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「とんでとんで」「まわってまわって」と日本中に広まった「夢想花」を聴きながら、円広志の浮き沈み激しい人生に励まされる

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「とんでとんで」「まわってまわって」と日本中に広まった「夢想花」を聴きながら、円広志の浮き沈み激しい人生に励まされる

 
 晩酌の酔いが回ろうとしていた。テレビではBS放送の歌謡番組。森昌子の「越冬つばめ」を演歌の中堅歌手、羽山みずきがカバーしている。おっ!羽山みずき、きれいだな、と見惚れてしまう。歌唱力も確かだ。「ヒュルリー、ヒュルリララ」と来ると、懐かしさで目が潤む。確かに名曲だ。画面には作詞:石原信一、作曲:篠原義彦とある。年上の男に縋り付くような詞は演歌調だが、若い女性の哀しみを歌う楽曲にしては馴染みやすい。「せんせい」でデビューした森昌子が、この歌でおとなの女になった、といわれている。

 昭和58年リリースされたこの楽曲がヒットしていた頃、勤めていた会社の社長がよく聴いていた。同乗した社長専用車の中で、「おい、ヒュルリーかけてくれ」とドライバーに告げることたびたびだった。カセットテープがセットされるとやがてアコースティックギターが爪弾かれ、~ジャジャジャーン~とオーケストラの前奏が始まる。凍てつく冬の鉛色の海に自在に飛ぶつばめのイメージが浮かぶ。東北出身の社長は、目を瞑ってジッと耳を傾けて何を想っていたのか。冗談にも、「越冬つばめのように南の空へ飛んでいきたいのですか?」などと訊けるはずもなかったが、ワンマン社長のロマンチックな一面を知って、嬉しいような気まずいような、会話はできなかった。

 重なるのは映画『釣りバカ日誌』シリーズのスーさんこと建設会社のオーナー社長、三國連太郎、釣りバカを自認するハマちゃん・西田敏行との掛け合いだ。お抱え運転手の笹野高史や秘書の中村梅雀も加わって専用車の中ではオーナー社長といえども権威も鎧も通じず裸になってしまう。社長専用車ではないが、実際にシリーズ3の『釣りバカ日誌』(1990)では五月みどりとハマちゃんの西田がカラオケで「越冬つばめ」を合唱するシーンや宴会の席で口ずさむなど印象的に使われている。釣りバカと、海と、つばめは情感が似合っている。

 前置きが長くなったついでに、楽屋話をご無礼承知でつづける。作曲家、篠原義彦のことを知らずに編集会議に臨んだ失敗談だ。

 自分:前に「越冬つばめ」は取り上げた? いい歌でね、聴いていると涙がでるよ。メロディがいいよね、でも作曲は誰だっけ?

 本欄「わが昭和歌謡はドーナツ盤」の同じライター・黒澤百々子さん:私書きましたよ!作曲家の篠原義彦とは、とんで、とんで~の円広志。「越冬つばめ」でしっかり記述していますよ!(暗に「読んでくれていないのね」と怒りの口吻)

 自分:あっ!そうだった。それを思い出して「夢想花」を書こうと。(とっさの逃げの言い訳)。あの「とんで、とんで」の円広志と「越冬つばめ」が結びつかなかったからねぇ。

 編集長:了解! という次第。

 で、篠原義彦こと円広志は、小学生2年の時に観た『禁じられた遊び』のギターのメロディがきっかけでギター演奏に熱中し音楽大好き少年になったという。長じてアマチュアのロックバンド「ZOOM」を結成。1975年ヤマハの関西地区のアマチュア音楽祭「大阪8・8ロックデイ」で入賞し、プロの道を目指す。しかし、1978年、それまで大学時代に組んでいたロックバンドを解散。大学卒業後、ソロ活動とは聞こえはいいが辛うじてライブハウス以外お呼びはかからない。すでに高校の同級生と結婚していて勤めに出る嫁の弁当づくりをする日々。悶々と一人、ギターを弾きながら作曲に励むもののヒモのような生活に突如疑問がわき、自棄(ヤケ)になってギターを叩くように弾いた。

 この時「夢想花」が生まれた、という。当時24歳。このままなら食えん、音楽から卒業しようと訣別する辛い叫びが、「とんで、とんで、とんでだった」と告白している。15分で出来上がった曲だが、タイトルのこの世に存在しない「夢想花」と名付けるまでには10日かかった。それでも不思議なことに、「この歌は金になる」(著書より)と確信めいた思いがあった。デモテープをレコード会社に送ると、早速「うちからデビューしないか」と誘いの返事。だが、果たしてこの曲が本当に売れるのか。レコード会社の誘いを蹴って、当時のヤマハの通称ポプコンで勝負をかけることを優先した。このロック系ミュージシャンのプロへの登竜門でグランプリ優勝すればレコードデビューが確約され、世界歌謡祭への出場資格も手にすることができる。

 「一か八かの賭け」に出る。果たして1978年秋、「第16回ヤマハポピュラーソングコンテスト(ポプコン)」から「第9回世界歌謡祭」と立て続けにグランプリ獲得。同年11月21日ポニーキャニオンより「夢想花」でデビューを果たすことになった。記録では80万枚のセールス。

 日本中が、とんで、とんで(9回×11回)、まわって、まわって(4回×11回)と大騒ぎになった。奇をてらった歌詞とはいえ、大ヒットの要因ではある。一度聴いたら忘れられない、「とんで、とんで」のリフレーン。タイトルの「夢想花」は言えなくても、「とんでとんで」「まわってまわって」で通じた。

 しかし、円広志にとってグランプリ獲得とはそのまま歌手として行く当てのないゴール向かって彷徨うことだった。ヒットに気を良くして大阪から上京。「正直なところ、東京へ出て行って忙しかったのは最初の3カ月、『ザ・ベストテン』で上位にランキングされていたときだけテレビに露出するチャンスがあったが、それも過ぎると次第にじり貧の状態」(著書)に陥った。新曲を出せども売れない。「夢想花」の印税で、パチンコ三昧の荒んだ日々。酒の味も覚えた。間もなく印税が底をついた。航空会社勤めのOLだった愛妻が泣いた。ホウホウの体で、大阪に逃げ戻った。

 一念発起、「なんでもやってやろう」と決意した。日曜日の早朝のラジオ、「フンフン」と相槌を打つだけの仕事でも、レギュラーとして張りが出てきた。商店街でミカン箱の上で歌った。そんな折、暇つぶしに演歌でも作曲してみたら、と声をかけられ作ったのが「越冬つばめ」で森昌子が歌唱し、大ヒット。1983年第25回日本レコード大賞・最優秀歌唱賞を受賞。NHK紅白歌合戦にも出場し大泣きしながら歌唱したのが忘れられない。同じころ、島田紳助から、大阪に戻ってきた円広志に同情するどころか挑戦状のような手紙が送られてきた。「一発屋」とコケにされ、怒った円は紳助が出演するラジオ局に乗り込んでマイクの前で喧嘩腰に向かい合った。島田は円のトークスキルを見込んでいたという心温まるエピソードは知られている。円広志は島田紳助にプロデュースされ、やがて、「クイズ!紳助くん」「行列のできる法律相談所」など紳助の番組に取り立ててくれるようになった。歌手としての出番よりバラエティ番組などタレント、コメンテーター、役者としての仕事も舞い込み、関西のみならず東京、名古屋など大都市のコンサートも欠かさない多忙な日々が続いた。

 好事魔多し。1999年、円広志をパニック障害(1992年WHO・世界保健機構が認定した疾病)が襲った。極度の不安感が襲う精神疾患の一つだった。歌手、コメンテーター、司会とマルチタレントとして売れっ子の円は再び奈落の底に落ちる。テレビ番組などすべて降板、療養を余儀なくされた。躁と鬱を繰り返し、不安感から自殺をもかすめる日々。いつ発作に襲われるか分からない病と闘うこと8、9年に及んだ。自著によると、「(パニック障害の)不安をあるがままに受け止め、川の流れのようにサラサラ生きる。難しいが、そうやってストレスを溜め込まないようにいきたい」と記している。そして、「パニック障害は必ず治る!」と、同病の多くの人々を勇気づけている。

 2026年1月、人気の若き演歌歌手、辰巳ゆうと(28)がデビューした日の17日、大阪・堺市の〈フェニーチェ堺〉で記念公演が開催された。新曲「百人力」の作詞・作曲を手掛けた円広志がゲストとして出演。この曲は円がMCを務める関西テレビの情報番組「よ~いドン!」のオリジナル曲だ。人生の辛酸を舐めてきた72歳、どっこい生きている!

参考:『僕はもう、一生分泣いた ~パニック障害からの脱出』(円広志著、日本文芸社、2009年1月刊)

文=村澤次郎 イラスト=山﨑杉夫

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