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東国の要衝としての峯「渡内」〈藤沢市〉

タウンニュース

鎌倉市との境に位置する「渡内」は、江戸時代には「本村(ほんそん)」と「峯(みね)渡内」に分かれていた。市発行の「藤沢の地名」によると、合併したのは1852年。峯渡内はそれまで、隣接する玉縄村に入っていたという。

峯渡内は現3丁目の日枝神社から二伝寺にかけての地区を差し、山地だった同地区を単に「峯」と呼ぶこともあったという。同寺の當間(たいま)浩昭住職(53)は「『峯』は地名であるとともに、この地域を治めていた福原家の屋号でもある」と説明する。

福原家は15世紀、上杉禅秀の乱の際にこの地に移住し、以来豪族・名主として後北条氏や徳川氏に仕えた。19世紀には当主の福原高峯が、相模国内の歴史をまとめた「相中留恩記略(そうちゅうりゅうおんきりゃく)」を編纂したことで知られる。現在、同家の長屋門が市に寄付され、新林公園に移築されている。

渡内を含む村岡地区は、相模へ侵攻する勢力に対する要害として平安時代から重要視されていた。二伝寺など周辺の寺は、後北条氏の玉縄城を守るとりでとして扱われた。同寺境内の北側の山から、右手に見える本在寺公園までが以前は峰として連なっていた。「ここからのろしを上げ、敵対する三浦氏に関する情報を同じ後北条方の大庭城に伝達していた」と當間住職は解説する。

地域の開発が進んだのは1960年代。峰は大部分が切り崩され、宅地として整備された。「切り崩された土地は江の島の埋め立てなどに使われたという話を聞いている」と當間住職。寺を継いだ当初は、昔のことを知る地域の人たちが歴史を語っていた。「江戸時代以前の名残は失われつつある」と語る。

歴史の痕跡は、残された山の地面の形状からしのばれる。「昔の人が要害として整備し、活動した跡が随所に見られる。里山の維持管理とともに、歴史を語り継ぐ意味でもこの峰を大切にしていきたい」

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