重要なのは妻の実家の財力だったのです。平家はまさにこの婚姻形態を存分に利用して、天皇家や貴族のハブとなり、高い地位を築いていきました。ちなみに、夫の家に妻が入る嫁取婚(よめとりこん)が一般化するのは、室町時代になってからです(『日本婚姻史』高群逸枝 至文堂)。

■『別冊NHK100分de名著 集中講義 平家物語 こうして時代は転換した』(安田登 著)より抜粋
■脚注、図版、写真、ルビは権利などの関係上、記事から割愛しております。詳しくは書籍をご覧ください。
※本書における『平家物語』『太平記』の原文および現代語訳の引用は『新編 日本古典文学全集』(小学館)に拠ります。読みやすさを考慮し、現代語訳の一部に手を加えています。

著者

安田 登(やすだ・のぼる)

能楽師。1956年千葉県生まれ。下掛宝生流ワキ方能楽師。関西大学(総合情報学部)特任教授。高校教師時代に能と出会う。ワキ方の重鎮、鏑木岑男師の謡に衝撃を受け、27歳で入門。現在はワキ方の能楽師として国内外を問わず活躍し、能のメソッドを使った作品の創作、演出、出演などを行うかたわら、『論語』などを学ぶ寺子屋「遊学塾」を全国各地で開催。日本と中国の古典の「身体性」を読み直す試みにも取り組んでいる。
※著者略歴は全て刊行当時の情報です。

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