「風、薫る」シマケンのモデルは恋多き人物!大関和に獄中プロポーズした木下尚江とは
NHK連続テレビ小説「風、薫る」で、シマケンこと島田健次郎(演・佐野晶哉)は、ヒロインのひとり・一ノ瀬りん(演・見上愛)に想いを寄せている。
シマケンのモデルは公式には明らかにされていないが、モチーフの一人として社会運動家・木下尚江(きのした なおえ)の名が挙がっている。
尚江は恋多き人物としても知られ、りんのモデルである大関和(おおぜき ちか)に、獄中からプロポーズしたという。
なぜ、尚江は獄中から思いを伝えたのか。
そして、大関和との恋の行方はどうなったのだろうか。
木下尚江と島田健次郎の共通点
木下尚江は1869年、長野県に生まれた。
「風、薫る」では、りんとシマケンは同年代のように見えるが、1858年生まれの大関和から見ると尚江は11歳年下である。
だがシマケンには尚江を思わせる共通点もいくつかある。
①子どものころ病弱
「風、薫る」では、シマケンが「子どものころ病弱だった」と語っている。
木下尚江も子どものときは病弱で、5歳のころには熱病を患い、生死の境をさまよったという。
②新聞社勤務
シマケンはドラマでは、新聞社で活字工をしながら小説家を目指している。
木下尚江は19歳のころの1888年に、地元の信陽日報で新聞記者になった。
③廃娼運動
シマケンは心中未遂で入院中の夕凪について、美化した記事を新聞社に提供し廃娼を訴えた。
木下尚江も廃娼運動のほか、普通選挙運動などの社会運動に取り組んでいる。
④小説を書いている
シマケンは小説「浮世の翼」を書き上げている。
木下尚江も反戦小説『火の柱』などの小説のほか、自伝『懺悔』などの著書もある。
⑤英語
シマケンは英語を話せるが、木下尚江も英語が得意だった。
このようにシマケンと木下尚江には、大関和との年齢差など違うところもあるが多くの共通点が存在する。
木下尚江の逮捕
木下尚江は1896年、同志らと「平等会」を結成し、社会問題や普通選挙運動に取り組み始めた。
当時は多額の税金を納めた人だけに選挙権が与えられており、普通選挙の実現は大きな課題だった。
尚江らは「普通選挙期成同盟会」を結成したが、その約1か月後、同じく普通選挙運動に取り組んでいた中村太八郎とともに長野県議選をめぐる恐喝・詐欺取財容疑で逮捕されてしまう。
1897年、28歳だった尚江は長野地方裁判所で重禁錮8か月・罰金10円・監視6か月の判決を受けて控訴し、その後は東京の鍛冶橋監獄に収容された。
翌1898年、控訴審で無罪となったものの、およそ1年半に及ぶ獄中生活を送っている。
木下尚江が獄中からプロポーズ!その結末とは
木下尚江と大関和が出会ったのは、尚江が投獄されるより前の1891年ごろ、新潟でのことだった。
当時、和は新潟の高田女学校で舎監兼伝道師を務めていた。尚江もこのころ社会運動に関わっており、ふたりは廃娼運動を通じて知り合った仲間でもあった。
尚江は和に強く惹かれたようで、文通を申し込んだという。遠距離だったため、ふたりは手紙のやり取りを続けていた。
尚江から会いたいと言われても和は長く断っていたが、彼が収監されたことを知るとすぐに面会へ駆け付けた。
やつれた尚江の姿を見た和は同情し、差し入れを持って毎週のように面会へ通うようになる。
そうした中で、ふたりの距離は急速に縮まっていった。
尚江の親友で、新宿中村屋の創業者として知られる相馬愛蔵(そうま あいぞう)は、後年『穂高高原』の中で、当時の尚江と和について次のように回想している。
「人形のような小娘はつまらないが、中年の女はその熟した智恵が面白い」
「容貌、情熱、年齢、当年の大関女史は、まさにこの木下氏の再び得がたい対象であったといえよう」
こうして尚江は出所する直前、和にプロポーズした。
出所後、尚江は返事を聞くため東京看護婦会に足を運ぶが、和は返事を保留する。
一方、尚江の親友・相馬愛蔵夫妻は、この結婚に猛反対した。
愛蔵は入院中に和の手厚い看病を受けたことがあり、その後も交流を続けた人物で「風、薫る」のチュウこと丸山忠蔵(演・若林時英)のモデルともみられている。
夫妻が反対した理由は、年の差や立場の違いに加え、尚江のプレイボーイぶりをよく知っていたからだった。
また当時、和は看護婦会の統率者として一目置かれており、まだ無名に近かった尚江では釣り合わないと見られたのだろう。
やがて和のもとには、尚江から求婚撤回の手紙が届き、愛蔵からも謝罪の手紙が届いたという。
和自身も年の差を気にしていたようである。
亀山美知子『大風のように生きて: 日本最初の看護婦大関和物語』では、和の心境について次のように描かれている。
「将来ある弁護士木下尚江を、遠くから見守ろうと決意したのである。そしてまた、愛蔵が自分のことを心配してくれることに対しても感謝せずにはいられない気持ちだった。」
こうして、ふたりの恋愛は幕を閉じた。
恋多き木下尚江の女性遍歴
木下尚江は、恋多き人物でもあった。
自伝『懺悔』には、12、13歳のころに出会った初恋の女性について、次のように記している。
「予が初めて彼女を見たのは、予と彼女と共に十二三才の時であった。仮令如何なる群衆雑踏の間にても、予は一目にして彼女を見出すことが出来た」
引用『懺悔』木下尚江
尚江は、質素な服装や振る舞いの中にも、その女性の瞳には「神々しき一段の光」があったと振り返っている。
ふたりは恋仲だったと思われるが、尚江は17歳のころの1886年に上京し、現在の早稲田大学にあたる東京専門学校へ入学した。
その後、初恋の女性は裕福な家の男性と結婚するが、持参金が約束より少なかったことから半年後に離婚したという。
やがて別の男性と再婚したものの、結局1年ほどで破綻し、数年後に亡くなった。
これをきっかけに尚江は社会活動にのめり込むようになり、遊郭にも通うようになった。
やがて娼妓のひとりと恋に落ちるも上手くいかず、別の娼妓を身請けしようとしたが、母親が猛反対していることを知ったその娼妓は、自ら別れを申し出たとされる。
相馬夫妻が大関和との結婚に反対した理由のひとつも、こうした尚江の女性遍歴を知っていたためだった。
惚れやすい性格だと見ていたのだろう。
尚江自身もそのことを自覚していたようで、情熱的で感情の揺れが大きい人物だったのかもしれない。
また、和と遠距離で文通していた時期にも、ほかの女性に心を動かされることがあったという。
女性の多い東京看護婦会へ和を訪ねた際も、帰り際に女性たちへ手を振って帰るなど、かなりのプレイボーイであったようだ。
その後、尚江は31歳で、東京看護婦会で知り合った和賀操子(わが みさこ)と結婚した。
操子は和が教育していた看護婦で、和がふたりを引き合わせたという噂もあるが、実際のところはわかっていない。
一方、和はその後、結婚することはなかった。
木下尚江は晩年、静坐によって心身を立て直す日々を送り、求道生活を続けたのち、1937年に68歳で亡くなっている。
参考 : 国立国会図書館「近代日本人の肖像 木下尚江」早稲田大学文学学術院所蔵『木下尚江資料集 第一集』相馬愛蔵・黒光『穂高高原』木下尚江『懺悔』他
文 / 草の実堂編集部