『ナルニア国物語』『ゲド戦記』『ハリー・ポッター』に見る、移り変わる宗教心【NHKこころの時代『ファンタジーに秘められた宗教』】
「真理」「善悪」「救い」「神」「不条理」「生と死」など、人が生きていくうえで避けて通れない問いを、ファンタジーはどのように描いてきたのでしょうか。
『ナルニア国物語』『ゲド戦記』『ハリー・ポッター』は、いずれも世界的に愛される作品ですが、その背景には時代ごとの宗教観や人間観の変化が色濃く反映されています。
宗教研究者の中村圭志さんは、この3つの作品を手がかりに、現代社会における宗教と人間の関係を読み解きます。今回は、それぞれの作品が描く世界観の違いをたどります。
『ナルニア国物語』『ゲド戦記』『ハリー・ポッター』──移り変わる宗教心
英米発の大型ファンタジー
英語圏には、世界的人気を博す児童向け(あるいはヤングアダルト向け)のファンタジー長編作品がいくつもあります。中でも次の三つの作品は、宗教思想を深く掘り下げたものであり、また、第二次世界大戦後の英米社会における宗教の状況を如実に反映したものでもあります。
一九五〇〜五六年 『ナルニア国物語』全七巻(C・S・ルイス)
一九六八〜二〇〇一年 『ゲド戦記』全六巻(アーシュラ・K・ル= グウィン)
一九九七〜二〇〇七年 『ハリー・ポッター』全七巻(J・K・ローリング)
二〇世紀後半、西洋社会ではキリスト教の権威が弱まり、宗教が無条件には受け入れられなくなっていきました。この三作品は、その過程を理解するのに最適です。
これらの作品が扱っている宗教的テーマは、
『ナルニア国物語』 キリスト教の伝道
『ゲド戦記』 対抗文化(カウンターカルチャー)としての東洋宗教
『ハリー・ポッター』 死生観(特定宗教への言及を控ひかえる)
というふうに要約できます。それぞれ簡単に説明してみましょう。
まず、『ナルニア国物語』です。作者は敬虔なクリスチャンであり、はっきりと伝道の意図をもって執筆しています。それは、一九五〇年代の西洋社会がキリスト教の信仰を当然のものとして受け入れていたことを背景としています。
しかし、六〇年代より刊行の始まった『ゲド戦記』シリーズは、この前提を打ち破るカウンターカルチャー的な内容の作品となっています。カウンターカルチャーについては第3回で簡単に触れましたが、六〇年代の欧米の若い世代の間に沸き起おこった、古い西洋社会の価値観に対抗する一種の文化的反乱です。
これ以降の西洋各国では、悟りや瞑想に焦点を置く仏教と、ヒンドゥー教、道教などの東洋宗教や、従来は抑圧されてきた民俗的な宗教文化に光が当てられるようになりました。『ゲド戦記』の世界像には、アメリカ先住民の文化を思わせるところがあります。また、思想的には東洋思想、とくに老子や易経の影響が見出されます。
九〇年代より刊行が始まった『ハリー・ポッター』シリーズは、自覚的なクリスチャンが書いたものであるにもかかわらず、作品内にキリスト教への直接的な言及はほとんどありません。このことには、カウンターカルチャー以降の社会に浸透した宗教に対する懐疑を、作者自身が受け入れていることが反映されています。
作者はむしろ、人生における「不条理」について思いを馳せるよう、また、誰にとっても最重要の問題である「死」の意味を問うよう、読者たちをいざないます。全体として、『ハリー・ポッター』は、宗教に直接触れない作品でありながら、不条理と死に焦点を当てた、深い意味で宗教的な、スピリチュアルな作品となっています。
ここからは、三作品を順に見ていきます。
五〇年代 『ナルニア国物語』
『ナルニア国物語』は、ナルニアという名のパラレル・ワールド(現実と並行して存在する異世界)の創造から終末までを描く全七巻のシリーズです。
アスランという名のライオンがナルニア世界の「神」として登場するのですが、これが私たちの世界のイエス・キリストに相当することは、一九五〇年代当時の欧米人には自然に読み取れることでした。作者のC・S・ルイス(一八九八〜一九六三)は英国ケンブリッジ大学で中世ルネサンス英文学を教える学者でしたが、伝道者としての立場で『ナルニア国物語』を執筆したことは発表当時から知られていました。
『ナルニア国物語』シリーズ全七巻は、天地創造に始まってキリストの時代、中世、近代、そして終末の時代までの「歴史」をナルニアという世界の中で描き通す構成となっています。ナルニア世界における創造から終末までの時間は二千数百年というところです。
ここで、内容的にとくに重要な最初の巻、『ライオンと魔女』のあらすじを紹介しましょう。
第二次世界大戦中、ロンドンに暮らす子供たち、二男二女の四きょうだいが、田舎に疎開します。彼らは疎開先の屋敷でかくれんぼをしていたとき、古い衣装だんすが異世界につながっていることを発見します。そこはナルニアと呼ばれる、動物たちが言葉を話し、フォーンやケンタウルスのような神話の中の生き物が棲んでいる魔法の国でした。
ナルニア世界は悪い魔女によって長らく雪に閉ざされていたのですが、今や雪解けとなり、魔女と神であるライオンのアスランの戦いが始まります。ナルニアに来たばかりの四きょうだいの次男エドマンドは、兄に対する日頃の不満からきょうだいたちを裏切り、魔女の側に付きます。しかし彼はすぐに間違いに気づきました。彼は兄とアスランによって救出され、事なきを得るのですが、魔女は「裏切りの罪は重い」という正義の原則を楯に、アスランにエドマンドの命を要求します。
アスランはエドマンドの「身代わり」となって、魔女の刃を我が身に引き受けます。しかし、死んだアスランは、正義の掟よりも古くからあるという深淵な魔法の力によって「復活」します。新たな力を得たアスランの陣営は、戦いに勝ち、四きょうだいは対等な王と女王として戴冠しました。
四人はそのまま長い年月を過ごし、大人になります。しかし、あるとき偶然にもとの世界に戻ってきます。姿は子供のままでした。時間はほとんど経っていなかったのです。
読者である子供たちは、なぜアスランがエドマンドの罪を肩代わりしたのか、そしてなぜ殺されたあとに復活したのか、不思議に感じると思います。しかし、大人のクリスチャンであればピンと来るはずです。神の子であるイエス・キリストは、人間の罪を背負って十字架上に刑死し、罪を贖(あがな)い(代理として罪のつぐないをして)、その後に復活したというキリスト教の教理を知っているからです。
このように、『ライオンと魔女』はキリストの贖罪と復活の物語をなぞったものです。子供たちは、親や牧師の解説を聞くことで、キリスト信仰の世界に導かれることになります。
『ナルニア国物語』における宗教性のうち、とくに印象的なのは、人が善から目を背けるときのやましい気持ちの描写です。アスランは言葉でくどくどと説教しません。威厳と慈愛に満ちたアスランの目は、まさに神の目として子供たちを見つめ、子供たちの良心を目覚めさせます。
たとえば二番目に刊行された『カスピアン王子のつのぶえ』には、次のようなシーンがあります。次女のルーシィは、アスランの姿を目撃したと確信したにもかかわらず、きょうだいから勘違いだと言われて、アスランを追いかけるのを諦めてしまいました。
あとでルーシィは、アスランに言い訳をします。まず、自分が臆した理由をきょうだいたちのせいにします。しかしアスランが喉の奥でうなり声を発したような気がして、「悪く言うつもりじゃなかった」と言います。それでも、「わたしのせいではないわ」と付け加えます。アスランの目線を感じたルーシィは、みなから離れて単独行動はできないという趣旨の理由を重ねるのですが……。結局、自分から気づいて「やればできたはずでした」と反省します。
ここに描かれているのは、忍耐強い親や教師の前で、子供が自ら反省していくようすそのものです。大事なことは、これを神アスランの前での振る舞いとして描くことで、現実世界の信者が一人で神と──および自らの良心と──向き合い、心の中で対話していくプロセスの模範となっていることです。敬虔な信者にとって、神というのが、何か願いごとをかなえてくれる存在である以前に、まず、自らに反省を促してくれるものであることがよく分かります。
もう一つ例を挙げましょう。『ライオンと魔女』には、きょうだいを裏切ったエドマンドがアスランと対話するシーンがあるのですが、何を話したかについて、読者を含めた他の者たちが知る必要はない、と語り手が述べています。かくして幼い読者たちは、神と自らとの関係が完全に一対一のものであることを学ぶわけです。
このように信仰心を育む巧みな描写が特徴的な作品ですが、さまざまな批判もありました。その一つは、一九五〇年代の人々の保守的な意識をそのまま書き込んでしまっているという指摘です。たとえば、当時から始まった男女共学式の新教育を諸悪の根源のように言っています。また、きょうだいのうち化粧やデートに気を取られている女の子が、最終巻で神の国への旅立ちという大団円に参加していないことになっています。
問題は、神の前での反省のような、倫理的にすぐれた描写と、当時の風俗に対する作者個人の偏見とが、さりげなく抱き合わせになっていることです。今日の欧米で盛んな宗教批判の中に、「宗教は、抽象化された高邁な議論と女性差別などの具体的偏見をいつもセットにしている」というものがありますが、伝道者C・S・ルイスはまさしくそれを実践しているのです。
もう一例だけ挙げますと、ナルニア国は明らかに中世ヨーロッパ風の風俗で描かれているのに対し、それに隣接する地域は中世アジアを想起させる描き方になっています。そして、その地域の宗教(異教)を間違った教えとして描いているのです。ただし、異教徒の一人が、間違った神を信じているにもかかわらず、個人的には誠実に生きたので、死後にアスラン(キリスト)の天国に行くということになっています。
これは作者にとっては寛容な立場なのですが、そもそもの設定に独善性があります。もちろん、この時代にはこうしたエスノセントリズム(自文化中心主義)は、日本を含むアジア諸国でもごくふつうのことだったので、ルイス一人を責めるわけにはいきません。問題はやはり、偏見をもつことを免れない人間が、普遍的真理としての神を代弁して語ることに内在する根本的な危うさにあると言えるでしょう。
『ナルニア国物語』は、その長所と短所の両面から、後世の作家たちを発奮させました。『ナルニア国物語』に匹敵する構想力を発揮しつつ、キリスト教から離れた形で、ときにはキリスト教を批判する形で宗教的テーマを追う諸作品が、二一世紀に至るまで次々と発表され続けました。新たな傾向を代表する初期の代表的作品が、次に紹介する『ゲド戦記』です。
※本記事は『NHKこころの時代 宗教・人生 ファンタジーに秘められた宗教』ガイドブック掲載内容をもとに構成しています。
※ガイドブックに掲載の脚注、図版、写真、ルビ、凡例などは記事から割愛している場合があります。
著者
中村圭志(なかむら・けいし)
1958年、北海道生まれ。東京大学大学院人文科学研究科博士課程満期退学(宗教学・宗教史学)。宗教研究者、翻訳家、昭和女子大学非常勤講師。著書に『死とは何か 宗教が挑んできた人生最後の謎』『聖書、コーラン、仏典 原典から宗教の本質をさぐる』『教養としての宗教入門 基礎から学べる信仰と文化』(以上、中公新書)、『ビジュアルでわかるはじめての〈宗教〉入門 そもそもどうして、いつからあるの?』(河出書房新社)、『宗教で読み解くファンタジーの秘密 Ⅰ・Ⅱ』(トランスビュー)など多数。
※刊行時の情報です