時代を超えて交差する「よい芸」と“古典”を現代に表現する意義──アニメ『ワールド イズ ダンシング』監督・黒柳トシマサさん×アニメーションプロデューサー・溝口侃さん対談インタビュー
2026年7月2日(木)より、TOKYO MXほか全国9局にて放送中のTVアニメ『ワールド イズ ダンシング』。
南朝と北朝二つの朝廷の争いが続く動乱の時代。後に世阿弥と呼ばれるようになる少年・鬼夜叉(CV:花守ゆみり)の“あったかもしれない”ダンシングストーリーがついに開演となりました。
アニメイトタイムズでは、本作の監督を務める黒柳トシマサさんと企画発起人であるアニメーションプロデューサー・溝口侃さんの対談インタビューを実施。本作への愛と情熱を語っていただきました。
室町時代のトップクリエイターである世阿弥が生み出すコンテンポラリーな舞。ときに“古典”とも呼ばれる鮮烈な文化を、現代のトップクリエイターたちはどのように見つめているのでしょうか。
【写真】アニメ『ワールド イズ ダンシング』黒柳トシマサ×溝口侃 対談インタビュー
能≒アニメーション?
──原作漫画『ワールド イズ ダンシング』において、特に心を掴まれたポイントをお聞かせください。
アニメーションプロデューサー・溝口侃さん(以下、溝口):これまでも能楽を題材にした漫画はありましたが、能を古典として解釈する作品が多い印象でした。でもこの漫画は能を、当時は猿楽と表されたものですが、それを「やる」漫画です。しかも、伝統として「凝り固まったもの」ではなく、これから新たに能を生み出していく瞬間を描いています。非常に強く感銘を受けました。自分たちがアニメを作っている今と通じるものがあると思ったのが、ファーストインプレッションです。
監督・黒柳トシマサさん(以下、黒柳):そんな溝口さんが「アニメを一緒に作りませんか」と原作を持って来てくださいました。読む中で気がついたのですが『風姿花伝』「初心忘るべからず」といった能に精通していなくても知っているような書物や考え方が、自分たちの中にもぼんやりとあるんだなと。能は人が大人になっていく、生活している中でそばにあるものなんだなと感じました。
──アニメの公式サイト「キーワード」ページの「能(能楽)」に掲載されている「現代の能」というフレーズにハッとさせられました。おかしな言い方ですが、現代にも生きた能があるんだ、と。
黒柳:僕も能を古典だと思っていたのですが、室町時代においてはコンテンポラリーなものだったと描かれていて。観阿弥、世阿弥、犬王ら登場キャラクターは、その後600年以上続く能の世界をまさに作っている最中の人たちですよね。そんな人たちの考え方は、僕たちがアニメーションを作っている過程と似ているんじゃないだろうかと。
今後、アニメーションという文化がどれぐらい続くのかわからないですが、僕たちは世阿弥らと同じくその入口に立っているんじゃないかなと思っています。能とアニメに似ているものを感じたんです。
──「コンテンポラリー」といえば、溝口プロデューサーが一橋観世会で津村禮次郎先生から受けたお言葉があったとか。
溝口:そうですね。「能楽は室町時代のコンテンポラリーダンスなんだよ」という言葉をいただいたのですが、そのときに僕が受けた衝撃を作中の鬼夜叉も感じているだろうなと。
漫画を読んだときにも先生の言葉がフラッシュバックしたんですよね。自分が学生時代に能楽と出会ったときの体験みたいなもの……彼(鬼夜叉)の場合は能楽ではなく「白拍子の舞」でそれを体験したのかなって。
そんな体験もあって、素直に「この作品をやりたいな」「アニメ化したいな」と強く思いました。
──「白拍子の舞」を見た鬼夜叉は「よい」という言葉を口にしますが、お二人にとって「よい芸」「よいもの」とはどのようなものでしょうか。
黒柳:例えばアニメーターだと「うまい」と言われるときと「よい絵だね」と言われるときがあります。この場合の「うまい」はきっと、アニメーションにおける絵の綺麗さなどの「上手」という意味合いだと思うんです。
一方「よい絵だね」と言われるときは、描いたキャラクターがキャラ表とは似ていないこともある。佇まいの雰囲気が良い、のような感覚に近いところもあるような気がしています。「この人が描いたからこの絵になっている」んだと思うんです。それが「よい絵」なんだろうなと。
本当に「うまい」人たちは「うまい」かつ「よい絵」を描く。その境地の一歩手前にいる人は「うまい」と「よい」が分かれているような気がしています。
どちらかというと僕は「よい絵だね」と言われたくてアニメーターをやってきました。だから、絵が似ていなくて怒られたりするんですけど(笑)。
溝口:(笑)。
黒柳:絵コンテなどもパッと見ただけではどこがどう違うかわからないのですが、ちゃんと読み込んでいくと「あ、このコンテなんか良いな」と伝わってきたりするものなんです。コンテの中によいものがあって、それをよいとキャッチする自分自身がある。そのふたつがあることで成立するものかなと思ったりします。
──ともに本作を作り上げた溝口プロデューサーが感じる、黒柳監督の創る「よいもの」とはどのようなものでしょうか?
溝口:アニメは集団作業なので、キャラクターだったら作画に合わせないといけないなど、何かに合わせなければいけないときがあります。集団の中でやっていけるように、という意識があると思うんです。その中でも黒柳さんが描いてくださる絵やコンテは、黒柳さんの人柄がもろに出ているんですね。
タイトルによっては「原作に合わせないといけない」という意識が強く出すぎてしまうこともあると思うのですが、本作の場合は原作通りなのに黒柳さんの人柄を感じるというか。「黒柳さんは原作をこのように捉えているんだな」という雰囲気が出ていて「黒柳さんのフィルムだな」と思えることがよさでありユニークさだと思います。
各々がどのように受け止めるかは別として、ユニークさが出ていて、それが強烈によいなと思っています。単純にアニメの工程に懐柔されきらないようにしてくれたのかなと。
──黒柳監督が作ったからこそのアニメであると。
溝口:そうですね。実際にアニメをご覧いただいたらわかるとおり、オリジナルキャラクターがいきなり出てきます。あの要素も黒柳さんの発案でした。物語の根本から黒柳さんの息吹を付け足していただいているので、そこも含めて自分としてはよいものです。こういう付け足し方があるんだなと勉強にもなりました。
──黒柳監督がご自身の“息吹”を加えた意図というと?
黒柳:原作が、とにかく本当によかったんです。テーマ性や描き方……そのすべてが漫画として素晴らしいと、三原(和人)先生の原作を読んだ時に思いました。
そんな素晴らしいものをアニメーションにする。ただ漫画の絵を動かす作り方とは別に「形を崩さず漫画をさらにより大きく広く多くの人たちに伝える方法」はないだろうかという考えが最初からありました。
アニメの描き方によって、伝わるべきところはより伝わるようにして、同時にわかりにくいところは、そのままわかりにくくしたいという気持ちもあって(笑)。そのために、より複雑にしてしまったところもあるし、簡素化した部分もありました。物語の真ん中にいる鬼夜叉が、どのように見えるかを考えないといけませんから。
原作の状態だと、どんどん鬼夜叉の周りにいるキャラクターが流れて行く印象を受けていました。どういうことかというと、最初に「白拍子と出会いました」「次に増次郎たちと出会いました」「次は犬王と出会いました」とテンポ良く進んでいくんですね。犬王と出会っている間に、増次郎という存在は過去の存在になっていたと感じたので「鬼夜叉の周りにはいつも人が留まっている」様子を描きたいなと。
オリジナルキャラクターとして創り出した石也は、いつも鬼夜叉を客観的に、そばで見続けている。彼が居ることで、鬼夜叉が一か所に留まることができるんじゃないかなと思いました。
──鬼夜叉の人生の話であることをより明確にするために。
黒柳:そうですね。誰かがふいに、どこかに行ってしまうこともあまりないだろうと(笑)。その人はずっと、鬼夜叉の側にはいるんだろうという状況がよりわかりやすくなるといいなと思いました。
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「答えを出したいわけではなかったりしますから」
──溝口プロデューサーにとっての「よい芸」「よいもの」とはどのようなものでしょうか。
溝口:そうですね……自分にとって「理解しがたいけれど、それでも素晴らしいと思ってしまうもの」が、よいものだと思っています。
個人的に好きなものはいっぱいあって、自分の人生を立ち返ると記念碑的な作品がいくつもあります。それらを見ても「わからないけど、なんか良い」と思った瞬間を思い出して。
人間って、自分が安心するために色々なことを分類していくと思うんです。あれはこう、これはこうと、どんどん理解をして、理解をすることで安心を得る。でも自分にとって本当によいと思うことってどこか、何か理解できない。「自分は本当に正しいのか」と問いかけてくる。そんな「よいもの」と出会えてきたからこそ、今僕はこの場に立っているという感覚があります。
何がわからないのか、何がよいのかは生きているそのときによって変わっていくのですが、やはり折々、自分にとって好きなものや「よいもの」は自分では理解しきれないんですよね。名状し難いパワーを持って僕に迫ってきたものを、出会ってから10年後くらいに「こういうことだったのかな」と思う瞬間がきたりして。その瞬間が、僕にとってたまらなくよいなと思います。
──人類が「よい」を瞬間的に理解できるときは、いつか来るものなのでしょうか……。
黒柳・溝口:(笑)。
溝口:今言ったことって、ある種「言語化できない」ということに少し近いのかなと思っていて。言語化できないからこそ言語で想いを馳せる。それも良い体験だなと思っています。
理解できる瞬間が一生こなくても、それはそれで一生考え続けられるので僕は嬉しいなと(笑)。答えを出したいわけではなかったりしますから。
──鬼夜叉が「白拍子の舞」を覗き見たとき、“よい”という読みの漢字が無数に出てくる演出がありましたが、今のお話と通じるのかなと。
溝口:そうですね、まさしくその通りです(笑)。
──黒柳監督から見た、溝口プロデューサーの作るものが持つ「よさ」はどのようなものでしょうか?
黒柳:溝口さんが発起人として始まって、その情熱に僕たちは当てられて(笑)。必ず良いものにしたいと思っていました。
アニメーション制作は、基本的にメーカーの方から作品がきて、やるかやらないかを決めることが多いんです。今回のように現場から「こういったアニメを作りたい」と始まるのは、ちょっと珍しくて。しかも内容は「“能”をテーマにした世阿弥の話」です。企画として成立するかどうかは一旦置いておいて、こういう作品が好きだという人は現場に多いんですよね。
同時に今回のような作り方がうまくいけば、今後第二、第三の“溝口さん”が生まれて「自分たちも」と後に続くことができるんじゃないだろうかと。そういった意味でも、負けられないなという想いがありました。
溝口さんはただ「作りたい」だけではなくて「どうしたらもっと良くなるか」を躊躇なく現場に言ってくれるんです。もちろん「ここ、よいですね」と褒めてくれるし、同時に「こうした方がもっと多くの人に伝わるんじゃないでしょうか」とも指摘してくれる。さらに言うだけではなく、理想を実現するための人の手配などもひっくるめてやってくれるんです。だから言葉の一つひとつに責任があるんですよね。溝口さんのようなプロデューサーは一緒にいて気持ちが良いので、今回一緒に制作できて良かったなと思っています。
──アニメーション制作はピリピリする瞬間もあるのかなと思っていましたが、純然たる組織像といいますか。
黒柳:そうですね。僕自身は、どの現場でもアニメ作りをキツイと思うことはないんです。大変だなとは思いますけどね(笑)。でも好きでやってることなので。
溝口さんのそばにいる制作進行のみんなや作画のみんなが、本当に気持ちの良い人たちだったので、こんなに作品がよくなるのかとワクワクしながら現場を見ていました。そういった意味でも、とても楽しい現場でした。
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「室町時代だから」という時代考証を敢えて外して
──作品の演出についてもお伺いします。第一話「自然居士」を舞っているシーンの音楽に、恐らくあの時代の日本にはなかったであろう楽器の音が入っているのが印象的でした。
黒柳:能の音楽ですから当然和楽器は入ってくるだろうと思いつつ、今僕たちがイメージするような“日本的な音楽”って実は江戸時代のものなんじゃないかと思っていたんです。江戸より前の室町時代においては、まだ“日本的な音楽”ができあがっていなかったのではないか、という仮説がなんとなく自分の中にあって。
音楽の篠田(大介)さんとも相談をして進めていったのですが、そうすると日本というよりもオリエンタルな音楽になっていくんじゃないかと。なので、和楽器を入れてもらえるところは入れてもらいつつ、国を超えて別の楽器が入ってくるのも全然ありだろうという考えのもと、今回のような曲を作っていただきました。
──たしかに「室町時代の音楽とは」と問われても、学んだことがない気がします。
溝口:制作最初期に、室町時代にあった楽器のリストを貰ったのですが「ん?」ってなっちゃたんですよね(笑)。どういう音が鳴るのかわからなくて。
黒柳:どういう音楽かもわからなくて(笑)。
溝口:“猿楽”が“能楽”に至っていく物語として作った本作において、我々の考えで申し訳ないのですが色々な解釈をしています。あの時代の日本に、西洋の楽器なんてなかったと思うんですよ。でも「創作の過程」だから、手探りでやっていこうという気持ちを反映させた結果、音楽も含めて違う形になっているのかなと思っています。
おっしゃっていただいたとおり今回の「自然居士」 には西洋楽器も入っていますが、和楽器的なものも入っていて、笛なども使っています。一方、これから出てくる曲はまったく和ではないものもあるんです。その面白さは、単純に「室町時代だから」という時代考証を敢えて外してやっている部分です。僕らなりにエンターテインメントとして、このシーンを面白くするという目的に沿って考えて作っていったものでもあります。
──それこそ“現代の”猿楽のような。
溝口:そうですね。実際、能楽と名付けられた後も、時代によって能楽を演じるスピードが変化しているようなんです。今は中間ぐらいのスピードらしいのですが、明治の時はすごく遅かったとか、江戸は逆に早かったとか。能楽も、本当の意味でずっと一緒ではないんですね。だから「あり得たかもしれない」という想いを馳せながら一つひとつの演目と向き合っています。
──演目を丸々描くことが難しい中で、作品における“大事なところ”をピックアップするという工程にも工夫がありそうだなと思っていました。
黒柳:そうですね。何をやっているかわからないという状態はマズいんです。ぎゅっとまとめているけれど、どういう演目なのかを示すヒントが少しでもあるといいなと思っています。
現代語訳にしてストーリーに立てたものを歌詞にしてもらって、それを後ろで歌うことによって「『自然居士』 はこういうストーリーなんだ」と、うっすらわかってもらう。実際の能と同じような形を取りつつ、よりわかりやすくすることが今回のコンセプトです。
──実は大学時代に能楽を一度観に行ったことがあるのですが、やはり難しさを感じました。知識が浅いゆえに何もわからず……。
黒柳:あはは!
溝口:そうですよね(笑)。
──ですが今回のアニメーションを見て「こういうことだったんだ」と認識できました。
黒柳:聞き流してしまえばただの曲として流れていってしまいますが、歌詞だけに注目して聞いてもらえば、ストーリーがわかります。きっと能も、恐らくそういうことなんだろうなと。
──能がコンテンポラリーなものというお言葉には「流行りのもの」という解釈に加えて「当時の人にとって取っつきやすいもの」でもあったのかなと想像していました。
溝口:能楽は、家元関係なくプレイヤーになれるんです。教えてくださった津村先生も「津村」を継いでいらっしゃいますが、元々は家の人ではなくて。大学時代から能楽を始めて、鍛錬を重ねてプロになった方なんです。そういった意味で、能楽師には誰でもなれるんですよ。
この「誰でもなれる」というところが良くて、能楽は武家の習い事になっていくんです。自分たちができるからこそ、武家さんたちと時の将軍たちにどんどん保護されていく。能はずっとそういう形なんです。
これってアニメなどもそうだと思うんです。アニメーターや制作進行って、ある種誰でもなれる……家は関係ないですからね。室町時代のことを厳密に考えれば諸説あると思いますが。
──間違いなく身近なものではあったと。
溝口:そうですね。今となっては観劇から取っつき始めると難しいと思われるかもしれませんが、やること自体はみんなできる。自分も大学でやり始めましたから。
──この時代にわかりやすくアニメで見られるなんてありがたい……!
黒柳:わかりやすくなっているかは、わからないですが(笑)。
<次ページ:「秘めていた花が、やはりたくさんあったんだなと(笑)」>
「秘めていた花が、やはりたくさんあったんだなと(笑)」
──鬼夜叉の日常などはコミカルに、一転「白拍子の舞」などはおどろおどろしさを感じました。本作の映像表現におけるこだわりについてもお聞かせください。
黒柳:今回は、原作より幼い鬼夜叉からスタートしています。鬼夜叉の成長をちょっとずつ感じていただくことを想定しているんですね。
僕としては、さっきまで怒っていたと思ったら今は笑っているなど、コロコロしていた様子から気持ちがだんだんと内面へ向かっていくことが、大人になっていく過程かなと思っています。特に第1話、2話あたりで鬼夜叉が元気にチャキチャキやっているのは、そういうことだと思います。話が進むにつれてバランスが取れていくかもしれないですね。
溝口:ともすると室町時代ということもあって、色々な不条理があります。お話自体も回を追うごとに真面目になっていって、でもやはり真面目だけだと辛い気持ちになりきってしまう。それに対する緩衝材としてのギャグ、日常の明るい要素を入れたいというお話を黒柳さんからいただいていました。
──実際に鬼夜叉を演じた花守さんをはじめ、錚々たる方々が出演されている本作ですが、アフレコはいかがでしたか?
黒柳:役に没入して演じてくださっていたので、毎回のアフレコが楽しみでした。さらに役者さん一人ひとりの作品に対する理解度がすごく高くて。
アフレコを行う前に毎回「今回はこういった狙いです」とお話しをさせていただいたのですが、そんなことをするまでもなく皆さん本作の世界に入りこんでいたのかなと思いました。川滿(佐和子)さんの脚本がすごく面白かったというのもあって、役者さんたちも「脚本がすごく面白いんだよね」と話してくださっていて「やったー!」という感じでした(笑)。
溝口:(笑)。一話数を何か月、場合によっては年という時間をかけながら作っている中で、声優さんたちが演じられるのは一日だけなんですよね。だから現場によってはどうしても我々と温度感が違うときもあるんです。
でも今回は、我々が時間をかけた熱量に応えてくださいました。たった一日ではあったものの熱量を持っていただけたなと感じています。そのおかげで気合いの入った作画に全然負けていない、むしろ絵の方が負けかねないお芝居になっていて(笑)。
それを元に僕らも、より気合いと気持ちを入れて作ることができました。お互いが作品に向き合っていることが伝わるアフレコだったのではないかと思います。
──ちなみに、鬼夜叉を演じる花守さんとのお話で印象的なエピソードはありますか?
溝口:いくらでもあるような気がします(笑)。
黒柳:いっぱいお話ししましたから(笑)。
花守さん自身も、自分にとって何が「よい」のかを鬼夜叉と一緒になって探してくれたのかなと思っています。その話数ごとに鬼夜叉の気分は変わるのですが、その変化にフィットした形でお芝居をしてくださいました。今回は特に、いわゆる「記号的なお芝居はやらないでほしい」と最初から言っていて。
──「記号的なお芝居」ですか?
黒柳:自分が喋っているようにやってほしい、ということなんですね。鬼夜叉というキャラクターを演じるのではなくて、自分がそのまま役になっているような形で演じてほしい。要するに生っぽさというのでしょうか。最初によくその手のお話をしていましたが、見事でしたよね。
溝口:見事でしたね。花守さんは鬼夜叉と年齢も違いますし、境遇も違うと思うのですが、鬼夜叉が体験したことを自分の体験として降ろすような感覚があるのかなと。鬼夜叉は第3話以降も色々な体験と経験をしていきますが、嬉しいことも悲しいこともいっぱいあるんです。その嬉しい、悲しい気持ちを自分の体験に当てて「こういう感覚だった時のこれ」として咀嚼してくれる。そこからさらに「鬼夜叉だったらどうだ」と重ね合わせてくれていて。結果的にすごく生っぽいんですよね。ちゃんと人物として喋ってくれているといいますか。
本来、鬼夜叉はすごくキャラクター的なんですよ。めちゃくちゃ可愛いし、見栄えもいいし。今回のアニメにおいて、どこかしっかりとした人間味を感じることができて、感情移入もできるのは、花守さんがそういうふうに息を吹き込んでくれたからだと思っています。
──昨今“生っぽい”という表現をよく聞くようになりましたが、実現するためには相当練度が必要なのだろうと思っていました。
黒柳:生っぽい芝居を求めていても、作品の内容が生ではないときも当然あって。そこら辺がチグハグに感じることも時々ありますね。今回は作品的にも生っぽさを求めて描いていたので、相性が良かったのではないかなと思います。
──花守さんにもお話しをお伺いしたのですが「この子は笑っているように見えて泣いていてほしいし、怒っているように見えて楽しんでいてほしい」というディレクションがあったとか。
黒柳:僕だったか、溝口さんだったか……。
溝口:(笑)。
黒柳:表情は笑っているけれど感情は泣いている……そのまんまですが(笑)。そういうお芝居を求めたシーンが多かったですね。
──その感情が、舞う理由にも繋がる。
溝口:そうですね。良いように言うと、通常のアニメキャラクター声というものは、どちらかというと歌舞伎的だと思うんです。しかし生っぽい芝居というものは、能楽的で引き算の手法。やはり「秘める」ことが大事なので、そういう意味では能楽的にも「生っぽさ」はテーマ性にも繋がっていくのかなと思っています。
「キャラクター」という言葉が意味するは「記号化する」「強調する」という意味だと思いますが、そことは別の「強調しない」「でも伝わる」という演技が大事なのかなと。そう思って始まったアフレコでした。
──足していくのではなく、お芝居の要素を引いていく。
溝口:能楽の考え方だと、芝居感は7割でいいんです。普通にお芝居をすると10割になりますが、7割に抑えることで逆に伝わるようになるんですね。3割に想像の余地があって、観ている人がその3割を補填することによって伝わる。10割を出してしまうと「あなた」でしかなくなってしまう……花守さんはこの考えを意識してくれたのかもと思っています。
アフレコが終わった後のインタビューなどを聞いていると、収録期間中に聞けなかったエピソードを花守さんがたくさん話してくれていました。
黒柳:そうですよね(笑)。
溝口:秘めていた花が、やはりたくさんあったんだなと(笑)。めちゃくちゃ熱い想いを語ってくれて、会う度になんて良い人なんだと思っています。こんなに作品を好きでいてくれる主人公は嬉しいです。
<次ページ:次の600年、そして次の100年に向けて>
次の600年、そして次の100年に向けて
──型付監修を務められた津村先生のコメントに「古典が古典に留まることなく広く親しまれることを望んでいる」というお言葉がありました。いわゆる古典と呼ばれるものを、現代に生きる我々が改めて咀嚼する意義をお二人はどのように考えていらっしゃいますか?
黒柳:抽象的に話すと、時間の流れは本当に直線的なんだろうかと……。
溝口:そこだけだとあまりにも説明がない(笑)。
黒柳:(笑)。室町時代があって、戦国時代があって、江戸時代があって。明治、大正、昭和、平成、そして現代の令和があって。それって一本の道なんだろうかと言うと、必ずしもそうとは言い切れないと思うんです。
例えば、鎌倉時代に作られた神社を歩いているとして、そこに流れている空気は現代のものではなく鎌倉時代のものなのではないかと思う瞬間がある。現代にも鎌倉という時代が流れているんじゃないだろうかと。
時間は単なる一本の道ではなく、現在にも様々な時代が残っていて、僕たちはそこを行ったり来たりしているんじゃないかなと思うんです。そうすると、いわゆる古典というものは過去のものではなくて、現代にあるということになります。形式や、色々なものがついてきてしまって、それによって距離を感じてしまうかもしれないけれど、同じ時代にあるんだと。
言ってしまえば、現在行われている現代の能も、もしかすると室町時代の能かもしれない。そういう不思議な感覚なんです。だから過去のものだから勉強する・しない、昔のものに対して知識がある・ないではなく、そこにあるんだから知ろうとするのは当然、という感じです。
溝口:少し補足すると、能楽は演目にもよりますが序盤に現代の風景が流れて、そこから「過去こんなことがあった」と展開されることが多いんです。例えば「この女性はかつて男性に裏切られて怨霊になってしまった」とか。後半でその過去が急に現れることがある。場転して唐突に過去が現れて、ときには「現代の話はどこにいった!」となりながらお話が進んで終わっていく。それは過去の回想ではないので、複数の時代が同じところに並列で存在するんですね。
──シームレスに繋がっているのですね。
溝口:そうです。今の時代にもそれが立ち現れるということは、すごく能楽的だと思います。その感覚は猿楽・能楽を扱ったこの作品の中にも息づいていると思っています。
自分が”古典”を題材にした作品を今出す意義としては、能楽を今の若い子が見たら逆に新しいと思うんです。見慣れないものでしょうし、それでいて能楽の心得や奥義……例えば「序破急」の概念や「秘するが花」の考えは現代演技に受け継がれていますから。
今回のテーマの元となる能楽というものは、600年という年月を経てありふれた文化になってしまっていて、現代人が常日頃の見ているコンテンツと比べてと刺激がないかと言えば、それは全然違うという印象です。
能楽を実際に見たら古いものだと思うとか以前に文化的なショックを受けるぐらい刺激はあるのではないかと思っております。
実際に観ていて、わからなくて退屈という気持ちはあると思いますが、見たことがないものではあるんじゃないかなと。その感覚は一度味わってみてもらいたいなと思っています。
ここで提出することで、能楽が何か少しでも盛り上がればいいなと思っていますし、約600年続いている能楽が次の600年も続けばいい。さらに言うと、アニメはまだ100年ぐらいの若い文化ですが、今回のように色々な伝統芸能と組むことでその脈を繋いでいけたらと思っています。
──ありがとうございます。結びに、第3話以降の注目ポイントを教えてください。
溝口:難しいなあ……。
黒柳:そうですね、どこだろうな(笑)。
溝口:わかりやすいところで言うと、舞のシーンとか。
CGをベースにしたモーションキャプチャーを撮って作ったシーンもあれば、完全に映像をイチから撮って一人のアニメーターが担当をした、ある種その人の舞とも言えるシーンもあります。振付家の方も一人、描くアニメーターも一人……その複合で作っているので、舞には魂が宿っていたり、逆にテクノロジーを感じる部分があったり。様々な表現にチャレンジしていますし、タイトルも「ダンシング」ですから、舞は間違いなくひとつの注目ポイントとなっています。
黒柳:自分の演出の特徴で、ポエムのようなシーンがあります。詩の表現というんでしょうか。そこは原作にないものですので、一体それが何のシーンなのかよくわからないこともあって。「果たしてこれは何なのだろうか」と一緒に想像しながら見てもらえると嬉しいなと思います。
能自体も、観客が能動的に「あそこのシーンはこうだったんじゃないのかな?」など、色々なイメージで補填しながら、ひとつの作品として出来上がるものです。同じように『ワールド イズ ダンシング』も「あそこのシーンは何だったんだろう」と、見てくれている人たちの方で補填してもらえると、よりこの作品が豊かになるのかなと思います。
【インタビュー:西澤駿太郎】