夫に殺された妻が25年後に戻ってきた…墓が実在する「累ヶ淵」の恐ろしい伝説
息苦しくなるほどの湿度の高さ、肌を舐めるように吹く生ぬるい風、お盆というあの世とこの世を隔てる壁が薄くなる時期の異世界感など、日本の夏には怪談が似合う要素が揃っている。
そこで今回は、ある怪談について話をしたい。
元禄3年に出版され評判になった仮名草子本『死霊解脱物語聞書(しりょうげだつものがたりききがき)』は、浄土宗僧侶・残寿を名乗る正体不明の人物が著したとされる奇異な書物だ。
この本に記された、容姿の醜さを理由に殺された女性の恨みにまつわる物語は、後に落語や歌舞伎などで作品化され、主に夏に演じられる演目として人気を博した。
しかしこの怪談は、ただの創作物とは言い切れない。なぜなら舞台となった土地や、登場人物の墓と伝わる石塔が現存し、その墓がある寺の過去帳には、登場人物と同じ名前も記されているからだ。
ただの創作物なら余興として楽しめるものだが、実話をもとにした話だとしたら、単なる余興とは少し違って聞こえるのではないだろうか。
それでは、恐ろしくも悲しい「累ヶ淵の怪談」の世界に足を踏み入れてみよう。
あらすじ~累の誕生
時は慶長17年、徳川秀忠が江戸幕府将軍であった頃、下総国岡田郡の羽生村(現在の茨城県常総市羽生町)に百姓の与右衛門(よえもん)という男がいた。
与右衛門には杉という後妻がおり、杉には前の夫との間に生んだ助という連れ子がいた。
継父である与右衛門は、生まれつき身体が不自由で、容姿も醜かった助のことを忌み嫌っていたという。
常日頃から助を邪魔に思っていた与右衛門は「助をよそへやらなければ母子ともに家から追い出す」と、杉を繰り返し責め立てた。
追い詰められた杉は、野草摘みを装って助を鬼怒川のほとりへ連れ出し、土手から川へ投げ込んでしまった。
身体の不自由な助は、なすすべもなく溺れて命を落とした。
助を殺した翌年、与右衛門と杉の間には娘が生まれた。夫婦はその子を「累(るい)」と名付けた。
しかし累もまた助と同じく、目や足に障害を持ち、容姿も助に生き写しだったとされる。
消えた助に生き写しの累の姿を恐れた村人は「助がかさねて生まれてきた」として、「累(るい)」を「累(かさね)」と呼び、助の祟りだと噂したという。
累の結婚と祟り
時が経ち、与右衛門と杉が相次いで死に、累は天涯孤独の身となった。
しかしある時、村の片隅で1人寂しく暮らしていた累の家に、病を患った谷五郎(やごろう)という男が流れ着く。
累は谷五郎を献身的に看病し、その甲斐あって回復した谷五郎は、累と夫婦になって入り婿となり二代目与右衛門を名乗った。
しかし健康を取り戻した谷五郎は、次第に醜い累を疎ましく感じるようになり「累を殺して他の女と結婚しよう」と考える。
そして正保4年の8月11日のこと、ついに谷五郎は帰途に就く累の背後にひっそりと忍び寄り、鬼怒川に突き落として殺してしまったのだ。
谷五郎は村人には「累が急逝した」と伝え、元は累のものだった家や家財を乗っ取り、早速新しい妻を迎えた。
しかし後妻は谷五郎との結婚後すぐに死に、その次の妻も、さらにはその次の妻も相次いで亡くなってしまう。
累の死後、谷五郎は5人の後妻に次々と先立たれ、6人目の妻との間に、ようやく菊という娘をもうけた。
菊に憑りつく累と助
不幸は治まったかと安心していた谷五郎だが、累を殺してから25年後、数え14歳となり、すでに婿を迎えていた菊が突如として累の怨霊に憑りつかれた。
累は菊の口を借り「谷五郎に殺された恨みを晴らしに来た」と告げ、供養を欲して菊の体を苦しめた。
事態を重く見た村の名主は、谷五郎に頭を丸めて謝罪させ、村人を集めて念仏を唱えたが、それでも累の怒りは治まらない。
困り果てた名主は、村の近くの弘経寺(ぐぎょうじ)に祐天上人という高僧が滞在していることを聞きつけ、藁にもすがる思いで累の供養を依頼した。
祐天上人は累を成仏させることに成功したが、間もなく菊は再び何者かに憑りつかれてしまう。
上人がその正体を問いただすと「60年前に与右衛門に疎まれ、杉の手で鬼怒川へ投げ込まれた助だ」と名乗った。
助の事件は村の中で長く伏せられてきたため、名主は事情を語ることをためらった。
しかし上人は厳しく問い詰め、ついに村の古老から一部始終を聞き出すと、助に同情して戒名を与えて成仏させた。
その後、菊は出家して祐天の弟子になりたいと願ったが、祐天はそれを許さず、在家のまま念仏に励むよう諭した。
菊はのちにあらためて婿を迎え、2人の子に恵まれて、安泰に暮らしたという。
助と累がともに鬼怒川で命を落とした悲劇は後世まで語り継がれ、累が殺されたと伝わる淵は、彼女の名にちなみ「累ヶ淵(かさねがふち)」と呼ばれるようになったとされる。
累ヶ淵の怪談ゆかりの地
『死霊解脱物語聞書』に載る「累」の物語は祐天上人の活躍譚として描かれているが、『死霊解脱物語聞書』より6年ほど前に出版された『古今犬著聞集』にも、ほぼ同様の話が掲載されている。
文政6年には四代目鶴屋南北作『法懸松成田利剣』の一場面として、累伝説を題材にした歌舞伎舞踊『色彩間苅豆(いろもようちょっとかりまめ)』が初演され、怪談としてさらに広まり、落語『真景累ヶ淵』などの名作も生まれた。
茨城県常総市羽生町の法蔵寺には、累の墓をはじめ、助・菊の墓と伝わる石塔が残り、累や与右衛門の名が記された過去帳も伝えられている。
また、祐天上人が菊の除霊に用いた数珠や累曼荼羅、木像なども保存されている。
累ヶ淵とは、法蔵寺から約750m、徒歩10分ほどの鬼怒川沿岸の一帯のことを指し、鬼怒川は普段は静かな流れだが、時折暴れ川として牙をむく。
累と助の霊を成仏させたと伝わる祐天上人は、のちに徳川家ゆかりの増上寺第36世法主となり、大僧正にまで上り詰めた高僧である。
祐天の遺命を受けて弟子の祐海が建立した東京都目黒区の「祐天寺」は、周辺の地名や東急東横線の駅名にもなっている。
当時の浄土宗では、加持祈祷によって霊を追い払う行為は異端視されていた。
しかし物語の中で祐天が行ったのは、単に霊を追い払うことではなく、菊自身に念仏を唱えさせ、累と助を解脱へ導くというものだった。
この一件は、祐天が常総の弘経寺に学僧として滞在していた時期の出来事とされる。
また『死霊解脱物語聞書』が出版された元禄3年当時、祐天は浄土宗の要職を離れて市井で活動していたが、浄土宗そのものを離脱したわけではなかった。
本当に恐ろしいのは怨霊か生者か
「累ヶ淵の怪談」は数多くの創作物のモチーフとなったこともあり、現在伝えられる物語には様々な設定や展開が混在している。
だが「累ヶ淵の怪談」にまつわる物語の中で一貫して描かれているのは、怨霊を生み出す原因となる、生きている人間の業と血を通じて巡る因果だ。
この話が真実味を帯びて聞こえるのは、墓や地名の実在以上に、今も立場の弱い人が犠牲になる事件が少なからず起きているからだろう。
悲惨な現実とかさね合わせて、「累ヶ淵の怪談」は多くの人々を惹きつけてきた。
醜さと障害を理由に川へ投げ入れられた助や、恩知らずの夫・谷五郎に殺された累のことを思えば、谷五郎が命を落とすことなく物語が終わる結末に、割り切れなさを覚える人もいるのではないだろうか。
「累ヶ淵の怪談」が突き付けてくる恐怖の根源は、怨霊の祟りよりも、生きている人間の身勝手さなのかもしれない。
参考文献
残寿 (原著), 小二田 誠二 (著, 解説), 広坂 朋信 (著), 松浦 だるま (解説)『死霊解脱物語聞書〔増補版〕 (江戸怪談を読む)』
法蔵寺 | 常総市観光物産協会公式ホームページ
関山和夫『死霊解脱物語聞書』の研究『日本仏教学会年報』56号、1991年
文 / 北森詩乃 校正 / 草の実堂編集部