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先発転向大当たりで阪神のエースに登り詰め最多勝&最多奪三振を獲得した苦労人とは!?【プロ野球助っ人外国人列伝】

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先発転向大当たりで阪神のエースに登り詰め最多勝&最多奪三振を獲得した苦労人とは!?【プロ野球助っ人外国人列伝】

助っ人外国人列伝/阪神投手編

日本球界を彩ってきた助っ人外国人選手たち。「ラブすぽ」が独自に選んだ投打の名選手各5名と、印象深い選手を投打から各1名紹介する。

先発転向で阪神のエースに登り詰めた!ランディ・メッセンジャー

【投手3位】ランディ・メッセンジャー

〈NPB通算データベース〉
・勝利 98勝
・敗戦 84敗
・防御率 3.13

成功を夢見て海を渡った苦労人

第3位は前回紹介したジェフ・ウィリアムスの背番号「54」を受け継ぎ、10年間の在籍で2桁勝利7回、規定投球回に8回、そして開幕投手を6度も務めたランディ・メッセンジャー。

幼い頃から野球のような競技のティーボールにのめり込んだメッセンジャーは、両親がアルコール依存症で経済的に恵まれた環境に育ったわけではなかった。ティーボールをやっていたのは、野球をやりたかったが、グローブが買えなかったからだ。

次第に野球にのめり込み、身長が198センチと大きかったメッセンジャーは高校時代に注目を集め、1999年のドラフトでマーリンズに入団する。

昇格までの6年を経てメジャーデビューを果たしたが、防御率が安定しないことから3〜4番手の中継ぎ扱いのため、目立った成績は残せていない。

その後、複数の球団を渡り歩き、メジャーとマイナーを行ったり来たりしていたメッセンジャーは、移籍先のマリナーズでバッテリーを組んだ城島健司の紹介で阪神移籍の話が持ち上がった。

何よりも家族思いで二人目の子どもが生まれる直前だったため、安定した生活を求めて日本行きを決意する。

転機となった先発への転向

2010年のシーズンは開幕からセットアッパーを任されたメッセンジャー。しかし、不安定な投球とジェイソン・スタンリッチが途中加入したことで二軍落ちを経験した。

家族のためにも日本で成功する必要があったメッセンジャーは、先発なら一軍に上がれることを知るとすぐに転向を決意。こうして1年目は5勝に終わったが、自身が得意としていたストレートの力押しだけでは通用しないことを学び、カーブやフォークなどの変化球に磨きをかけながら、先発として理想的なスタイルを研究していという。

その成果が実り、2011年はスタンリッチとともに助っ人外国人のローテーションを担い、チームトップの12勝を挙げて先発として成功を収めた。

そして以降は毎年のように2桁勝利と3点台以下の防御率で先発の役割を充分に果たしたが、大きく飛躍した理由は自身が試行錯誤したという投球パターンの変更だろう。

前年までのストレートを軸とした投球から変化球を織り交ぜるようになると奪三振率が格段に上がり、安定感が増したのである。

4年目の2013年は、阪神の助っ人外国人としてマット・キーオ以来26年ぶりの開幕投手に抜擢されて見事勝利。この年は12勝を挙げ最多奪三振、翌2014年は13勝で最多勝&最多奪三振のタイトルを受賞するなど阪神のエースに登り詰める。

なお、メッセンジャーは毎年30試合前後の先発登板をこなしながら大きな怪我や長期欠場がないタフネスぶりを見せており、虎ファンは頼もしい存在だったに違いない。

家族と阪神のために捧げた野球人生

家族のため、チームのために2019年まで奮闘したメッセンジャーは、5年連続、通算6回の開幕投手を務めるほど信頼を寄せられ、NPB通算98勝、助っ人外国人歴代最多の1474奪三振を積み上げている。

多くの虎ファンに愛されてチームに大きく貢献したメッセンジャーにチームは引退試合とセレモニーが催されたが、助っ人外国人にこうした興行が開催されることは異例であった。

引退後のメッセンジャーは野球から離れ、家族との時間を大切にするためにネバダ州でリタイア生活を満喫中。最近公開されたアメリカメディアのインタビューでは、チームのペナント制覇と日本一を祝福し、阪神時代の10年について「最高の時間だった。そして何よりも最高だったのはファンだった」と感謝の念を述べている。

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