「タイパ」って何?800キロ“歩いて”会いたい人がいる!『ハロルド・フライのまさかの旅立ち』は「ゴースト・オブ・ツシマ」作曲家による音楽も必聴
無謀が感動を呼ぶ、おじいさんロードムービー
「物事に費やした時間に対して得られる満足度」という“時間対効果”の概念が社会に浸透して久しい。その結果、あらゆることで効率を重視するあまり「時間がかかることは(無駄なので)やりたくない」と考えるようになってしまった感がある。
しかし、人生というものは効率だけで片付けられないこともあるのではないか? 時間をかけて何かに取り組むことで得られるものもあるのではないか? そんなことを思い出させてくれるのが、2024年6月7日(金)から劇場公開になる映画『ハロルド・フライのまさかの旅立ち』である。
物語は、英国郊外に住むハロルド(ジム・ブロードベント)のもとに一通の手紙が届くところから始まる。差出人はかつて同じ職場で働いていたクイーニー(リンダ・バセット)という女性で、自分は病を患っていて余命わずかだと別れの言葉が綴られていた。
ショックを受けつつ返事の手紙を出そうとするハロルドだったが、彼女には大きな借りがあり、どうしても直に会って伝えたいことがあった。そこでハロルドは、クイーニーの入院するホスピスまで800kmの長い道のりを歩いて彼女に会いに行くことを決意する。
手ぶらで800kmを歩く、祈願と贖い、そして恩寵を受けるための旅
老境に入った男のロードムービーといえば、デヴィッド・リンチ監督作『ストレイト・ストーリー』(1999年)を思い出す方もいるかもしれない。こちらの作品は73歳の主人公アルヴィンが、心臓発作で倒れた兄に会うため、時速8kmの芝刈り用トラクターに乗って560kmの旅に出る物語だった。
本作のハロルドはアルヴィンとほぼ同年代と推測されるが、より長い距離を手ぶら同然の軽装で歩いて行くのだから、かなり過酷な旅である。効率という考え方をするならば、「車で行けばいいのに」とも思うだろう。それでは、なぜハロルドは困難な徒歩の旅をあえて選んだのか? ここで「Pilgrimage(巡礼)」という本作の原題で使われている言葉が重要な意味を持つようになる。
ハロルドが徒歩の旅を決意したのは、ふらりと立ち寄ったガソリンスタンドの売店の若い女性店員から「信じる心が大切」という話を聞いて感銘を受けたからだった。心を動かされたハロルドは、クイーニーの入院するホスピスに電話して下記のような伝言を頼む。
「彼女を救いに行く。“私が歩く間生き続けろ。今回は失望させない”と伝えてくれ」
「今回は失望させない」という言葉から、この旅がハロルドにとってある種の「贖い(あがない)」でもあることが分かる。クイーニーとの間に何があったのか。それは実際に映画をご覧になって確かめて頂くとして、ハロルドは過去のある出来事にまつわる喪失や罪悪感に苛まれながら、新しい世界で見知らぬ他者と関わり、物への執着を捨て、不便も厭わず目的地までひたすら歩き続ける。古来行われてきた<巡礼>と同じように、ハロルドは祈願や懺悔、あるいは恩寵を受けるため、進んで苦行に身を投じたのではないだろうか。愁いを帯びたまなざしでハロルドの複雑な思いを表現する、ブロードベントの静かな演技に心を打たれる。
一方、夫が突然旅に出てしまったことで、長年彼を素っ気なくあしらってきた妻のモーリーン(ペネロープ・ウィルトン)も、「なぜこんなことになったのか?」と過去の問題に向き合わざるを得なくなる。そしてハロルドが旅の途中で出会う悩める人々も、彼の「無私の心」に感化されていく。大切な人を救うために始めたことが、別の誰かの心を動かし、やがて自分自身をも救うことになるという、内省的かつ瞑想的なテーマの作品である。
「ゴースト・オブ・ツシマ」作曲家が贈る、繊細で慎ましやかな音楽
本作の劇伴を作曲したイラン・エシュケリは、ビデオゲーム「ゴースト・オブ・ツシマ」(2020年)の音楽を梅林茂と共に担当したことで、日本でも注目を集めた作曲家だ。
上記のような重厚な音楽で映画ファンや製作者たちの心を掴む一方、エシュケリは『アリスのままで』(2014年)で室内楽(ピアノ四重奏)形式の繊細な劇伴を作曲しており、本作でも慎ましやかな音楽でハロルドの内面の変化を描き出している。ヴァイオリンとピアノ、シンセサイザーを中心とした小編成の劇伴には、「余計な物は持たずに歩く」というハロルドの意思も反映されていると考えられる。しかし、大きな感情のうねりが生じたとき、深みのあるストリングスが加わり、静かな感動とカタルシスを呼ぶ。華美ではないが、ジワリと心にしみる音楽と言えるだろう。
“旅人”ハロルドの姿と重なる、漂泊民の伝承音楽を基にした挿入歌
劇中ではエシュケリの劇伴のほかに、UKトラッド・フォーク界の人気シンガーソングライター、サム・リーの歌曲が4曲使われている。「トラヴェラーズ」と呼ばれるブリテン諸島の漂泊民の伝承歌をベースにした彼の楽曲は、文明の利器を手放し、野草や木の実を食べ、野宿しながら歩き続ける“旅人”ハロルドの姿と重なって強く心に残る。本作のサウンドトラックアルバムには、エンドクレジットで流れるリーの歌曲「Sweet Girl McCree」と「McCrimmon」も収録されているので、こちらもぜひチェックして頂きたい。
文:森本康治
『ハロルド・フライのまさかの旅立ち』は2024年6月7日(金)より新宿ピカデリー、ヒューマントラストシネマ有楽町、シネ・リーブル池袋ほか全国公開