巳之助が児太郎と幽霊を貸し、幸四郎が染五郎を振り回し、勘九郎が七之助の髪を整え、橋之助が江戸で人気のパフォーマーになる~歌舞伎座『八月納涼歌舞伎』第一部・二部観劇レポート
2024年8月4日(日)より25日(日)まで開催される、歌舞伎座『八月納涼歌舞伎』。初日は劇場前に出演者たちが浴衣姿で揃い、公演に向け意気込みを述べた。2階ロビーではサイン入りうちわの展示も(抽選も!)あり、お祭りのような賑わいとともに開幕。
1日三部制のうち、第一部の坂東巳之助と中村児太郎による『ゆうれい貸屋』、松本幸四郎・市川染五郎親子による『鵜の殿様』、そして第二部の中村勘九郎による『梅雨小袖昔八丈(つゆこそでむかしはちじょう) 髪結新三(かみゆいしんざ)』、中村橋之助ら花形俳優が揃う『艶紅曙接拙(いろもみじつぎきのふつつか) 紅翫(べにかん)』をレポートする。
■第一部 (11時開演)
『ゆうれい貸屋』
弥六(坂東巳之助)はひょんなことから、芸者の幽霊・染次(中村児太郎)と暮らしはじめ、ゆうれいをレンタルする商いをはじめる。
弥六は腕の良い桶屋だが、昼からお酒をのむ怠け者。しかし人がよい。喧嘩の仲裁でひと肌脱いだかと思えば、けがれのない眼差しで「仕事はしたくない」と言ってのける。そんな弥六に惚れたのが幽霊の染次。辰巳芸者の張りと意気地と、惚れた男へのしおらしさのギャップに心を掴まれる。作中の幽霊事情を説明する台詞では可笑しみと説得力で客席の笑いをさらう。ここぞという場面では、妖艶な凄みで人間離れした大きさをみせた。
雇われ幽霊に、中村勘九郎の実直な屑屋の又蔵、中村鶴松の浮気性のお千代、市川寿猿、市川喜太郎による長年連れ添ってきたであろう爺と婆。第二幕「炭屋河岸の一部」の場では、幽霊と弥六のやりとりが、気づけば客席で“生きている”我々への問いかけのように浮かび上がる。途切れ目なく場面と季節が移り変わり、弥六の女房お兼(坂東新悟)、魚屋の夫妻(中村福之助、市川青虎)たちが肩肘はることなく、しっかりと地に足をつけて生きる。ゆうれいに生き方を教わる皮肉なおかしみを楽しみつつ、見終わった後は人情噺のような温かさ。「ゆうれい」と名のつく演目からは想像しなかった爽快さを感じた。
なお、情深い大家さん役を勤める坂東彌十郎は、今月の第二部『髪結新三』に、まるで別の大家さん役で登場する。どちらもいるだけで大家さん。それでいて完全に別の大家さん。見比べて楽しんでほしい。
『鵜の殿様』
緞帳が上がると、長袴の大名(市川染五郎)と3人の腰元(市川高麗蔵、澤村宗之助、市川笑也)たち。華やかな空気が広がった。松羽目とは異なるが、大きな屋敷の広い座敷を思わせる舞台美術には大きく松が描かれていた。
ほろ酔いの大名は、夏の暑さに参っている様子。気持ちだけでも涼もうと、太郎冠者を呼びつけて鵜飼の話をさせることにした。太郎冠者(松本幸四郎)は、日ごろから大名に振り回されてうんざりしているらしい。ふたりは鵜の役と鵜匠の役になり踊り始めるが……。
揚幕より登場する太郎冠者の足どりは重い。花道の七三どころか三七の地点で溜息をついて足を止め、それを客席の拍手と笑いが迎えた。鵜と鵜匠になった大名と太郎冠者は、明るく大きくよく動き、大名は長袴を美しく翻し軸をぶらすことなくずっこける。太郎冠者の喜怒哀楽が音楽にのり、大名もそれを受けてリアクションを返す。手綱で繋がっているようなコンビネーションは、ドタバタでありながら、華やかさと調和があり、すり抜けていく腰元の鮎が涼やか。歌舞伎らしい華やかさと狂言物の滑稽味に包まれて、日常と切り離された笑いに心が満たされた。
■第二部 (14時30分開演)
『梅雨小袖昔八丈 髪結新三』
江戸の材木問屋・白子屋の娘お熊(中村鶴松)は手代忠七(中村七之助)と恋仲。しかしお熊は、白子屋の借金返済のため縁談を迫られている。忠七に自分を連れて逃げてくれるよう頼むお熊だが、忠七は婿とりを勧める。これを盗み聞きしていたのが、髪結いの新三(中村勘九郎)だった。お熊を連れて駆け落ちするよう忠七の背中を押し、自らの家にお熊と忠七を匿ってやるとまで申し出るが……。
髪結の新三は正義の味方ではない。葛藤や成長が描かれるわけでもない小悪党だ。あらすじを読むだけだと、なにが魅力で主人公になったのだろうとも思えるが、舞台の中村勘九郎の新三を見れば、「そこに髪結の新三さん本人がいるんだから、しょうがない」という芝居にねじ伏せられるような説得力があった。髪結いの仕事の手さばきや話の調子は良いが、言った言わないの話になると取り付く島もない。嫌な気分にさせられるのに、ふとした瞬間に野生味を煮詰めたような色気があったり、大家に翻弄される姿には愛嬌さえ感じられた。“憎めない”というよりは、憎さと魅力が同居していた。
そんな勘九郎の新三を軸に、頼もしい共演者たちが物語をかためていく。
二枚目の忠七は性格こそ柔和だが決してぼんやりしていたわけではない。新三が悪い。だからこそ身を投げるべく袂に石を入れていく時、その絶望感と悲しみが石一個一個の重さとなってズシン、ズシンと伝わってくるようだった。侠客の弥太五郎源七(松本幸四郎)は、新三から「肩書があるから負けられない」と言われるだけの大きさをみせる。しかし主導権はシフトする。精細に翳りがみえた。大詰の行動に繋がる切実さが濃厚に滲み出ていた。そんな流れからの新三VS大家さん(坂東彌十郎)だ。「鰹は半分もらったよ」のリフレインは、1ターンごとに新三や勝奴(坂東巳之助)のリアクションや戸惑いの変化が混ざり、グルーヴ感のある笑いをおこす。立派な体躯の大家さんが体を屈めて小判を数える姿が、因業なのに可笑しくて愛らしかった。
勘九郎にとって、この先長く“持ち役”の一つになるにちがいない役。そのはじまりとなる今の新三を、ぜひ楽しんでほしい。
『艶紅曙接拙 紅翫』
『艶紅曙接拙』は、「紅翫(べにかん)」の通称で知られる演目だ。今回は日本舞踊の中村流の演出となることから、初演で紅勘をつとめた四世中村芝翫(中村流家元)にちなんで『紅翫』と表記される。
幕が開くと、蝶々売り(中村虎之介)、大工(中村歌之助)、町娘(市川染五郎)。後ろには浅草富士浅間神社。角兵衛(中村勘太郎)、天秤棒を担いだ朝顔売り(中村福之助)、さらに庄屋さん(坂東巳之助)や団扇売(中村児太郎)。思えば数えられる両手で数えきれる人数しか出ていないのに、町の賑わいが舞台に息づいていた。
そこへ紅翫(中村橋之助)がやってくる。芸を披露する支度の間には、花道で虫売りおすず(坂東新悟)が踊る。夕闇が広がり、夏の夜風をまとうような風情だった。
紅翫は、紅屋勘兵衛という実在の小間物屋の主人がモデルになっており、ハンドメイドの三味線や目を覆うマスクなど、小道具を駆使して楽しませる。泣き・笑い・怒り上戸の踊りで楽しませ、素顔を見せれば端正な二枚目。『熊谷陣屋』を引用すれば時代物の雰囲気をみせる。橋之助の紅翫は、芸に真摯な人だったに違いないと想像させる紅屋勘兵衛だった。
1990年に、十八世中村勘三郎や十世坂東三津五郎たちが中心となり、歌舞伎の活性化のためにはじめた、歌舞伎座の夏の恒例『八月納涼歌舞伎』。その名優たちの子ども世代、さらに次の世代が舞台にあがり、第二部は明るい総踊りで結ばれた。
第三部では、京極夏彦が歌舞伎舞台化のために書き下ろした『狐花(きつねばな) 葉不見冥府路行(はもみずにあのよのみちゆき)』を上演中。『八月納涼歌舞伎』は8月25日(日)まで。
取材・文=塚田史香