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第11回 松嶋菜々子主演『リング』、そして『らせん』へとヒットを続けて和製ホラー映画の地平を拓いた中田秀夫監督は、世界へ恐怖の輪を拡げた

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第11回 松嶋菜々子主演『リング』、そして『らせん』へとヒットを続けて和製ホラー映画の地平を拓いた中田秀夫監督は、世界へ恐怖の輪を拡げた

1981年にフジテレビジョンに入社後、編成局映画部に配属され「ゴールデン洋画劇場」を担当することになった河井真也さん。そこから河井さんの映画人生が始まった。
『南極物語』での製作デスクを皮切りに、『私をスキーに連れてって』『Love Letter』『スワロウテイル』『リング』『らせん』『愛のむきだし』など多くの作品にプロデューサーとして携わり、劇場「シネスイッチ」を立ち上げ、『ニュー・シネマ・パラダイス』という大ヒット作品も誕生させた。
テレビ局社員として映画と格闘し、数々の〝夢〟と〝奇跡〟の瞬間も体験した河井さん。
この、連載は映画と人生を共にしたテレビ局社員の汗と涙、愛と夢が詰まった感動の一大青春巨編である。

『スワロウテイル』(1996)では、映画祭や劇場公開等で、多くの海外を訪問した。

 この映画が終わったら、フジテレビに戻るのが既定路線かと思っていたが、せっかくなので外で映画製作をやってみたい気持ちもあった。ポニーキャニオンは自由な気風の会社で、チームには自主映画を制作していた熊澤尚人さん(今はメジャー映画の監督になったが『スワロウテイル』のメイキングなどを担当してくれた)や、元・甲斐バンドのベーシストだった長岡和弘さんらがいた。

『スワロウテイル』では<ロックウェルアイズ>(代表:岩井俊二)という会社を設立したが、他の映画の製作の為には、独立したプロダクション体制が必要と感じ、オメガ・プロジェクトを立ち上げた。ジャスダックの上場会社にもなった。この会社が無ければ、『リング』も『ヤンヤン夏の想い出』も成立しなかったと思うが、理想を追い過ぎて、パンクすることにもなった。もちろん、フジテレビ在籍なので経営にはタッチできなかったが。

 映画はひょんな機会から出発する。

 当時、新富町にポニーキャニオンはあった。入社してみると、同じビルにWOWOWがあった。そこで再会したのが3つ歳下の仙頭武則プロデューサーだ。湯布院映画祭などで会ってはいたが、一緒に仕事をしたことはなかった。

 ビル内のテーブルだったか話す機会があり、「なんか、俺たち、接点無いよね……」と。彼はWOWOWの社員として、20数本の映画を既に創っていた。諏訪敦彦監督の『2/デュオ』(1996)、青山真治監督の『Helpless』(1996)、河瀨直美監督の『萌の朱雀』(1997)など評価の高い映画を中心に製作していた。僕のほうも、関わった映画は『スワロウテイル』までで20本位になっていた。

「お互い、こんなに本数やっているのに一度も接点がなかったなぁ……」

 その理由は、見事に製作費で分けられていた。仙頭さんの映画はすべて製作費1億円以下、一方で僕が関わってきた映画は1億円以上……。

 そんな話をしながら「僕がそっちの世界に行くのはなんだから、メジャー映画で一緒にやろうよ。なんかやりたい企画ある?」

「鈴木光司さん原作の『リング』をやりたい!」と。

 ちょっと驚いたのは、遡ること2年前。まだフジテレビ編成部にいる頃、2時間ドラマとして隣のデスクの担当者が「リング」(1995)を髙橋克典さん主演で作って放送した。僕も「金曜エンタテイメント」枠担当だったので知っている。

 ドラマでこの前やったものを、また映画でやるのか? 僕は(連続)ドラマの映画化などは、ほぼやってこなかったので、理由を聞いた。視聴率も良く、自分では面白く見た気がした。

 それから仙頭Pの「本来あるべきリング論」の講義を受け、原作を読むと頷けることがたくさんあった。

 当時、和製ホラー映画がメジャーでヒットすることはほぼなかった。正直、その頃観た『スクリーム』(1996)などで血が出る系は、あまり好みでなかった。『リング』の原作は〝謎の怪から親が子供を守る〟人間ドラマとして読めたのである。

 一方で、師匠筋の原正人さんはヘラルド・エースを角川グループに委譲し、新たに<エース・ピクチャーズ>をスタートさせていた。

「1本、角川原作でヒット作ってよ!」

 この一言で『不夜城』など多くの原作企画を提案する中で、『リング』も角川書店刊だった。

 僕もだが、原さんもそれまでホラーにはあまり興味がなった。

 まずは角川歴彦さんを通して原作の鈴木光司さんに会うことになった。実は角川映画としても続編の『らせん』をメインに『リング』の要素を入れて、企画を考えていたが、頓挫気味だった。角川社長からは「だったら、まとめて河井さんがやっちゃってよ!」という感じになり、仙頭案をベースに正式に着手することになった。

 色んな映画にタッチしてきたがホラー映画は初めてで、今一つわからなかった。

 仙頭Pから『女優霊』(1996)のVHSを渡されて見た。怖い。自分がそれまで観た映画で一番恐かった。監督である中田秀夫さんとは新橋のホテルで会うことになった。

 僕の頭の中では『女優霊』のシーンがグルグルしていたが、彼の一声は「本当はメロドラマやりたいんです……」。僕が「キョンキョンとかで?」というと「良いですね!!」と会話が始まってしまったが、そういうわけには行かない。

 監督:中田秀夫、脚本:髙橋洋の『女優霊』コンビで、『リング』は製作することになった。

オメガ・プロジェクトにも参画してくれていた一瀬隆重さんから連絡があり、「昔、『リング』の企画案出しましたよね」と。『孔雀王』(1988)など彼とは色々一緒にやっていたのだが、ホラー企画はスルーしてしまったようだった。

「だったら、『らせん』やってくれる?」となり、ホラーとしては最強タッグのコンビでやれることになり、3人プロデューサーで『リング』&『らせん』をやることになった。一瀬Pはその後、『呪怨』(映画は2003年)でもヒットを飛ばす。

▲ミステリー・ホラー小説『リング』は、1991年6に刊行された鈴木光司の『リング』シリーズの第1作であり、その後、続編『らせん』『ループ』『エス』『タイド』、そして外伝『バースデイ』が刊行されている。観た者を1週間後に呪い殺す「呪いのビデオ」の恐怖と、その来歴に迫ろうとする主人公を描いている。テレビドラマ、ラジオドラマ、映画、漫画、テレビゲームなどとのメディア・ミックスが行われ、98年の日本映画『リング』、2002年にリメイクされたアメリカ映画『ザ・リング』は大ヒットとなり、ジャパニーズ・ホラー・ブームの火付け役となった。そして「貞子」ブームなるものも巻き起こった。93年に文庫化され大幅に部数を伸ばし、『リング』『らせん』合わせて600万部を売り上げる大ベストセラーとなった。ちなみに小説の主人公は男性だったが、映画では女性に変更されている。映画『リング』のビデオ(当時はVHS)もバカ売れだったと言う。

 色んな戦略は考えたが、コピーにもした「その謎は『リング』に始まり、その恐怖は『らせん』につながる」が2本立ての理由か。当時は2本立ての慣習が残っており、僕も『チ・ン・ピ・ラ』や『私をスキーに連れてって』など2本立てが多かった。今回は「意味がある2本立て」というか「2本立てだから面白い」など模索していたのだと思う。

 現在はホラー映画に出演することの特殊性は薄れたが、当時は、特に女優さんは出演をためらう人が多かった。『リング』もギリギリまで主演が決まらなかった。

 たまたま、雑誌「an・an」で対談が組まれ、松嶋菜々子さんと恵比寿のホテルで会った。NHK朝ドラの「ひまわり」(1996)に主演していて、新人では無いが、これから期待の女優だった。帰り際に「映画とかはやらない?」と聞いてみた気がする。

 映画のキャスティングをするときに「タレント名鑑」的な本を参考にすることが多かった。年齢とか、身長が出ている。『リング』は小学生の男の子の母親役だったので、通常は30歳前後であろうか。俳優の実年齢で決めるわけではないのだが、やはり〝参考〟にしてしまう。松嶋菜々子さんは23か24歳だったように記憶している。そこでスルーしてしまっていたかも知れない。ただ、実際に僕は会っていたので、大人びた印象が強かった。30歳の役でもいけるのでは……。

 結果は大正解で、その後もトップ女優として活躍してくれているのは嬉しい。ただ、撮影現場である東映大泉撮影所を訪ねた時に、彼女からこそッと「ホントはホラー映画苦手なんです~」と言われたことは今でも覚えている。

 正直に言うと、東映の大泉撮影所に井戸のセットを作って撮影している風景はホラーの恐さは感じなかった。ましてや、テレビ画面からサダコが出てくるシーンの撮影は滑稽でもあった。あまりにアナログで、見ていて思わず笑ってしまった。それが本編完成時には強烈な恐怖シーンになっていた。

『らせん』チームには申し訳無いことをした。1998年1月公開は決まっているのに3か月前時点ではまだ、シナリオが出来ていなかった。もっと言えば4か月前は脚本も監督も決定できずにいた。理由は色々あったが、『リング』のシナリオが遅れ、続編とも言うべき『らせん』の着手が遅れた『リング』の謎が決まらないと『らせん』のシナリオもそれによって変わってくるからだ。フジテレビのドラマ「リング」の脚本を書いていた飯田譲治さんは、『リング』『らせん』の世界は熟知していて、脚本&監督でお願いすることにした。『らせん』の完成は公開月の1月までずれ込んでしまった。今も、スタッフには感謝している。

 関連性の無い2本立てのイメージを避けようと、「1本立て×2回」という方式も議論した。月曜日に『リング』、火曜日に『らせん』と2枚綴りのチケットにして2回劇場に来ることが可能。タイムイズマネーの時代になっていたので6時から映画を二本観てもらうのは不自由なのではないか。映画館に4時間近く拘束することになる。あるいは1週間『リング』次の週『らせん』また『リング』最終週『らせん』等様々なアイデアが出たが配給・興行の東宝からあっさりNGをもらった。

 映画のプロダクションということでは、ほぼ仙頭、一瀬、河井の3人のプロデューサーに任せてもらった。宣伝戦略でも、自由にやらせてもらった。

 スター俳優に多く出演してもらっていたが、ポスターでは一切顔を出さない戦略にした。

 ROBOTのデザイナーに、あくまでも〝イメージ〟中心でいくので、恐いぞ~という画も必要ないと。『リング』は女性の顔のイメージ、『らせん』は子どもの顔……架空の顔で日本人かどうかもわからない、まさに〝イメージ〟中心のビジュアルにしてほしい……。結果、色彩など見事なポスターデザインだったと思う。

『リング』は低予算であるのにチープさがバレなかったのは、音楽の川井憲次さんのおかげだ(「機動警察パトレイバー」等多数)。音楽が恐怖を倍増させてくれた。

 正月映画明けの4週興行予定だったので、劇場からはあまり期待されて無かったように思う。「ホラー映画は当たらない」とずっと言われて来たので。

 完成が12月末で試写期間もほとんど無く、ターゲットを20代のカップルにした。原作ファンは30~40歳台の男性中心とのことだったが、流石にその層が映画館に詰めかける想像が出来なかった。

 イマジカでの初号試写に、製作出資もしてもらっている角川歴彦社長(当時)がいらして試写が終わり、開口一番「これは女子高生ターゲットだ!」と。ちょうど女子高生が携帯電話を持つ時代になっていて、そこに訴求して口コミが拡がっていく……と。

 公開まで短期勝負だった。テレビ局はどこも絡んで無い映画なので、角川グループの援護射撃は必須だった。

▲映画『リング』は1998年1月31日に公開された。監督は中田秀夫、小説の男性主人公は女性に置き換えられ、松嶋菜々子が演じた。配給収入10億円を記録する大ヒットとなり、〝ジャパニーズ・ホラー〟という和製ホラーの新たな地平を開拓し、99年には日韓合作による韓国映画『リング・ウィルス』が、2002年にはドリームワークスによるアメリカ映画『ザ・リング』がリメイク映画として公開された。出演は、主役の松嶋菜々子をはじめ、真田広之、中谷美紀、竹内結子ら、それまでのホラー映画にはない豪華な顔ぶれが揃った。また、続編『らせん』も同時進行で製作され、〝デュアル・ホラームービー〟と銘打っての同時上映が行われた。監督・脚本は、95年のドラマ版「リング」の脚本を担当した飯田譲治が手がけている。キャッチコピーは〝あいつは死んだはずなのに。〟そして『リング』と併せて〝その謎は「リング」に始まり、その恐怖は「らせん」につながる。〟というものだった。製作総指揮には、原正人、製作(プロデューサー)には一瀬隆重、仙頭武則、そして筆者河井真也の名が並んでいる。『らせん』の主役は佐藤浩市で、中谷美紀、真田広之、松嶋菜々子も『リング』に続き出演、そして佐伯日菜子が山村貞子役で出演している。

 映画撮影中に作った劇場予告編(特報)の音楽はイギリスのテクノ(トランス)バンドだったジュノ・リアクターだ。日本のホラー映画にテクノ? と不思議がられたが、日本的な恐がらせるメロディは違うと考えていた。やってみたら意外に画とマッチした。ただ既存曲ではなく出来れば映画の為の書きおろしが欲しかったが、時間的には全く無理だった。

 スタッフから新宿のクラブでDJをやっていたDJ TOMOを紹介された。『feel like HEAVEN』という自主レーベルの中の楽曲がとても良かった。全編英語で〝主題歌〟として画とマッチするのでは……。とにかく公開まで時間がない。急いでCM用の15秒スポットを作り、曲をはめてみた。イケル! ただ恐怖が迫って来ない。ボーカルのサビは「♪feel like HEAVEN feel like HEAVEN~」の繰り返しでその部分しか15秒スポットでハマる箇所は無いのだが何かパンチが足りない。結局、DJ TOMOとボーカルのリエさんにお願いして、レコーディングした。ポニーキャニオンに在籍していたので諸々セッティングはやってくれた。長岡和弘ディレクターはプロである。

 歌詞を変えて歌ってもらうことを提案した。「ハ行」の感じと「カ行」の聞こえ方かもしれないと。

「♪feel like HEAVEN feel like HEAVEN~」⇒「(Oooh)きっと来る~きっと来る~」。たったこれだけの事なのだが、15秒スポットの画と「きっと来る~」のマッチ度が倍増し、恐怖が増幅される感じがした。このスポットのインパクトがのちの〝貞子ブーム〟に繋がったと言えるだろう。

 その時は、こちらの都合で再レコーディングまでしてもらって申し訳ない気持ちもあった。2人を前にしてポニーキャニオンからワンショットでCD発売します! と言ってユニット名も、その喫茶店で考えたような……。Heavenは天国で、地獄はHell。〝HeavenとHell〟。2人だから「HⅡH」でどう? という流れで発売が決定。角川グループのCM出稿も短期間で相当数流れ、CDもオリコンのチャートにランクインした。今でもワイドショーなどで恐いシーンとともに流れているのを聴くと〝ホラーの定番曲〟になったのだと思ったりする。DJ TOMOは[TOMO HIRATA]として海外でEDMの第一人者として活躍している。何年か前にブリュッセルにいる彼とFBで話す機会があり、とても嬉しかった。

 この主題歌のお陰で、『リング』が拡がっていったとも言え、音楽の影響は大きいと改めて感じさせてくれた。。

▲映画『リング』は1月31日の公開まで2週間余りというところで完成し、直後の1月14日に完成披露試写会が開催された。だが、同時上映の『らせん』は、その時点ではまだ完成しておらず、やむなく『リング』だけの披露試写会と相成った。

 公開初日の有楽町マリオンの舞台挨拶には携帯電話をもった女子高生がわんさと来てくれ、映画が終わると、我さきにと電話をかけまくる光景に出くわした。

 その後、暫くして、アメリカのミラマックスから使者? が来て、中華料理を食べながら「ハリウッドでリメイクしたい」と。ロイ・リーと言い、30歳前後の韓国系アメリカ人だった。

 思わず「アメリカって井戸あるの?」と聞くと「ある!」と。それまで『南極物語』や『Love Letter』などハリウッドはリメイク権を購入してくれるのだが(安く)、一向に映画化になることはなかった。案の定、ミラマックスはNGで、その話は終わったかと思ったが、なぜかドリームワークに話を持って行ったら乗ってきたと言う。しかも、それまで2~3百万円の提示が多かったのに100万ドルだと言う。

『ザ・リング(The Ring)』(2002)として、オリジナルの此方の『リング』の数十倍の製作費(67億円)をかけ、300億円前後の興行収入を上げる大ヒットになった。一瀬プロデューサーが日本で製作していた『呪怨』も『The Grudge』(清水崇監督)としてハリウッドでリメイクされ200億円を越える大ヒット作になった。因みに『ザ・リング』のヒットによりパート2を作ることになり、中田秀夫が監督した。これも200億円を越えるヒット。今のところ日本人監督してアメリカのボックスオフィス(興行収入)で1位を獲ったのはこの2人だけである。

 ロイ・リーさんはその後〝リメイク王〟となり、『ダークウォーター』『南極物語』から数々の日本映画のリメイク映画を手掛け、遂に『ディパーテッド』(マーチン・スコセッシ監督/オリジナルは香港映画『インファナル・アフェア』)でアカデミー賞作品賞に輝いた。『ザ・リング』の成功でゴア・バービンスキー監督は翌年『パイレーツ・オブ・カリビアン』(2003)に抜擢されシリーズ3作を監督している。

「日本でホラー映画は当たらない……」

 じゃあ、やってみるか……から始まった『リング』『らせん』により、思いもしなかった世界へ恐怖の輪が拡がることになったのである。

▲1997年当時、雑誌「an・an」で連載を持っていた筆者。編集部からの提案により松嶋菜々子との対談をすることに。その1か月後に『リング』の主演女優に抜擢する。「an・an」1997年9月19日号の記事より。

かわい しんや
1981年慶應義塾大学法学部卒業後、フジテレビジョンに入社。『南極物語』で製作デスク。『チ・ン・ピ・ラ』などで製作補。1987年、『私をスキーに連れてって』でプロデューサーデビューし、ホイチョイムービー3部作をプロデュースする。1987年12月に邦画と洋画を交互に公開する劇場「シネスイッチ銀座」を設立する。『木村家の人びと』(1988)をスタートに7本の邦画の製作と『ニュー・シネマ・パラダイス』(1989)などの単館ヒット作を送り出す。また、自らの入院体験談を映画化した『病院へ行こう』(1990)『病は気から〜病院へ行こう2』(1992)を製作。岩井俊二監督の長編デビュー映画『Love Letter』(1995)から『スワロウテイル』(1996)などをプロデュースする。『リング』『らせん』(1998)などのメジャー作品から、カンヌ国際映画祭コンペティション監督賞を受賞したエドワード・ヤン監督の『ヤンヤン 夏の想い出』(2000)、短編プロジェクトの『Jam Films』(2002)シリーズをはじめ、数多くの映画を手がける。他に、ベルリン映画祭カリガリ賞・国際批評家連盟賞を受賞した『愛のむきだし』(2009)、ドキュメンタリー映画『SOUL RED 松田優作』(2009)、などがある。2002年より「函館港イルミナシオン映画祭シナリオ大賞」の審査員。2012年「SKIPシティ国際Dシネマ映画祭」長編部門審査委員長、2018年より「AIYFF アジア国際青少年映画祭」(韓国・中国・日本)の審査員、芸術監督などを務めている。また、武蔵野美術大学造形構想学部映像学科で客員教授を務めている。

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