Yahoo! JAPAN

ネットで「素人がなに発信してんだ」か書きたい

Books&Apps

ネットで「素人がなに発信してんだ」か書きたい

チョコレートプラネット松尾の炎上

少し前にお笑い芸人チョコレートプラネットの松尾の発言が炎上した。


ネット上の誹謗中傷を批判する文脈で、

「芸能人とかアスリートとか以外、SNSをやるなって」

「素人がなに発信してんだ」

と言ってのけたのだ。しかも、ネットの動画配信で。


これに対してかなり批判が巻き起こった。

「芸能人とかアスリート」以外を「素人」とする価値観。あるいはSNSという場についての理解のなさ。


決して、受け取り手の誤解が多かったとか、切り抜きで情報が独り歩きしたというわけでもない。おこるべくしておきた炎上だったと思う。

もちろん、反応の中には誹謗中傷にあたるような言葉を使う人もいたかもしれない。それはそうだろうが、しかし、多くの人の表明した不快感は、真っ当な不快感の範疇であったように見えた。


結果、チョコレートプラネットは謝罪動画を配信した。謝罪のなかでも「誤解」、「切り取り」と問題の核心に触れていないように見えた。最後は二人が頭を坊主にした。その下りはコントじゃないのか、という意見も聞かれた。そう見えないこともない。

して、おれは「問題の核心」と書いた。なにが核心なのだろうか。自分なりに考えてみたい。一つの失言、炎上ではなく、ネットにおけるプロと素人の境界の話になると思うからだ。


ネットは素人のものだった

この件が話題になったとき、いくつか見られた反応があった。

「インターネット老人の見方かもしれないが、もともとネットは素人のものだろう」。

そういう意見。そうだ、たとえばSNSが、Twitterが普及し始めたときも、やっているのは素人ばかりで、「昼飯なう」とか「スタバなう」とか書かれているばかりであった。広瀬香美が始めただけで話題になった。その当時、なに一つ問題はなかったといえば嘘になるかもしれないが、だいたい牧歌的であった。


……以下にネットの歴史のようなことを書くが、あくまでおれが見てきたネットの一部だ。ネットの歴史ではなく、おれの「ネット歴」といってもいい。それは断っておく。

Twitterが普及する前のネットはどうだったのか。たとえばブログがブームになった。ブロガーからプロの物書きになった人もたくさんいる。しかし、元はといえば素人がなにか書いて、発信していた。ブログが流行ったら、「芸能人やアスリート」も使い始めた。しょこたんとか眞鍋かをりとかは早くから注目を集めていただろうか。詳しい時系列は思い出せない。ただ、大勢の素人がブログを書いていたのは確かだ。


その前となるとなんだろうか。おれはテキストサイト文化というものをよくしらない。ただ、おれはインターネット老人なので、アングラ掲示板があった時代を覚えている。そのなかで、あめぞうリンクが2chになる瞬間も見ていた。どこからともなく、ひろゆきは現れた。おれはべつの勢力であった「あやしいわーるど」の住人でもなく、もっとマイナーなアングラ私書箱の住人だった。そこに「芸能人やアスリート」はいたか? たぶんいなかった。もしいたとしても、匿名なのでほかの素人と区別はつかない。

そのころのネット、アングラのネットがインターネットの理想だとは思わない。その後の2ch全盛期が良い時代だとも言わない。今よりモラルもなにもなく、無法地帯といってよかった。


しかし、そんなネットにもなんらかの希望のようなものがあった。

今までマスメディアが独占していた情報の発信や、新しいコンテンツの作成が、だれとも知らない人間にできるようになった。あるいは、現実社会でどんなに偉い肩書きがあろうが、言葉だけのネットの世界ではただのやつと変わらない。同じ場所に立って、平等にやりとりができる。


それはたいへんに新しいことで、ひょっとしたらすばらしいことではないかと思えた。そういう夢を見ていた、そういう時代があったように思う。少なくとも、おれ一人ではないと信じたい。


ネットに金儲けのプロが入ってきた

そんなインターネットに、いつからか金儲けのプロたちが入ってきた。ネットは金になる、ネット広告は金になる。だんだんと、おかしい感じになってきた。つまらなくなってきた。

もちろん、ネットの黎明期から、大企業も公式サイトを公開していたが、べつにそんなものは面白くもなかった。ただ、サイトとして公開されていて、存在していた。そこにガツガツした金儲けのにおいはなかった。


が、ネットにじわじわ侵食してきたネット広告、アフィリエイトというものはなにか違った。ネットから直接金を儲ける、そんな雰囲気だ。

プロブロガー、などという人種も出てきた。ブログの広告で月に何十万円も、何百万円も稼ぐ。サラリーマンなどばかばかしい、自由になろうとセミナーで人を呼び、さらに稼ぐ。金、金、金、ブログを書くのも金のため、成功者になるため。

そんなものがおもしろいわけがない。プロブロガーなどというものもすっかりいなくなった。


いなくなったかわりに、YouTuberやVtuberがいまはいる。金を稼ごうとガツガツしているのだろうが、コンテンツの面白さで勝負しているので、かつてのプロブロガーの空虚さはないのかもしれない。そのあたりは本当に疎いので想像だが。

このあたりは、素人からプロへ、という流れだろう。


それによくわからないが、かなりの影響力をもつ「インフルエンサー」という存在も出てきた。いろいろな数字が何百万みたいな単位で語られる人たち。そういうのも、素人のなかから出てきたものかもしれないが、自分にはどうにもわからない。ネットにとって、社会にとってよいものかどうかもわかりかねる。

いずれにせよ、今のネット、SNSは金儲けにあふれていて、ほとんどマネタイズに繋がっているようだし、そうでないものは顧みられない、といったら言い過ぎだろうか。


プロと素人

さて、松尾の発言に戻る。松尾は「素人」という言葉を使った。裏を返せば、自分たちは「プロ」だということだ。なんのプロだろうか。彼らは芸人だ、芸のプロだ。そして、たくさんのファンがいる、認められたトップランカーといっていい。自称芸人、地下芸人とは違うといっていい。


そのプロが、大勢の素人がいるネットに降りてきて、どんな土俵にあがってものを言ったのか。これは一つに、ネットが「芸の空間」でもある、ということだろう。

長い言葉、短い言葉、その書き込み。しばしばネット上で「大喜利状態」みたいに言われることがある。なにかのニュースやお題に対して、皆がおもしろいことを書き込む。それはお笑い芸人の領域といってもいい。おれは大喜利のできる人間を心底尊敬している。いずれにせよ、「笑えることを言う」のも、ネットにおける価値の一つであるとはいえる。そういう意味でチョコレートプラネットは素人ではない。


あるいは、YouTubeの動画などではどうだろう。YouTubeに置かれている数え切れないほどの動画は、数え切れないほどのジャンルに分かれている。分かれているが、そのなかに「お笑い動画」に属するものもある。そこから有名になった人間もいるだろう。逆にいえば、お笑いのプロがやってきて動画を配信する。それはもうプロの仕事になる。そういう意味でチョコレートプラネットは素人ではない。


チョコレートプラネットが素人を素人扱いする理由は十分にある。「え、アスリートはなんのプロなので?」という話は残るし、そこに単なる「有名人としてのおごり」が見えるという話はあるが。

とはいえ、「プロの松尾が言うのだからそのとおりだ」と納得した素人はほとんど見かけなかった。それはなぜか。


コミュニケーションとお笑い至上主義

まずひとつ、われわれのコミュニケーションの方向性のすべてが、お笑いに向かっているわけではないということだ。


当たり前のことのようだが、ネットでもそれ以外でも、いや、あるいは対面の会話という形でのコミュニケーションほどお笑い至上主義ははびこっていないだろうか。

会話の中に差し込まれるジョーク、くだらないダジャレ、ボケとツッコミ、さらに高度なテクニック……。会話にそういうものが求められてはいないだろうか。


なにやら、お笑い芸人でもないのに、ウケを狙いたい、そんな気持ち。おれ自身、そういう気持ちがないといえば嘘になる。笑って話し合えるのがいい。

SNSの書き込みでもそうだ。たまに宝石のように輝いている一言を見かけることがある。そういう発想ができる人間は限られている。おれにXでバズった経験はない。それもまた、優秀な大喜利の回答を見るようなお笑いの価値観によるものだろう。


その背景になにがあるのかはわからない。そもそも人間の会話はユーモアを求めているのかもしれない。あるいは、近年のテレビのお笑い、バラエティの影響があったのかもしれない。テレビが影響力を失ったとしても、芸人はネットで動画を流行らせている。そういうところもあるだろう。


とはいえ、それは人間のコミュニケーションの一部にすぎない。

真面目な話を、真剣な討論を、知識のやり取りをするのもコミュニケーションだ。「インドにおける非カルケドン派は正教会を名乗っているけど、ギリシャ正教系ではなく、シリア正教会とフル・コミュニオンなんですよね。しかし、トマス派っていうけど、トマスまじでインド行ってたらすごいっすよね、ゴンドファルネスとか」という話にオチはいらない。あってもいいが、おれには思いつかない。


いや、真面目、真剣でなくてもいいのだ。もっと他愛のない会話でわれわれの生活は成り立っている。ハローやグッバイやサンキューを言いながら生きている。そんなに意味が込められていないことこそがコミュニケーションだ。そこには笑えるかどうかという審査もないし、情報に価値があるかどうかという講評もない。


で、SNS、たとえばTwitterなんてのも、そもそもはそういうものだったんじゃねえのか。先に書いたが、「昼飯なう」、「帰宅なう」、「スタバなう」……。そんなもんだった。有名人が重大発表もしなかったし、何百万バズの暴露もなかった。もちろん、プロのお笑い芸人がおもしろいことを書き込みもしなかった。


まだ「インターネット」は死んでいない

松尾の炎上というか、ネットでの反応を見て、おれが発見したのは「意外にまだ昔のネット感覚がみなの間に残っているのだな」ということだった。

これは発見だった。「素人の場」に後から入ってきて、領有権を主張するがごとき物言いに対する不快感。これである。


それはなんというか、飛躍もあるかもしれないが、おれにとって救いのように思われた。なぜならば、おれは二十年以上ネットで発信してきた「素人」にほかならないからだ。べつにとくだん笑えることは書けないし、専門分野も学識もないのでためになる情報も書けない。だからといって、たくさんある情報をまとめて読みやすくして提供するようなこともしない。「素人がなに発信してんだ?」といわれて、答えに窮するというのが事実だ。


だが、どうもネット、SNSの発言なんてそれでいいんじゃねえかと、ネットの反応を見て、そう思えたのである。おれがネットに書いて垂れ流すつぶやきも文章も価値がない。

でも、その価値のなさこそが、ネットの本質だったんじゃないのか。笑いも求めない、質のある情報も求めない、もちろん誹謗中傷も控える。たんに「飯食った」といって飯の写真をアップする。無価値。でも、誰にでもある無意味な日常を共有できることが、人をつなぐ面もあるだろう。


ここで、「無価値にこそ価値がある」などとわけのわからないことは言わない。ただ、無価値なものを世界に向かって放り投げられるというのはたいへんなことだ。メディアの歴史となると不勉強でわからないが、大昔に書かれて現代まで残っているものは、そうとうに有益で価値のある情報ばかりであった。

それがだんだん、印刷技術やなにかの影響で、もっと情報は増え、広がるようになり、新聞のようなものができて、ラジオ、テレビとどんどん多く、大きくなっていった。ただ、それでも限られたものだけが流通していた。


その流通を一変させたのがインターネットだ。ついに本当の無価値が世界を覆うようになったのだ。これはなにかの革命だと思う。革命の結果が無価値でいいのかといえば、それはわからない。あるいは、そこになんらかの価値を見出すのは後世のことかもしれない。


でも、いいじゃないか。まだ、ネットは革命をやっている。べつにだれを吊るさなくてもいい。騒げるだけ騒げ。いや、騒がなくてもいい。だまって飯の写真をアップしろ。それでいい。価値を求めすぎては疲れる。無駄に居られる場所のほうが人は救われる。ネットはまだ死んでいない。

***


【著者プロフィール】

黄金頭

横浜市中区在住、そして勤務の低賃金DTP労働者。『関内関外日記』というブログをいくらか長く書いている。

趣味は競馬、好きな球団はカープ。名前の由来はすばらしいサラブレッドから。

双極性障害II型。

ブログ:関内関外日記

Twitter:黄金頭

Photo by :Ludovic Toinel


【関連記事】

おすすめの記事