『風、薫る』ファイターな帰国子女・大山捨松と、妻を支えた大山巌の結婚秘話
NHK朝の連続テレビ小説「風、薫る」の中でも、一際華やかな存在として注目される大山捨松(すてまつ 演:多部未華子)。
実在の人物をモデルに大きくアレンジしたキャラクターが多いドラマ内で、捨松とその夫・大山巌(いわお 演:髙嶋政宏)は、珍しく「実在の人物として実名のまま」で登場しています。
捨松は、豪華な西洋のドレス姿、外国の要人と渡り合える流暢な英語、アメリカ仕込みの板についたダンスなどで「鹿鳴館の華」と呼ばれた女性として有名です。
けれども、真の功績はそれだけではありません。日本に「看護教育」や「女子教育」を取り入れるために尽力した人なのです。
ドラマ内でも、ヒロインたちを「日本初のトレインド・ナース」になるように導きました。さらに、自分の地位や夫・巌の力を利用して就職の際に力を貸すなどの助け立ちもしています。
二人とも海外の社会や文化に触れた影響で、古い価値観にとらわれない自由な発想と行動力の持ち主でした。
今回は、日本に新しい女性の生き方を広めるために尽力した大山捨松と、彼女を支えた大山巌の軌跡をご紹介しましょう。
米国の大学を優秀な成績で卒業、看護婦免許も取得
大山捨松こと本名・山川咲子は、安政7年(1860年)会津藩の国家老・山川尚江重固(なおえしげかた)の娘として誕生しました。
慶応4年 (1868年)、咲子が8歳の時に戊辰戦争が勃発し、会津は新政府軍に攻め込まれ山川家は会津若松城(鶴ヶ城)に籠城します。
このとき、若松城を狙い撃つ砲兵隊長を務めていたのが、将来夫となる大山巌だったのです。
咲子は、11歳になったとき新政府の「アメリカ留学生募集」に応募し合格します。
渡米する咲子に母は「もう二度と会えるとは思えない。捨てたつもりでお前の帰りを待つ」ということで「捨松」と改名させました。
捨松は留学先で猛烈に語学を学び、キリスト教の洗礼を受け、名門女子大学・ヴァッサー大学に進学します。
そして学年3位の優秀な成績で卒業し「マグナ・クム・ラウデ(優等)」の栄誉を受け、アメリカの大学で学士号を取得した初めての日本人女性となりました。
さらにニューヘイブンにあった看護婦養成学校で約2か月間、実地看護を学び、看護婦免許を取得。また、上流階級の女性たちの集まりにも参加し、ボランティア精神も育みました。
米国で学んだ知識が日本で通用しないことに絶望
米国でさまざまな知識を身につけた捨松は、日本で女子教育や看護教育の普及に尽力しようと、希望を抱いて帰国します。
しかし当時の日本には、米国で学んだ彼女の能力を生かせる職場がほとんどありませんでした。
11年間の留学生活で日本語が不自由になり、読み書きも小学生程度だったことが、さらに大きな壁になりました。
米国では、流暢な英語を操るサムライの娘・スティマツとして新聞に取り上げられるほど注目された捨松でしたが、日本では働き口を見つけられず、さらに22歳で未婚だったことから「婚期を逃した女性」とも見られてしまいます。
そんな失意の捨松に新たな希望を与えたのが、幼い頃の会津戦争で鶴ヶ城の内と外に分かれて戦った、薩摩出身の大山巌だったのです。
華やかな美貌の捨松に一目惚れした巌
大山巌は、1842年に薩摩国鹿児島城下で生まれました。
西郷隆盛の従弟で、明治維新後にフランスへ留学し、帰国後は陸軍少将に昇進します。
のちに再びフランスへ渡るなど欧米の文化に親しみ、英語やフランス語も堪能な西洋通として知られていました。
巌が初めて捨松と出会ったのは40歳頃で、捨松は18歳年下の22歳でした。
当時、巌は妻に先立たれ、3人の娘を抱えていましたが、米国仕込みの洗練された物腰や流暢な英語、美しい容姿を備えた捨松を見初め、後添えとして申し分ないと考えて求婚したのです。
ところが、元会津藩士である捨松の長兄・山川浩は、宿敵だった薩摩出身者との結婚に強く反対しました。
それでも巌は諦めずに求婚を重ね、最後は捨松本人に判断が委ねられます。
捨松は「会ってみなければ分からない」と答え、二人はデートすることになりました。
初デートでは、癖の強い薩摩弁で話しかけてくる巌に対し、日本語が不得手な捨松は何を言っているのか理解できず、まったく会話が成立しなかったとか。
そこで捨松が試しにフランス語で話しかけると、たちまち会話が弾み始めたそうです。
その後もデートを重ねるうちに、捨松は巌の人柄に惹かれていきました。
米国にいたときの親友アリス・ベーコンへの手紙に、「私は今、未来に希望が持てるようになりました……ともすれば憂鬱になる気持ちを癒してくれるなによりの薬となりますし、私に勇気を与えてくれます……そんな男性に私は出会ったのです」と送っています。
「女に学問はいらない」という古い考えは持たない巌と、「女性も社会進出をするべき」と考える捨松は、英語やフランス語で会話を重ね、深く理解しあったようです。
看護婦養成学校設立に尽力した捨松
ある時、有志共立東京病院(現・東京慈恵会医科大学附属病院)を訪問した捨松は、看護師の姿がなく雑用係の男たちが病人の世話をしている光景に衝撃を受けます。
早速、院長の高木兼寛に自らが米国で学んだ看護教育について話し、患者には看護婦が必要であり、そのためには看護婦養成学校を設ける必要があると説きます。
海外留学経験のある高木は、看護婦の必要性は知っていたものの、財政難で予算が下りず実行できずにいました。
そこで一肌脱いだのが、行動力に富む捨松でした。
政府高官の妻たちに呼びかけ、明治17年(1884年)6月、日本初ともいわれるチャリティーバザー「鹿鳴館慈善会」を3日間開催したのです。
バザーは大盛況で約1万2000人が訪れ、収益は8000円(現在の価値で1億円以上)に達したとされています。
捨松はその全額を有志共立東京病院へ寄付し、看護婦養成を資金面から支えました。
そして翌明治18年(1885年)、日本初の看護婦教育機関とされる有志共立東京病院看護婦教育所(現・慈恵看護専門学校)が開設されたのでした。
「日本赤十字社篤志看護婦人会」の発起人に
明治20年(1887年)、捨松は日本赤十字社の後援団体「日本赤十字社篤志看護婦人会」の発起人となっています。
巌が日清・日露の両戦争で参謀総長や満州軍総司令官という重責を担う一方、捨松は米国で学んだ看護の知識を生かして日本赤十字社の活動を支え、政府高官夫人たちとともに包帯作りや募金活動に取り組みました。
また、捨松はアメリカの赤十字にも寄付金を送り、現地の新聞などを通じて、日本が置かれた立場や苦しい財政事情を訴えました。
ヴァッサー大学を卒業したサムライの娘・スティマツとして知られていたこともあり、その訴えはアメリカで好意的に受け止められたようです。
やがて現地で義援金が集められ、親友のアリス・ベーコンを通じて捨松のもとへ送られ、さまざまな慈善活動に活用されました。
「日本の女子教育の先駆け」も目指す
ドラマでの大山捨松も語っていましたが、「日本における看護の普及」とともに、「日本の女子教育の先駆け」になるのが捨松の夢でした。
自身が教師として教壇に立つ夢はかないませんでしたが、巌と結婚した翌年の明治17年(1884年)には、華族女学校(後の学習院女子中・高等科)の設立準備委員になっています。
そしてアメリカ留学時の朋友、津田梅子やアリス・ベーコンらを教師として招聘しました。
明治33年(1900年)には、梅子が女子英学塾(後の津田塾大学)を設立し、捨松は全面的に支援しています。
「失われた命」に申し訳ないと思っていた軍人
一方、軍人として出世を重ねた大山は、非常に人間味にあふれる人物でもありました。
ひ孫の大山格氏によれば、巌は戦死者に対する申し訳なさを生涯抱え続けていたといいます。
日清・日露戦争での功績をたたえる祝賀会でも「戦争はつらいなあ」と口にしたり、祝杯の赤ワインを見て血の色を連想し「大きな犠牲を出したのだから祝う気にはなれない」と、乾杯せずに席を中座したこともありました。
自分の命令一つで、敵味方を問わず多くの命が失われることに、常に申し訳なさを感じていたのでしょう。
看護や奉仕を通じて人々の命を救おうとした捨松と巌には、命に対する共通の思いがあったのかもしれません。
深い絆で結ばれたおしどり夫婦
捨松と巌は、当時ではめずらしいほどの仲良しの「おしどり夫婦」でした。
ある時、新聞記者から「閣下はやはり奥様の事を一番お好きでいらっしゃるのでしょうね」と質問を受けた捨松は、
「違いますよ。一番お好きなのは児玉さん(児玉源太郎※)、2番目が私、3番目がビーフステーキ。ステーキには勝てますけど、児玉さんには勝てませんの」と言いつつ、まんざらでもないところを見せたとか。
捨松はユーモアを交えた機知に富んだ会話が上手だったそうです。
晩年に愛した那須野の地に眠る夫妻
大山巌は、西南戦争では政府軍として故郷・鹿児島の士族たちと敵味方に分かれた経緯もあってか、のちに那須野へ新たな拠点を築いていきます。
明治14年(1881年)に、従兄弟と共に「加治屋開墾場」を開き、明治34年(1901年)には両人で分割して「大山農場」を発足。酪農発展にも関わりました。
大山農場には和館と重厚な洋館が建てられ、洋館は農場事務所、和館は別邸として使われました。現在は、両館を合わせて大山記念館と呼ばれています。
堅い絆で結ばれていた巌と捨松は、晩年に二人が愛した那須野の田園に並んで埋葬されました。
墓所の見学はできませんが、墓所の参道には約200mもの紅葉並木があり、新緑や紅葉の時期には人々の憩いの場所となっています。
参考:『鹿鳴館の貴婦人 大山捨松』久野明子著、那須塩原市HP「大山記念館洋館」他
文 / 桃配伝子 校正 / 草の実堂編集部