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「信長に滅ぼされた浅井長政の庶子は生きていた」浅井井頼がたどった波乱の生涯【豊臣兄弟!】

草の実堂

画像 : 浅井長政 public domain

天正元年(1573年)9月1日、北近江の戦国大名として勢力を誇っていた浅井長政が織田信長によって滅ぼされました。

嫡男の万福丸も串刺しの刑に処され、浅井の嫡流はここに断絶してしまいます。

しかし長政の血を引く男児が絶えたわけではなく、庶子の浅井井頼(あざい いより)は生き延びて小一郎にも仕えました。

今回はこちらの浅井井頼について、その生涯をたどってみましょう。

各家を転々とする

画像 : 豊臣秀長 wiki c

浅井井頼が誕生したのは元亀3~天正2年(1570~1574年)の間とされます。

生母はお市ではなく、長政の側室であったと推考されますが詳しいことはわかっていません。
前述のとおり、井頼は幼くして、あるいは生まれる前に父・長政と死に別れ、母(再婚したなら継父も)の手で育てられました。

そして成長した天正11~13年(1583~1585年)の間に、羽柴秀勝(信長の子で秀吉の養子)に仕えます。

天正13年(1585年)12月10日に秀勝が亡くなると、小一郎(羽柴秀長)に仕えて600石の知行を与えられました。

小一郎が天正19年(1591年)に世を去ると、小一郎の養子である羽柴秀保(ひでやす。弥助こと三好吉房と姉ともの三男)に仕えますが、その秀保も文禄4年(1595年)に世を去ってしまいます。

やがて大和郡山城を引き継いだ増田長盛(ました ながもり)に仕え、今度は3千石の知行を与えられました。

しかしこれも永くは続かず、慶長5年(1600年)に勃発した関ヶ原の合戦では、主君の増田長盛が西軍方とみなされ、戦後に改易されてしまいます。

牢人となった井頼は伝手のあった生駒一正(いこま かずまさ)を頼り、讃岐国の生駒家に身を寄せました。

ここでしばらく奉公に励んだものの、慶長15年(1610年)に一正が亡くなり、嫡男の生駒正俊(まさとし)が家督を継ぐと、どうも折り合いが悪くなってしまいます。

耐えきれなくなったのか、井頼は慶長18年(1613年)に生駒家から出奔、土佐国の山内忠義(やまのうち ただよし。土佐藩第2代藩主)に仕えました。

出奔した井頼を許せなかった正俊は、山内家に対して井頼の奉公構(ほうこうがまい)を出します。
要は再仕官させないための嫌がらせです。

生駒家と争うつもりのない山内家は井頼をかばい切れず、井頼は慶長19年(1614年)春に山内家を去り、再び牢人となってしまいました。

豊臣家の滅亡を見届ける

画像 : 大坂夏の陣図屏風 public domain

どこにも仕官させてもらえず困窮していた井頼に舞い込んだ朗報が、大坂冬の陣です。

豊臣秀頼は徳川家康との決戦に臨むため、各地の牢人を掻き集めていたのでした。

大坂城に入った井頼は、二ノ丸の守備を担当しました。城内には異母姉にあたる淀殿(茶々。浅井三姉妹の長女で秀頼の生母)もいましたが、井頼がその縁によって特別に厚遇された形跡はありません。

もし淀殿との関係が深かったなら、井頼はもっと早く豊臣家に召し抱えられていた可能性もあります。
しかし実際には、彼は長く各家を渡り歩き、大坂の陣に際してようやく豊臣方に加わったのでした。

ともあれ翌慶長20年(1615年)となった大坂夏の陣では、毛利勝永の部隊に所属して死闘を繰り広げました。

ここで討死したという説もありますが、大坂落城時に脱出して何とか生き永らえたようです。
淀君と疎遠だったゆえに殉じることなく、命拾いできたと言うべきでしょうか。

しかし拾った命を食いつなぐためには、何とか生計を立てなければなりません。

現時点で利用できそうな伝手と言えば、浅井三姉妹の生き残りである次女の初(はつ。常高院)か、三女の江(こう。崇源院)くらいでした。

江は徳川秀忠に嫁いでいるため、関ヶ原・大坂の陣と徳川家に敵対してきた自分がお世話になることはできません。ノコノコ顔を出したら、豊臣の残党として処刑されてしまうでしょう。

そこで井頼は初の伝手を頼り、義理の甥に当たる京極忠高の庇護を受けました。

井頼は出家して浅井作庵(さくあん)と号し、客分として知行500石を与えられます。

そして一説には、寛文元年(1661年)5月16日に88~92歳という天寿を全うしたのでした。

浅井井頼・略年表

画像:浅井長政の肖像画 高野山持明院蔵  public domain

元亀3~天正2年(1570~1574年)誕生

天正11~13年(1583~1585年)羽柴秀勝(秀吉養子)に仕える

天正13年(1585年)秀勝が亡くなり、小一郎(羽柴秀長)に仕える

天正19年(1591年)小一郎が亡くなり、羽柴秀保(秀長養子)に仕える

文禄4年(1595年)秀保が亡くなり、増田長盛に仕える

慶長5年(1600年)関ヶ原の合戦で敗れ、改易されて牢人となる

時期不詳 生駒一正に仕える

慶長15年(1610年)一正が亡くなり、嫡男の生駒正俊に仕える

慶長18年(1613年)生駒家を出奔して山内忠義に仕える

慶長19年(1614年)奉公構によって山内家を去り、豊臣秀頼に仕える

慶長20年(1615年)大坂夏の陣で豊臣家が滅亡、再び牢人となる(討死説も)

時期不詳 初(常高院)の伝手で京極忠高に庇護され、出家する

寛文元年(1661年)5月16日 世を去る(諸説あり)

終わりに

今回は浅井長政の遺児である浅井井頼について、その生涯をたどってきました。
実にあちこちと渡り歩いてきましたが、最後は姉の伝手で京極家に落ちつけたようです。

ちなみに井頼の子孫は京極家の丸亀転封に付き従い、丸亀藩士としてその家名と血脈を後世に受け継いだのでした。

参考文献:
・阿部猛ら編『戦国人名事典 コンパクト版』新人物往来社、1990年8月
・小和田哲男『戦国三姉妹物語 茶々・初・江の数奇な生涯』角川学芸出版、2010年11月 他
文 / 角田晶生(つのだ あきお) 校正 / 草の実堂編集部

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