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《死霊が見ている》とゴーギャン作品の死生観――映画『ゴーギャン タヒチ、楽園への旅』から

イロハニアート

ポール・ゴーギャン《死霊が見ている(マナオ・トゥパパウ)》(1892)/オルブライト=ノックス美術館

「死霊が見ている?」不気味な名前に、思わず怖くなってしまったかもしれません。これはポール・ゴーギャンがタヒチで描いた絵のタイトルです。南の島に渡った彼は、なぜ死霊という存在に魅せられたのでしょうか? この記事では、絵画《死霊が見ている》と映画『ゴーギャン タヒチ、楽園への旅』を手がかりに、ゴーギャンのまなざし、特に死生観を深掘りしていきます。

なぜゴーギャンはタヒチへ渡ったのか?


Paul Gauguin, Nafea Faa Ipoipo? 1892, oil on canvas, 101 x 77 cm

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フランス出身の画家ポール・ゴーギャンは、40代半ばで突如としてタヒチへ渡ります。彼がパリを離れ、遠い南の島を目指した背景には、芸術と人生の両面における葛藤がありました。

絵の修業を始める


ポール・ゴーギャン《ルー・カーセルの雪景色》(1882)/ニイ・カールスベルグ・グリプトテク美術館

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1871年頃、パリ証券取引所で株式仲買人として成功していた彼は、勤めの傍ら、画塾で学びはじめました。そこで印象派のカミーユ・ピサロに出会い、他の画家たちとも交流を持ちます。1876年、ゴーギャンの作品がサロンに入選し、1879年からの印象派展にも参加するようになりました。

1882年にパリの株式市場が大暴落したことをきっかけに、ゴーギャンは絵画を本業にしようと考えます。しかし美術では収入が得られず、ポスター貼りなどで日銭を稼ぎ、困窮した生活を送ることに。画家への道を歩みはじめた数年間は、ゴーギャンにとって精神面でも生活面でも苦しい日々でした。

「野生」と「原始」に憧れを抱く


1886年、ゴーギャンは初めてブルターニュ地方のポン=タヴァに赴きます。生活費が安いという理由からでしたが、特にシャルル・ラヴァとの交流は有意義だったようです。1887年、シャルル・ラヴァと西インド諸島のマルティニーク島に滞在すると、翌年には再びポン=タヴァで制作を続けました。

これらの土地で信仰に根ざした営みに接するうち、「眼に見える素朴さではなく、素朴な内面こそを描かなければならない」とゴーギャンは考えはじめます。この模索の末、《説教のあとの幻影》が制作され、ゴーギャン独自の「総合主義」(形態と色彩が等しい役割を持つ描き方)が確立されたのです。

エミール・シェフネッケルへの手紙で、ゴーギャンはブルターニュ地方について「私はここに野生と、プリミティヴ(原始的)なものを見出す」と記しました。ここで見出した「素朴」が、「野生」と「原始」の探求につながっていきます。

ポール・ゴーギャン《説教のあとの幻影》(1888)/スコットランド国立美術館

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「野生」を求めてタヒチへ赴く


ポール・ゴーギャン《タヒチの女(浜辺にて)》(1891年)/オルセー美術館

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1888年、ゴーギャンは、南仏アルルに移住したフィンセント・ファン・ゴッホと共同生活を始めます。しかし絵画観や個性の違いで決定的な諍いが起き、有名な「耳切り事件」の後、共同生活はたった9週間で幕を閉じました。

「西洋」と「野生」の対比を明確にしていくなかで、ゴーギャンはタヒチ行きを決断します。当時のインタビューで渡航目的を聞かれ、彼は次のように答えました。「文明の影響から解放されて、心静かに暮らすために行くのです。(……)汚れない自然の中で自分を鍛えなおし、野蛮人(野生の人)にしか会わず、彼らと同じように生きる必要があります」。

タヒチへ赴き、ゴーギャンは少しずつ現地の言葉を覚え、タヒチの土地(「汚れない自然」)と住民(「野蛮人」)を知っていきました。とはいえ、彼自身は「文明化された野蛮人」、つまりタヒチを支配するフランス側の人間だったため、作品にはそのまなざしが表れているのではないでしょうか。

《死霊が見ている》で考えるゴーギャンの死生観


《死霊が見ている(マナオ・トゥパパウ)》は、タヒチ滞在中にゴーギャンが描いた代表作の1つです。「マナオ」が「考える」、「トゥパパウ」が「死霊」を意味し、直訳すると「少女が死霊を思っている」もしくは「死霊が少女を見ている」と二重の解釈ができます。実際ゴーギャン自身も解釈の幅を意識していたと語りました。

ポール・ゴーギャン《死霊が見ている(マナオ・トゥパパウ)》(1892)/オルブライト=ノックス美術館

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ある日の夜遅く、ゴーギャンが帰宅すると、同棲していた少女テフラが死霊を恐れて横たわっていたそうです。「動かず、裸で、ベッドにうつ伏せに横たわり、目は恐怖で異常に大きくなっていた。(......)私の怯えた顔を見て、彼女は私を、タヒチの民族の伝説で眠れぬ夜を過ごす悪魔や妖怪トゥパパウだと思ったのではないだろうか?」1901年に出版した紀行文『ノアノア』で、彼はこのように振り返っています。

《死霊が見ている》について、ゴーギャンは妻宛ての手紙でこう述べました。「この民族は伝統的に、死霊に対して強い恐怖を抱いている。(……)絵全体に暗く、物悲しく、恐ろしく、眼の中に弔い鐘が鳴り響くような調和」。手紙の内容から、左奥の黒装束の人物は死霊だと考えられます。

ゴーギャンは西洋文明からの逃避を望み、タヒチに「原始的な楽園」を夢見ていました。実際、タヒチはひとときの安らぎを与えてくれましたが、病や孤独、老いを強く意識せざるを得ない場所でもあったようです。特に作品が描かれたころは、心臓病と梅毒の症状に苦しんでおり、死をより身近に感じていたのではないでしょうか。

また死霊というモチーフは、タヒチの土着信仰とも密接に関わっています。自然界のあらゆるものに精霊が宿ると考え(アニミズム信仰)、生と死は循環するという死生観が伝統的に根付いているのです。そんな「汚れない自然」の中で、そこに暮らす人々と文化をゴーギャンは受け入れつつ、西洋人としての視点で再構築し、絵画として昇華していきました。

異文化を解釈しながら、芸術家としての葛藤、老いや死への恐れ、創造への執念を描く。《死霊が見ている》こそ、彼がタヒチで過ごした2年間を象徴する作品だと感じます。

映画『ゴーギャン タヒチ、楽園への旅』


参照:『ゴーギャン タヒチ、楽園への旅』

2017年公開の『ゴーギャン タヒチ、楽園への旅』は、彼がタヒチで過ごした日々に焦点を当て、文明社会を離れてたどり着いた「楽園」の現実、そして創作の歓びと苦悩を丹念に追いかけます。決して華やかではありませんが、だからこそ登場人物の感情の動きがリアルに迫ってくる作品です。

家族も仲間も犠牲にせざるを得ないと覚悟し、渡航を決断したゴーギャン。周囲から「夢を諦めた者とは違う」と称賛されながらも、成功祈願のパーティーではどこか沈んだ表情を見せます。彼にとってタヒチは、理想を追い求める芸術家としての「最後の場所」だったのではないかと考えさせられました。

「自分にはもう芸術しか残っていない」というゴーギャンの想いは、作中のそこかしこで表現されています。たとえば心臓発作で倒れた彼は、病院に連れてきたくれた隣人に、絵の具を持ってきてほしいと伝えます。芸術だけが彼の存在理由であり、生命の源だったと感じさせる演出でした。

また、テフラや現地の人々との関わりを通じて、彼がひとときの幸せを味わっていた様子も伝わってきます。星空の下でテフラと言葉を教え合い、お互いに絵を描き合う姿。気持ちよい太陽の光が降り注ぐ中、歌い、テフラの美しさを自慢するときの笑顔。パリ時代より生き生きと創作に向き合うゴーギャンを見ていると、彼の未来を知っているわたしは少しうれしくなるのでした。

絵画と映画に浮かび上がるゴーギャンのまなざし


絵画《死霊が見ている》と映画『ゴーギャン タヒチ、楽園への旅』には、異文化や死に惹かれながらも孤独に創作を続けたゴーギャンのまなざしが映し出されています。芸術だけが彼の生きる支えであり、描くことを通じて世界とつながろうとした姿が印象的です。絵画と映画を通して、みなさんの心が世界とどう向き合い、何を見ようとするのか、ぜひ問いかけてみてくださいね。

参考文献


・Gauguin, Paul(1901).『Noa Noa』. Translated by Theis, O.F. New York: N.L. Brown. p76–77
・六人部昭典(2009年).『アート・ビギナーズ・コレクション もっと知りたい ゴーガン 生涯と作品』. 東京美術

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