『三国志の終盤』敵国の人々にも愛された晋の名将・羊祜 〜ライバル陸抗との友情〜
知られざる名将
『三国志』といえば今も多くの人に親しまれているが、その中であまり語られることのないのが「蜀滅亡後の晋と呉の時代」である。
その理由の一つは、この時代に「破竹の勢い」の語源となった杜預(とよ)による呉征伐を除けば、両国間で目立った大規模戦闘がほとんどなかった点にある。
すでに群雄が割拠し、君主自ら戦場に立つような時代ではなくなっており、劉備や曹操のような戦場の主役がいなかったことも物語化を難しくしている。
ゲーム『三國志』シリーズでも、260年以降を舞台にしたシナリオはわずかで、蜀滅亡後の「人材難の時代」は創作の上でも描きづらい時代といえるだろう。
そうした人材難の時代にあって、杜預の前に長く呉との国境を守り、敵国の人々からも深く敬愛された名将がいた。
それが今回紹介する、羊祜(ようこ)である。
羊祜の複雑な縁戚関係
羊祜の一族は、泰山郡に根を張る名門であり、姉の羊徽瑜(ようきゆ)が司馬師に嫁いだことから、後に皇帝となる司馬炎との縁を得た。
この姻戚関係によって羊祜は重用されることになるが、当時の血縁を重んじる風潮の中にあっても、彼自身の学識と才覚はその地位に十分ふさわしいものであった。
一方で、羊祜の妻は魏の名門・夏侯氏の出身で、父は名将・夏侯覇である。
夏侯氏は曹氏と同族関係にあり、司馬氏と並ぶ勢力を誇っていた。
つまり羊祜は、司馬氏と曹氏という魏の二大勢力と深く関わる血縁を持っていたことになる。
若き日の羊祜は、曹魏の史官であった王沈とともに、魏の大将軍・曹爽(そうそう)から仕官の誘いを受けたが、「人に仕えることは容易ではなく、まして命を懸けて仕えるのはさらに難しい」と述べ、これを断った。
姻戚関係から、どちらの陣営にも味方しづらい事情があったとも推測されるが、史書には明確な理由は残されていない。
ただ、後に曹爽が司馬懿との政争に敗れ、誅殺されたことを思えば、羊祜の見識の高さが結果的に証明されたといえる。
このころ、義父の夏侯覇は、司馬懿による粛清を恐れて蜀へ亡命した。
そのため妻の夏侯氏が非難を受けたが、羊祜はこれをかばい家族を守り通したという逸話があり、彼の清廉で温厚な人柄がうかがえる。
曹爽の没落後、王沈は免官となり、自身の軽率さを悔やみつつ羊祜の先見の明を称賛した。
その後、司馬懿・司馬師の後を継いだ司馬昭が羊祜に仕官を求めたが、羊祜はこれも辞退した。
もはや曹氏・夏侯氏の勢力は衰退しており、血縁のしがらみはなかったが、彼は安易に権力に近づくことを避けたのである。
最終的に司馬昭が皇帝の馬車を遣わして迎えに来たため、羊祜は辞退しきれずに宮廷へ出仕することとなった。
とはいえ、彼は権臣とも派閥とも距離を置き、常に公平で中立な姿勢を保ち続けたという。
荊州に現れた名政治家
司馬炎が天下統一を志し、呉への進攻を計画した際、羊祜はその総司令官として荊州に派遣された。
彼は当地で仁政を施し、呉からの亡命者や投降兵を分け隔てなく厚遇したため、その名声は南方にまで広まり、やがて呉からの流入者が後を絶たなくなった。
当時、呉では孫権の孫にあたる第4代皇帝・孫皓(そんこう)の暴政に人々が苦しんでおり、羊祜の治める荊州は「逃れ来る者の安住の地」となっていたのである。
このように、誰もが認める名政治家でもあった羊祜だが、統治者としてはやや無防備な面もあった。
公務の合間に外出する際には軽装で、護衛も最小限に留めており、その姿を見た部下の徐胤(じょいん)は「将軍の身にもしものことがあれば、それは国家の損失にほかなりません」と諫言した。
羊祜はその言葉を素直に受け入れ、それ以降は軽装で外出することを控えたという。
終生のライバル 陸抗との友情
統治者としての力量を存分に発揮した羊祜であったが、彼の最終的な使命はあくまで呉の制圧と天下統一の実現にあった。
荊州に駐屯した羊祜は、幾度か呉軍と交戦するが、272年の西陵の戦いでは敗北を喫する。
その後は正面からの戦を避け、拠点の整備や懐柔策に方針を転換し、討ち取った敵将の遺体を丁重に送り返すなど、戦後処理にも礼を尽くした。
この頃、呉の防衛を担っていたのは名将・陸遜の子である陸抗(りくこう)だった。
羊祜と陸抗は、互いの才能と人徳を深く認め合い、敵対関係にありながらも敬意を持って接していた。
戦況上、時に小規模な戦闘を交えることはあったものの、無益な衝突は避け、国境を挟んで書簡を交わし、贈答を通じて信義を重んじる関係を築いていた。
晋と呉が直接雌雄を決する戦は、両者の生前には実現しなかったが、比較的安定したこの時期だからこその逸話がいくつか残されている。
その一つが「羊陸之交(羊陸の交わり)」である。
陸抗が病に倒れたと聞いた羊祜は、敵将ながら薬を送った。
周囲は「敵の贈り物など毒に違いない」と止めたが、陸抗は「羊祜はそのような人物ではない」と意に介さず、薬を飲んで毒ではない事を証明したという。
やがて陸抗も、その誠意に応えて酒を送り返した。
今度は羊祜の側近たちが警戒したが、羊祜もまた「陸抗はそのような男ではない」と言って杯を傾け、やはり何の害もなかった。
陸抗は、疑念を口にする者たちに対し、次のように語ったと伝えられる。
「小さな村にも信義を重んじる者がいるというのに、大国に信義を守る者がいないということがあってはならぬ。もし私が信を示さねば、晋(羊祜)の徳のみが伝わってしまうだろう」
後世、人々はこの美しい友情を「羊陸之交(羊陸の交わり)」と呼び、今に至るまで語り継がれている。
果たせなかった三国統一と死後も愛された「羊公」
敵国同士でありながら深い友情を育んだ羊祜と陸抗であったが、その裏では、晋による呉征伐の準備が着々と進められていた。
陸抗が没したのは273年末とも274年とも伝えられるが、その報を受けた羊祜は、これこそ好機と見て司馬炎に出撃を願い出た。
しかし、慎重派の反対によってその上奏は退けられてしまう。
羊祜は「今こそ天の与えた好機であるのに、人生は思うようには運ばぬものだ」と嘆いたという。
その後も出兵の機会は訪れぬまま、278年、羊祜は病に倒れてこの世を去った。享年58。
その2年後、彼の遺志を継いだ杜預が呉を滅ぼし、三国時代はついに幕を閉じた。
羊祜の死を知った晋の官民は深く悲しみ、遠く呉の国境にいた敵国の将兵や民衆までもが、彼の死を悼んで涙を流したという。
三国統一の目前で志を果たせずに没した無念は計り知れないが、人々はその徳を偲び、彼がこよなく愛した襄陽の峴山に「羊公碑」を建てた。
碑の前で涙を流す者が絶えなかったといい、後任の杜預はこれを見て「堕涙碑」と名付けた。
後に、呉を滅ぼした杜預とともに羊祜は「武廟六十四将」に列せられたが、戦功そのものよりも、清廉で寛容な人格と、敵味方を問わず人々に敬愛された徳が、彼の名を後世に残した。
原碑は長い歳月のうちに散逸したものの、1982年、襄陽の峴山にその旧址へと再建され、今もなお訪れる人々に静かに語りかけている。
数多の栄誉よりも、人々の心に刻まれた敬慕の情こそ、羊祜の真の遺産だったのかもしれない。
参考 : 『晋書』羊祜伝/『襄陽耆旧記』羊祜条/『資治通鑑』巻八十ほか
文 / mattyoukilis 校正 / 草の実堂編集部