三上博史 寺山修司と過ごした強烈な5年間「見るもの聞くものすべてがカッコよかった」
ドラマや映画、舞台など、エンターテインメントの世界で圧倒的な存在感を放つスターたち。そんなレジェンドが半生を振り返る「レジェンドメッセージ」Vol.2は三上博史さんが登場。
高校1年生のときに、詩人・劇作家の寺山修司氏に見いだされ、映画「草迷宮」でデビュー。「私をスキーに連れてって」(1987年)でスキーブームを巻き起こし、『君の瞳をタイホする!』(1988年/フジテレビ)出演以降、トレンディドラマを牽引する存在に。
そんな三上さんが「寺山修司没後40年記念/紀伊國屋ホール開場60周年記念公演『三上博史 歌劇 ―私さえも、私自身がつくり出した一片の物語の主人公にすぎない―』」に主演します。
師・寺山さんとの思い出や公演に懸ける意気込みをインタビュー。
また、デビュー秘話から数々のヒット作を連発した1990年代を振り返ったほか、“演じること”への情熱を聞きました。
<三上博史 インタビュー>
――2015年の「タンゴ・冬の終わりに」以来、舞台出演するのは約8年ぶり。今回は「歌劇」というスタイルに初めて挑戦しますが、どのような舞台なのでしょうか?
寺山さんがこれまで作ったテキスト、歌詞を書いた曲を抽出し、構成します。いわゆる演劇とも違うし、ミュージカルとも違う、これまで見たことのないような刺激的なものになっていると思います。
――2008年から毎年、寺山さんの命日に青森県の寺山修司記念館で追悼ライブを行い、寺山さんの曲を歌っているそうですが、三上さんが感じる寺山さんの歌の魅力とは?
底辺の世界の悲哀を表現したものから、インテリジェンスを感じさせるものまで、幅が広いですよね。今回の舞台で僕が選んだ曲は、浅川マキさんのものが多いです。
自分ではあまりそう思わないけれど、演奏を担当してくれるミュージシャンたちからは「情念系だね」と言われています。
寺山さんの詞ではありますが、“僕自身が発したい言葉たち”を選んだつもりです。ビジュアルが強烈に浮かぶような歌詞が多いので、演劇的なアプローチとして届けたいですね。
――それらの曲を、今回はミュージシャンの方たちによる生演奏で披露されるそうですね。
舞台「ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ」を一緒にやったメンバーを中心に声をかけました。衣装デザイナーさんやメイクさんも「ヘドウィグ~」の方たちだし、ほかのスタッフも含め、どこを向いても大好きな人だらけ。やることも好きなことだらけだから、観る人は僕の部屋を覗いているような感じになるかもしれません。
――歌唱や詩の朗読のほか、「レミング-壁抜け男」の“空想の大女優”役など、寺山作品の個性的なキャラクターを演じられるのも楽しみです。
寺山さんの作品のどこをどう切り取るのか、演出・音楽・美術を担当するJ・A・シーザーさん、共同演出で上演台本を書かれた髙田恵篤さん、同じく、上演台本を書かれた寺山偏陸さんらと話し合いながら決めました。
これは僕の特性だと思うのですが、演じるうえでの“縛り”がまったくないんですよ。老婆でも少年でも、生きものだったら、もうなんでもござれ。そういう視点で選んだキャラクターになっていると思います。
――台本を読んで、どんなことを感じましたか?
僕は、テネシー・ウィリアムズの「欲望という名の電車」の映画版でヴィヴィアン・リーが演じたブランチが大好きなんですが、台本を読みながら、そういうイメージが浮かんできて、寺山さんの世界にも合っているなぁと思いました。
寺山さんも絶対ブランチが好きだったと思うし。僕がもともと好きなのか、寺山さんの影響なのか、どっちが先かはわからないけれど、共通するルーツのようなものを今回、改めて感じました。
オーディション会場で寺山修司から肩を叩かれ、「一瞬でデビューが決まった」
――15歳のときに寺山さんが監督した映画「草迷宮」(1979年)でデビュー。“呪縛”とまで言うほど、寺山さんから受けた影響は計り知れないのでは?改めて、初めてお会いした時のことを聞かせてください。
高校1年生のときに、「草迷宮」の主役募集の告知が載った新聞を同級生が持ってきて、「お前、これに出ろ」と言われたんです。
当時の僕は、高校に入学した時点で進学する大学まで決めていて、「きっちり4年で卒業して、高額の所得が得られるサラリーマンになる」という将来を思い描いていました。
ガチガチに自分でレールを作っていたんですね。正直、映画にそれほど興味はなかったけれど、高校の3年間と大学の4年間、就職する前の7年間のうちにやりたいことはすべて経験してしまおうと思って、応募してみました。
学生服を着てオーディション会場に行ったのですが、エレベーターが開いた瞬間、目の前が劇場で、紫色の照明の中で裸の女性が踊ったりしている。「なんだ、これは」と呆然としていたら、遠くからカランカランという音がして、「うるせえな」と思って振り向いて睨んだら、ぽっくりサンダルを履いた寺山さんでした。
慌てて顔を戻したら後ろから肩を叩かれて、「名前と、オーディションの番号を教えて」と聞かれました。多分、あの一瞬で決まったのだと思います。
その後、映画「さらば箱舟」(1984年)でご一緒し、そのあと、すぐに亡くなられました。当時、僕は20歳。たった5年間しか交流はないのですが、多感な時期だったこともあり、見るもの聞くものすべてがカッコよく惹かれて、僕にとってはとても強烈な5年間でした。
――寺山さんから受けたものの中で、最も大きなものとは?
既成の価値観を全部壊された。これが一番大きいと思います。「これがいい」とか「この色が綺麗」とか、基準みたいなものがあらかじめ壊されているので、自分はどれをいいと思うのか、はたしてそれでいいのか…。この年になってもその都度、考えています。
僕が出会ったころ、寺山さんはご病気だったので、ご本人からというよりは作品や、寺山さんの主宰されていた「演劇実験室◉天井棧敷」の劇団員の方たちから影響を受けたところも大きいです。
先輩たちの会話に(イタリアの映画監督)ピエル・パオロ・パゾリーニやフェデリコ・フェリーニなどの固有名詞が出てくると、メモをするのは恥ずかしいから胸に何回も刻んで覚えて、当時はネットもなかったので情報誌で探して、名画座のオールナイトを観に行ったりもしていました。寺山さんのルーツがどこにあるのかをとにかく知りたくて、必死で追いかけていました。
テレビドラマは実験の感覚「やってみたいアプローチを試していた」
――そんな寺山さんの、ある種“アンダーグラウンドな世界”が出発点だった三上さんが、1980年代~90年代にかけては、数々のテレビドラマに出演。フジテレビでも主演ドラマが何作もありました。ドラマの世界に入った経緯を教えてください。
大島渚監督の映画「戦場のメリークリスマス」(1983年)に出演したときに出会ったスタッフの方がTBSでお仕事をされていて、その流れで、金曜ドラマ『無邪気な関係』(1984年)に呼んでいただきました。これが初めてのドラマです。
その後に、映画「私をスキーに連れてって」(1987年)に出演したのですが、実は映画のタイトルは最初全然違うものだったんです。記者会見で初めてこのタイトルが発表され、「タイトルをつけたのはこの方です!」と紹介されたのが、当時、フジテレビのプロデューサーだった石原(隆)さん。
それとは別に、わたせせいぞうさん原作のドラマ『ハートカクテル』(1987年~1988年)を鈴木保奈美ちゃんとやったときに、フジテレビの大多(亮)さんから「ラブストーリーをやりたい」と連絡をもらったことから『君の瞳をタイホする!』(1988年)に出演し、石原さん、大多さんたちとのお仕事が続いていきました。
――三重人格者を演じた『あなただけ見えない』(1992年)では、明美という狂気をはらんだ女性を演じて話題になりましたね。当時は、どんな思いでドラマのお仕事に向き合っていたのでしょう。
僕の中では、テレビドラマは「実験」という感覚でした。映画は長く残るものだけれど、ドラマはそうではないと思っていたから、自分がやってみたいアプローチや演技をどんどん試していたようなところがあります。
デフォルメしたキャラクターや派手な芝居、コメディ…できるだけ極端なことをやってみたくて、スタッフの方たちとも話して、その流れで三重人格のキャラクターも出てきたんです。
――当時のキャラクターには、三上さんの意向もかなり反映されていたんですね。
そうですね。たとえば『この世の果て』(1994年)は、僕が映画「ベティ・ブルー 愛と激情の日々」が好きだと話したことが一つのきっかけになってできたドラマ。鳥の名前も「ブルー」でしたしね(笑)。
40歳で役者廃業を考えるも、恩師の没後記念公演で心境が変化
――ドラマから舞台へ出演の幅を広げていくようになったのは、どんな理由からですか?
実は僕、寺山さんから「お前は舞台には向いていない」「お前は俺の映像要員だから」と言われていたんです。本当は、寺山さんの舞台があまりにもカッコよかったから自分もやりたいと思っていたんですが、その言葉がずっと心の中に残っていて。だから、20代30代は、舞台をやっていないんですよ。
いろいろな役をやる中で、「このまま役者をやっていていいんだろうか?」という迷いが出てきて、40歳で役者をやめようかとも思っていました。そんな時に、寺山修司没後20年記念公演「青ひげ公の城」(2003年)の話があったんです。
寺山さんに言われたことを先輩たちに話したら、「もういいんじゃない?」と背中を押されて、自分も「もう辞めるし、最後だからやってみよう」と思って舞台に立ったら、それまでの悩みが払拭されたんです。「ここにも生きる道はあるんだ」と。
公演が終わって、当時住んでいたアメリカのアパートに帰ってから、たまたま観た舞台が「ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ」でした。役をやりたいとは思わなかったけれど、楽曲を歌いたいなぁと思って東京に戻ってきたら、偶然にも「ヘドウィグ~」の企画を持ちかけられました。それから、蜷川幸雄さん演出の「あわれ彼女は娼婦」(2006年)など、舞台にバーッと出るようになりました。
――役者人生を経てきて、以前と変わった部分はあると思いますか?
過去の自分には作為的な部分があったかもしれないけれど、今は嘘のない、誠(まこと)のところだけでやっていると思っています。
時代とともにツールは変わっても、結局は自分が面白いと思うものしか提供できないんですよね。そういう点では、何も変わっていないです。
僕のキャパはあまり広くないけれど、そこを一緒に楽しんでくれる人はいると思うし、共感、共鳴してくれる人には届くだろうと思ってやっています。
役に向き合うときは「自分を捨てていく作業」からスタート
――三上さんにとって、「演じる」とはどういうことでしょう?
役者にとって、「自分」という人格なんてあればあるほど邪魔だと僕は思っています。だから役に向き合うときは、価値観や美意識、哲学など「自分を捨てていく作業」をします。
準備運動みたいに、一つ一つ自分を外していく。そうやっていくと、新しい台本や人物を読み込んだときに、何かになろうとしなくても自然と役が体に充満してくる。「核」のようなものができるんです。それができたら、あとは「表現」があればいい。声の出し方など、テクニカルな部分でのアプローチです。
「自分を捨てていく作業」なんて言葉遊びみたいだけれど、なかなかどうして、実生活では難しい。小手先の芝居をしていたら観客はすぐにわかってしまいます。だから、ギアをいつもニュートラルにしておくことが大事だなと思います。
もっとも、この年になったからなのか、最近は捨てるほどの自我もなくなってきていて、ギアもニュートラルに入ったままです。特に今回の舞台は、コラージュ的な作品なのでいろいろな役があり、曲の一つずつにも主人公がいます。
それを追いかけるだけで振り回されているので、自我が出てくる余裕もないです(笑)。観ている方にも、1本のストーリーとはまた違った楽しみ方をしてもらえるんじゃないかなと思います。
――そんな三上さんのアプローチは、今回の歌劇の「私さえも、私自身がつくり出した一片の物語の主人公にすぎない」というサブタイトルと、とても親和性があると思います。
髙田さんが寺山さんの言葉の中から選んでくださったのですが、一人の虚像として生きてきた僕にピッタリだと思っています。でも、これは皆さんに宛てたものでもあるんですよ。
役者に限らず、自分が一片の物語の主人公にすぎないと思って生きたら、とても楽だと思います。あらゆる人にとって、励ましになり、共感できる言葉なのではないでしょうか。俳優の僕にとっては、よりわかりやすいサブタイトルになっていると思っています。
――舞台を楽しみにしている皆さんへ、メッセージをお願いします。
いわゆる“観劇”する、完成されたものを耽美に鑑賞するようなものではないと僕は思っています。それよりも、今いる世界とは違う世界に行きたいと思っている人、何かにとらわれていて息苦しく生きている人が観たら、とても面白いのではないかな、と。「こんなのありなんだ」と思えたら、きっとスッキリするはずです。観た人の心にズコンと風穴を開けるような作品なので、ぜひ撃たれに来てください。
<デビュー作「草迷宮」の思い出>
当時の僕は、今よりずっと大人でしたね。この1本の映画に出た後は、何ごともなかったかのように普通の生活に戻るつもりでしたから。「お金の稼げない役者なんかやるより、一流企業で働いたほうがいい!」なんて、すごいことをいっぱい考えていました。
でも、学校生活を送っていると、胸のあたりに隙間風が吹いてくるんですよ。「なんだろう、これ」と思ったら、「あの“お祭り”に、もう1回参加したいな」という気持ちでした。自分のロジックとはまったく別の感情でした。それからは、用もないのに気がついたら稽古場にいましたね。
今から思えば、いい大人が集まって真剣にものを作っていることに、自分では気がつかないほどの刺激を感じていたんでしょうね。「何やってんの?この大人たち、バカじゃないの」と思っていたのに、それがだんだん愛おしくなってきて。こういう一生も悪くないなって、自分でレールを敷いた人生にケリをつけました。結果として、今のほうがよっぽど子供ですよ(笑)。
撮影:河井彩美
ヘアメイク:赤間賢次郎
スタイリング:勝見宜人(koa Hole inc.)
取材・文:狩野南
衣装協力:ジャケット、シャツ、パンツ(suzuki Takayuki/スズキ タカユキ)
寺山修司没後40年記念/紀伊國屋ホール開場60周年記念公演
三上博史 歌劇
―私さえも、私自身がつくり出した一片の物語の主人公にすぎない―
2024年1月9日(火)~14日(日)紀伊國屋ホール
*前売りチケット好評につき、アーカイブ配信決定。