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早朝の車夫【上野のおとしぶみ/乗代雄介】

さんたつ

P6171196上野のおとしぶみ

子供の頃から痩せている方だと思っていたから、メタボ健診に引っかかった時は自分のことながら意外だった。服を着てしまえばそれほど目立たない、下っ腹だけが出るようなみっともない太り方に見て見ぬ振りをしていたけれど、とうとう水が溢れてしまったというわけだ。

そんな結果が出てもなお晩酌の準備をしようとする私に、妻の視線は冷ややかだった。

「ランニングでも始めるかな」

言い訳するように口走ったのがよくなかった。妻は「言ったな」と不敵に笑い、私の飲みかけの缶ビールを人質にとって、一回走るごとに一本飲むことを許可するという条件を提示してきた。

いい機会かもしれないと思い、私は覚悟を決めて承知した。マンションを出ればすぐに不忍池があって、ランナーもよく見かける。観光客も多いから決して走りやすいとは言えないが、時間帯を選べば大丈夫だろう。

「でも」と妻は言った。「夕方はまだ人多いし夜は暗いし、危ないからダメよ」

「じゃあ、いつ走れって言うんだよ」

「朝」

「早朝出勤のホテルマンが?」

「でも、夜に何やったって続かなかったでしょ。筋トレもヨガも、踏み台昇降も」

それはお前も一緒にやって続かなかったやつだろうと言おうとしたとき、目の前で残りのビールを飲み干された。口を開けたままの私をよそに妻はキッチンに戻り、さっさと空き缶をすすぎ始めた。

朝の四時半から三十分走れば、出勤には間に合う計算だった。それこそまだ暗いんじゃないかと思ったけれど、六月になり、準備をして家を出る頃にはリビングの窓のカーテンの隙間が青白くにじんでいた。

池の西側、鑑真像の前で準備運動をしたあと、急に走り出すのもよくないからと自分に言い訳してボート池を北へ回る。昼とちがってほとんど人のいない道はずいぶん広く感じた。シャッターの下りたボート乗り場の前を過ぎれば弁天島だ。絵馬と結ばれたおみくじを横目に弁天堂の前に回り、石畳を池の東岸に向かって歩いていく。屋台はビニールシートで覆われていて、これも日中とだいぶ様子がちがう。蓮池はもう青々とした無数の蓮で埋め尽くされていた。

上野動物園の弁天門の前、よくイベントをやっている広場も今はしんと静まりかえっている。ちょうど赤に切り替わった歩行者用信号がまぶしく感じるくらい、太陽の光も行き渡っていない。上野の山に続く階段には散歩中らしき老人が一人いて、彼が向かう方に、清水観音堂と月の松が見えた。

その時、私の横を一人の男が足音もなく駆け抜けた。

どこから現れたのかと考える間もなく、その格好に目がいく。頭の菅笠(すげがさ)、短い白の股引に白いTシャツ、その上に黒い腹掛け。交差した肩ひもと真一文字の腰ひもに締められた後ろ姿。

車夫だ——車夫が、人力車なしで走っている。

その姿がゆるやかなカーブの奥に消えた時、青に変わった信号で我に返った。私は彼を追うように池の畔を走り出したが、その日は二度と見かけなかった。

翌日も、彼は同じ場所に突然現れた。地下足袋を履いていることがわかったが、そうだとしても足音のないまま颯爽と走り去っていくのは、この世のものではないような感じがした。その次の日も、また次の日も彼は現れた。少し遠かったせいで追いかける気もなく見送ってしまったが、私のランニングが三日坊主にならなかったのは、この謎めいた車夫のおかげに違いなかった。

缶ビールを傾けながら、私は妻に彼のことを話した。

「仕事のために、トレーニングしてるんじゃない?」

それほど興味はなさそうだけれど、珍しく話に付き合ってくれるようだ。私が意外にがんばっているのを認めてくれているのだろう。

「なるほどな」

「若い人?」

「顔はよく見えないんだけど、たぶん二十代じゃないかな」

「なんか有名な人かもよ。名物おじさんみたいな感じで」

いかにもありそうな話で、私は「人力車夫 不忍池 ランニング」など色々と組み合わせを変えて検索してみた。SNSにそれらしき目撃情報はなく、Google 検索では、一番上に安藤初太郎という人物のウィキペディアが出てきた。一瞬まさかと思ったが、明治時代の人力車夫で一八七六年生まれと書いてある。私と同じ茨城県出身だった。「一九〇一年十一月九日、時事新報の主催により東京上野でおこなわれた、不忍池を周回する午前四時から午後四時までの十二時間長距離競走会に出場し、七十一周余り距離にしておよそ105kmを走って一等となった」

百年以上前にそんな催しがあったことに感心しながら計算すると、安藤初太郎はそのとき二十五歳。私が想像する彼の姿は、同じ不忍池の畔で競技開始と同じ早朝に見かける人力車夫にぴったり重なった。

翌朝も、私は彼見たさにランニングに出た。いつもの場所で待ってみてもなかなか現れない。あきらめて走り出すと、池の南の蓮見デッキの前で、やはり足音もなく突然抜かされた。

菅笠、腹掛け、地下足袋。石鹸でも入れたように盛り上がったふくらはぎ。初太郎だ。

笠の下は暗くて見えない。少しでも長く見ていたいという思いで必死に走るが、ぐんぐん離される。彼が速いし、私が遅いのだ。野外ステージの前、大きく曲がるところで見えなくなり、遅れて曲がって視界が開けた時、彼の姿は池の畔に沿った道のどこにもなかった。私の息はもう切れていた。

『時事新報』の創設者である福澤諭吉は、個人の独立や国力を高めるために体育を重要視していたが、日清戦争に勝利し、欧米諸国に肩を並べようという頃になると、個人の身体能力の向上はますます重要な課題となっていた。そこで『時事新報』は、西洋で行われているという長距離競技会を主催する。これは、日本で初めてのメディア・スポーツ・イベントと呼べるものでもあった。『時事新報』が準備段階からその様子を連日詳しく報道したため、当日の昼になると多くの観客が押し寄せ、花見の時でも見られないほどの混雑だった。

競技は、参加申し込みをした百名あまりの中から十五名が選抜され、制限時間十二時間のうちに早く七十マイル(約百十二キロ)を走破した者が勝利と定められた。一等賞には、現在の価値でいえば二百万円ほどの金百円が授与される。一等ではありながら規定の距離に至らなかった初太郎が無事に賞金を手にしたかどうかは、調べてもわからなかった。

「今だと」妻はスマートフォンを見ながら言った。「百キロ走るウルトラマラソンの大会の制限時間が、だいたい十三時間から十四時間だって」

ということは、初太郎は現代でも完走できるペースだったということだ。

「ちなみに」と妻は楽しそうに続ける。「世界記録は六時間六分。半分もちがう」

「だって百年以上前だよ。前日は雨で、道もぬかるんでたらしいし」

自然と初太郎の肩を持とうとする自分がおかしかった。同郷だし、見ず知らずの仲ではないのだから当たり前か。

競技者には、歩きや休憩に煙草、私が今こうして妻と話しながら飲んでいる酒さえ許されていたらしい。それでも長距離と長時間を走らせるのは残酷だという声もあり、安藤初太郎は健康を害して死亡したという噂まで立ったという。

あの人力車夫がその亡霊だったら——なんて空想をしそうになるが、きっと妻が言うように、仕事の準備に余念のない走るのが好きな若者なのだろう。そして、安藤初太郎もまたそういう人物だったのではないか。見ず知らずの彼と、もう少し一緒に走ってみたい。私の早朝ランニングは、珍しく続きそうだった。

文・写真=乗代雄介
『散歩の達人』2026年8月号より

参考文献=松浪稔(福岡女子大学) 「日本におけるメディア・スポーツ・イベントの形成過程に関する研究」/www.jstage.jst.go.jp/article/jjshjb/20/0/20_KJ00004573463/_pdf/ (2026年6月10日参照)
『20世紀ニッポン異能・偉才100人(朝日ワンテーママガジン 17)』朝日新聞出版、1993年

乗代雄介
作家
1986年、北海道生まれ。法政大学社会学部メディア社会学科卒業。2015年に「十七八より」で群像新人文学賞を受賞してデビュー。2018年に『本物の読書家』で野間文芸新人賞、2021年に『旅する練習』で三島由紀夫賞を受賞。「犬馬と鎌ケ谷大仏」を『鉄道小説』(交通新聞社)に収録。

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