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僕は渡辺美里と結婚したかった――80年代日本ポップミュージック考

さんたつ

いまの若い人たちは渡辺美里を知っているだろうか。「渡辺」で検索したら予想変換で渡辺麻友、渡辺謙、渡辺美優紀、渡辺喜美、渡辺直美の後にようやく出てきた。よござんす。平成生まれの『散歩の達人』読者(いるかな?)に、渡辺美里を熱く語りましょう。

1985年、渡辺美里は高校卒業とほぼ同時にデビューした。もっ、初めて見たときからめちゃくちゃ可愛いと思ったね。こちらは中学2年生で、5つ上の美里がまぶしくて仕方がなかった。当時、美里はTBSラジオで深夜1時から「スーパーギャング」というパーソナリティーが日替わりの帯番組で月曜日を担当していた。他愛のない話ばかりなんだけど、キュンキュンしながら聴いていた。

今で言うと10代の女の子が菅田将暉くんのラジオを聴くような感じかなあ。ルックス良すぎ・実力ありすぎの憧れの先輩と深夜に繋がっている、みたいな。美里と同じ時間にニッポン放送は中島みゆきのオールナイトニッポンで、どっちも聴きたいから困った。

なんと言っても渡辺美里の人気を決定づけたのは86年のシングル「My Revolution」だった。

作詞家の川村真澄さんによるものだが、この後の美里の路線を確定させた。TBSラジオ「サーフ&スノー」でDJの松宮一彦が「本当の名曲」と語っていたのを思い出す。タイトルはTHE WHOのオマージュだけど、当時の僕は知らなかった。

そして「My Revolution」を含めた2枚組アルバム『Lovin’ you』をリリース。もちろんオリコン1位。その夏に西武球場でライブ。美里はまだ20歳になりたて。もう大騒ぎだった。

とにかく美里の初期はすべてが名曲だった。この頃作詞作曲に関わっていたのが小室哲哉、デビュー前の岡村靖幸、大江千里、白井貴子、木根尚登、佐橋佳幸、伊秩弘将(のちのSPEEDのプロデューサー)という豪華絢爛さ。だから売れた? それだけじゃない。時代がむちゃくちゃ良かった。バブルへと突入する前の好景気に、現代と比較にならないほど社会の空気が明るかった。中高生もおこづかいで音源を買える枚数が増えていった。当然限界があるのでレンタルレコードショップ友&愛で借りた。

音楽雑誌の影響がどれだけ大きかったか。ソニー・マガジンズの『PATi PATi』、『PATiPATi ROCK ‘n’ ROLL』、『WHAT’s IN?』、『GB』などが飛ぶように売れた。『PATi PATi』年7月号(創刊5周年記念特大号)なんて、表紙が美里はもちろん、美里の実物大の顔のグラビアが20ページですよ。みんな買った。でも今はすべて休刊。

レコードからCDへとハードが差し代わり、日本のポップミュージックが大きく変わろうとする転換期だった。佐野元春という神を筆頭に、米米CLUB、バービーボーイズ、TMネットワーク、ハウンドドッグ、ちょっと遅れてザ・ブルーハーツ、レベッカ、BOØWYなどなど。これがバンドブームへと続いていく。

いつしかシンガーソングライターやバンドマンはアーティストと呼ばれるようになった。はっきり書くと「既成のアイドルでは満足できない多感な子たちの受け口」になった(でも実はアイドルなんだけど)。ザ・ベストテンのような歌謡曲を中心としたそれまでの歌番組では魅力を伝えきれない、新しい音楽の価値観を持った人たちが次々とブレイクしていった。

先ほど挙げたミュージシャンたちは、若い人だけでなく、僕のような40半ばを過ぎた団塊ジュニアの世代からしても、あまりに売れすぎたため、いまでは失笑の対象かもしれない。でもね、東京生まれ東京育ちにもかかわらず真性ダサ男の僕からすると、ワクワクするようなチャートアクションとムーブメントが頻繁に起こっていったんですよ。

そして声を大にして言いたいのは、現在まで綿々と続く音楽シーンに、渡辺美里の貢献はめちゃくちゃ大きかったってこと。アイドルとアーティストの端境にいるような存在のパイオニアと言ってもいい。渡辺美里がいなかったら、その後のプリンセス・プリンセスも、森高千里も、宇多田ヒカルも、椎名林檎も、木村カエラも、西野カナもなかったと断言する。彼女たちの共通点はルックスが良く、自分で歌を作り、新しい世代のアイコンだということ。

これは僕と同世代の宇野維正さんも『1998年の宇多田ヒカル』で同じようなことを書いていたから間違いない。中腰の姿勢で歌う15歳の天才少女は突然現れて瞬時に世間から受け入れられたように思えるけど、それまでの地ならしをしたのは美里なのだ(もちろん美里の前にもユーミンという偉大すぎる先人がいるが、語ると長くなるので稿を改めたい)。

渡辺美里とは何だったのか?

個人的な見解だが、美里は実にテレビに似合わない人だった。夜のヒットスタジオに出演したとき、高校時代にマネージャーを務めていたラグビー部のメンバーがサプライズで現れたときの露骨に嫌そうな顔が忘れられない(のちに司会の古舘伊知郎がラジオで、渡辺美里が怒っていたと暴露していた)。

痛いまでに生真面目な歌詞の数々。ファンは歌詞に美里と自分のイノセンスを重ねた。忘れられないのは93年の「事件」。その年7月1日にシングル「BIG WAVEやってきた」をリリース。サビの「BIG WAVE 光る海に連れだして(略)悲しみは砂に埋めて 急げBIG WAVEやってきた」が印象強い。しかし直後の西武球場ライブで美里はこの曲を歌うことはなかった。7月12日(美里の誕生日!)、北海道南西沖地震により津波や火災が起こり、200名以上の死者が出たからだ。自分がこの悲惨な自然災害を起こしたのではないか?と、美里のことだから背負い込んでしまったのは容易に想像ができる(同じケースとして3.11以降、サザンが最大のヒット曲「TSUNAMI」を封印している)。

常に美里はファンの前では偽らなかった。しかしデビューから10年後あたりからセールスが低下し、毎夏恒例の西武球場ライブ(僕ももちろん行ったことがある)の動員も苦戦するようになった。人気稼業の常とはいえ寂しかっただろう。

これは拙著『アクシデント・レポート』にも書いたが、佐野元春がどうして人気がなくなったか? と言うと、「つまらない大人にはなりたくない」という象徴的なフレーズを挙げて、現代では「大人にならなくてもよい時代になった。だから元春は時代から取り残された」と僕は喝破した。同じように、やはり美里の名フレーズ「死んでるみたいに生きたくない」も、現代では「死んでるみたいに生きて何が悪い?」に変わっていった。こんな時代に渡辺美里がトップランナーでいられるだろうか。渡辺美里がオーディエンスを失ったのではない。オーディエンスが渡辺美里を失ったのだ。

それにしても中高の僕は、「渡辺美里はどうして大江千里と結婚しないんだろう?」と、かなり本気で思っていた。85年「悲しいボーイフレンド」(作詞作曲大江千里)、86年デュエット曲「本降りになったら」(作詞作曲大江千里)、88年「10years」(作詞渡辺美里、作曲大江千里)、91年「夏が来た!」(作詞渡辺美里、作曲大江千里)。

極め付きは89年「すき」(作詞渡辺美里、作曲大江千里)。しかもサビはふたりでハモるんですよ。一連の超名曲群を聴いていれば、そう思っていたのは僕だけではなかったはず。

  まだ着いていないのにきみが見えるよ
  逢えない淋しさのぶんだけ

  ああ 息もできないくらい胸が熱くなる
  あの頃のぼく達は夢中になりすぎて
  幼さと無邪気さの違い気づかずにいた

  ああ 今のきみとぼくは
  友達じゃ終われない
  流れていく歳月を見送りたくはない
  二人にはさよならのキスはにあわないよ

  誰かを傷つけてもはなれられないよ
  やせちゃったねきみ
  きみに伝えたい All my lone

千里なら美里をまかせられる。そう信じていた。そうだね、ティーンの僕もイノセンスだったのだと思う。

『散歩の達人』2018年8月号

〈追記〉そして2019年、渡辺美里のニューアルバム『ID』は「すきのその先へ」がフィナーレを飾る。作詞・作曲は大江千里、編曲は有賀啓雄(「あと1センチ傘が寄ったら」は名曲!)。「すき」の30年後が描かれている。泣いたよ。そりゃ泣きましたよ!

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