大島賢治 還暦記念THE 2・3’Sワンマンライブ目前インタビュー:10代でのプロデビュー、忌野清志郎とのバンド活動、ザ・ハイロウズへの参加、プロデューサー&アレンジャーとしての現在を語る
2025年1月11日(土)、東京・下北沢CLUB Queにて、THE 2・3‘S(ザ・ニーサンズ)がワンマンライブを行う。1992年に忌野清志郎が、RCサクセションの次に結成し、アルバム2作をリリースした「忌野清志郎&2・3’S」の、清志郎以外の3人=ギター山川のりを(現ギターパンダ)、ベース中曽根章友、ドラム大島賢治の3人のバンドである。今回は、大島賢治の還暦を記念して開催される。
大島賢治は10代の時に、THE BUDOKANでプロデビュー。ザ・シャムロック(※注1)のサポートや忌野清志郎&2・3’Sを経て、甲本ヒロトと真島昌利のザ・ハイロウズに参加、その後はアレンジャー/プロデューサーとして活躍、シシド・カフカ等を世に送り出す──というそのキャリアを、この還暦記念ライブを機に、5つに分けて振り返っていただき、ひとり語りの形式にしてまとめたのが、このテキストです。
なお、忌野清志郎&2・3’S、以下でご本人も話しているように、いい曲いっぱいあるのに忌野清志郎のトリビュート・ライブで楽曲が演奏されることはほぼない、というのが、この「時々復活」の動機になっている。それ、自分も、完全に同意です。貴重なワンマンライブの機会ですので、観れる方はぜひ。■大島賢治がプロになったバンド=THE BUDOKAN
THE BUDOKANは幼なじみなんです。ベースとは幼稚園から一緒で、ギターは小学校から一緒。小さい頃から仲良かったんだけど、中学に入りロックに目覚めて、3人でバンドを組もうと。
最初はコピーをしてたんだけど、コンテストに出よう、それにはオリジナル曲が必要だ、というので、僕が適当に作ったんですよ。それでテレビとかコンテストとかに出るようになったら、中学2年生だったんで、大人たちがいっぱい食いついてきて、「お小遣いやるから」って、会社に囲われて。そうなってくると親も入るじゃないですか。親同士で考えが違って、「音楽なんてやらせない」っていう親もいたりして、ちょっとギクシャクして。で、会社も、あちこちたらい回しになったりして。結局デビューはしたんだけど、その頃にはもうバンド内が冷え切っていて。アルバムを2枚出したところで解散になりましたね。
■ザ・シャムロックのサポートドラマー兼ジャグラーでディレクターの時代
THE BUDOKANで、テレビに出始めた時に──『HOT TV』っていうフジテレビの番組で、僕ら、七代目のチャンピオンだったんですけど、二代目のチャンピオンにザ・シャムロックがいました。彼らと僕らは家が近かったんですよね。それで、スタジオで仲良くなって。そしたらシャムロックのドラムが抜けて、「大島、叩いてくんない?」って言われて叩くようになったんです。THE BUDOKANのデビューがあったから一回離れたんですけど、その後シャムロックもデビューすることになって。「大島、またやってくんない?」って頼まれて、サポートで入ったんですけど、仕事も1ヶ月1本あるかないかで、1回叩いて3万円とかそんな感じで、おカネが儲からないんですよ。「あれ?俺はロックスターの様にビッグ・ビジネスをやるはずだったのに(笑)、それだけしかもらえないのか?」と思って。それで社長に「僕ドラムの才能ないと思うんで、やめたいです」と言ったんです。
そしたら「何言ってんの。あんたのドラムはすごくいいんだから、やりなさい」と。「でも、先行き暗いんです」「あんた何をやりたいの?」って訊かれたから、やりたいことをいっぱい言ったんですよ。美容師とかコロッケ売りとか、いろんなことを言った中に、プロデューサーとかディレクターとかの、音楽の裏方の仕事もあったんですね。そしたら社長が「わかった。じゃあそれ、うちでやんなさい。給料はちゃんと出す。その代わり、ドラムはやめるな」と言われて、「じゃあやります」と。それでジャグラー所属のアーティストのレコーディングに行くことになって。シャムロックも行ったし、ブルーハーツも行ったし。でもブルーハーツのメンバーは、僕がドラマーだって知ってるから、スタジオで会うと「何してんの?」っていう(笑)。
■忌野清志郎&2・3'Sへの参加
シャムロックの事務所、ブルーハーツと同じだったじゃないですか。ブルーハーツのファンクラブの担当の遠藤(※注2)って女の子がいて。同じ事務所だから、新人の頃のシャムロックのライブを観て、あのサポートのドラムがすごくいい、って言ってくれていたらしいんですよ。僕は面識なかったんですけど。で、時間が経ったら、その子がRC(サクセション)のファンクラブに移ったんです。RCが活動休止をするってことで、(忌野)清志郎さんが、新しいバンドを若い子とやりたいってスタッフに言ってたそうなんですね。そこで彼女が「私の大好きなドラマーがいるんです」って、シャムロックのCDをボス(清志郎)に聴かせたら、「遠藤がそう言うんだったら、一回セッションしよう」と。
それで遠藤さんから電話がかかって来て、「私、こういう者です。大島さんって他にサポートとかやらないんですか?」「いやあ、そんな技量でもないし、バンドしかやってこなかったからなあ……ちなみにどなた?」って訊いたら、「忌野清志郎なんです」って言うから「ええっ!? それはちょっと会ってみたいな」と思って。
後日マネージャーの佐藤さんから連絡が来て、「この日に渋谷のマックスタジオに来てください」って、プロユースのスタジオを指定されて。「おお、マックか、さすがだなあ」と思って行って、受付でスタジオを訊いてドアを開けたら、いちばんちっちゃいスタジオだったんですよ(笑)。そこに清志郎さんがアコギを持って立っていて、横でローディーのアッキー──後の2・3‘Sのベース(中曽根章友)が、ギターを拭きながら「おはようございます!」って。
何が始まるんだろうと思ったら「じゃあ僕歌うから、適当にドラム叩いて」と。それで清志郎さんがアコギをジャカジャカ弾きながら歌いだして、それに合わせてドラムを叩いて。5曲ぐらいやったのかな。そしたら「じゃあ、もういいね」「はい、ありがとうございました」って……オーディションだから、次から次へといろんな人が来るんだろうなと思っていたら、「大島くんて今から予定あんの?」「特にないです」「じゃあ、おでん食いに行かない?」って。それで清志郎さんのポルシェで、清志郎さんちの近所のおでん屋に行って、ふたりで食ってたら、あとからアッキーが来て。他愛もない話をしたんだけど、そのあと「家にも来い」って言われて、ロッ研(※注3)で朝まで飲んで。
それで、ちょっとしたある日、「テレビに出ないか?」と。「『パパの歌』が売れちゃって、テレビ出なきゃいけないんだけど、俺、ひとりで出るのヤなんだよね」「ふたりで出るんですか?」「いや、ふたりもあれだから、今アッキーにベースを練習させてんだ」「ええっ!?」「大丈夫大丈夫、テレビはベースきこえないから」と(笑)。
それで3人でテレビに出たんですけど、後日マネージャーさんから電話がかかってきて、「ここから年内、こんな感じで仕事を入れたいから、空けてもらえますか?」と。そこからあれよあれよという間に、イベントとかに出るようになったんですよね。で、だんだんイベントが大きくなってきて、3人だとボスが大変だからギタリストを入れよう、っていうので、いろんな人に声をかけたら、のりをちゃん(山川のりを)が坂田喜策さん(※注4)から推薦されて。
リクオくんも来て、ピアノを弾いたりして、イベントに出たり、いろいろしていくうちに……リハが終わったらみんなでボスの家に行って、今日録った音源を聴きながら、飲んでいろんなことを話すのが恒例だったんですけどね。そのうちにボスが「俺たちさ、バンドとしてデビューしよう」と言い出して。「俺、レコード会社に言うから。で、やっぱ俺たち、イギリスがいいと思うんだよ。だからイギリスに行こう!」みたいなことになって。
それでボスが、レコード会社を説得したんですよね。で、なんだかんだで2枚、ロンドンでレコーディングさせてもらって。でも、2枚目を作ったぐらいで、バンドの中が、だんだんギクシャクしてきたんですけど。
■ザ・ハイロウズで10年間活動
っていう頃に、たまたま、マーシー(真島昌利)が……ソロ・アルバムを作って、「俺は政治家だ」って曲でテレビに出る時に、頼まれて一緒に出たりして。マーシーもああいう性格だから、俺以外のギターとベースは、ローディーだった(笑)。
そういうノリが、マーシーと清志郎さん、一緒でしたね。マーシー、清志郎さんとも仲良くしていて……清志郎さんに誘われた事があったって、あとで本人にききました。でもたぶん、その時はもう(甲本)ヒロトくんと新しいバンドをやろうって考えてたから、入らなかったんだろうな、と思うんですけど。
それで、ブルーハーツの最後のアルバムの『PAN』(1995年)って、4人がソロで作った曲を持ち寄ったものだったじゃないですか。マーシーに「俺のソロの曲、叩いてよ」って言われて。梶くん(梶原徹也)の「ドラマーズ・セッション」って曲にも、頼まれて参加しました。
それで、ブルーハーツが解散したあと、ザ・ハイロウズに誘われたんですけど。「でも俺、パンクとかできないよ」って言ったら「いや、ロックンロール・バンドをやりたいんだよ」ということで、ハイロウズが始まった。
そこから10年間、ハイロウズをやったわけですけど。もう、すごい体験だったな、と思います。だってもう、四六時中ライブだし。今みたいに土日だけなんてことはなくて、年の2/3はツアー、あとの1/3はレコーディングとちょっとお休み、そんなのが10年続きました。とても濃い10年間でした。ヒロトくんもマーシーも、いつ曲を作ってたんだって思うくらい。たぶんツアー中に作ってたんでしょうね。素晴らしい経験をさせてもらって、ふたりには感謝してます。
■プロデューサー&アレンジャー時代=現在
ハイロウズが終わって、ポツンとひとりになって、どうしようかな、じゃあこれからは、プロデュースとか、そういう事をやった方がいいかなと思って。もちろんバンドもやりたいけど、なかなかメンバーも見つからないし。
で、インディーズのバンドのプロデュースを頼まれたりして、いろいろやって勉強しつつ、という時に、シシド・カフカを見つけたんです。僕とあとふたり、3人で会社を作って、この子はここの所属なんだよ、ということで、売り出して行こうと。それでレコード会社とかに売り込んで、デビューまでこぎつけたんですけど。
そんなことをしている時に、レコーディング・スタジオで、当時のシャムロックのディレクターと、偶然会ったんですよ。「大島、今何やってんだよ」「実は今、曲を書いたり、プロデュースみたいなこともやっているんですよ」って、シシド・カフカのCDを渡したんですね。そしたら後日、連絡があって。
その人はシャムロックをやりながら、チェッカーズのディレクターでもあったんです。で、今も藤井フミヤくんのサウンド・プロデューサーで。「CD聴いたけど、まともにちゃんとやってんだな」とか言われて(笑)。フミヤくんがレコード会社をやめて、自社でCDを作り始める時だったんですね。「おまえプレゼンでフミヤに曲を書いてみない?」って。それで曲を書いて渡したら、半年ぐらい連絡がない。まあよくある話というか、いろんな作家から曲が山ほどくるだろうから……って思ってたら、突然連絡があって。
「あの曲まだ生きてる?」「え、もちろんですよ、他には渡してないです」「実はあの曲、フミヤが気に入ってさ。スタジオに来てくんない?」って話が急展開して。曲のカラオケを持って行ったら、フミヤくんがいて、「ごめんね、長々と待たせちゃって。今から仮歌、歌ってみるわ」と。で、仮歌を聴きながら、「あ、そこのメロディはこうですね」とかちょっとディレクションして、終わったから帰ろうと思ったら「ちょっと待ってて」って言われて。
フミヤくんとその人が、PCの前で、次にプリプロをやる曲の打ち合わせをしてるんですよ。そしたらフミヤくんが曲をかけて、「これさあ、大島くんだったらどういうアレンジにしたい?」「え? いや、僕だったらこんな感じですかねえ」って、思いついたことを言ったら、「それ、いつまでにできる?」「ええっ!? えーと、じゃあ、3日ください」と。
それで3日後に持って行ったら、次の曲の打ち合わせが始まって、「これも3日後ね」って。結局そのアルバムは、ほぼ僕がアレンジャーとして入ることになったんです(※注5)。
その流れで、ツアーも、マネージャーさんに「大島さんがバンマスで、大島さんが好きなミュージシャンでやってくれ、って藤井が言ってます」と言われて。そこから始まって、なんだかんだでもう9年ぐらいやってます。
フミヤくん以外も、最近はアレンジャーとか曲提供の仕事が中心ですね。最近だと、純烈のアレンジをやりました。詞がフミヤくんで曲がナオちゃん(藤井尚之)で、アレンジは僕 (※注6)。
ドラムも、フミヤくんのツアーでは叩くし、ほかにも……いや、最近、ドラマーでは、仕事してないか(笑)。友達のバンドに遊びで入って叩くとか、そういうのはあるけど。
■THE 2・3’S、2025年1月11日(土)下北沢CLUB Queでワンマンライブ
2・3’S、最後はギクシャクしてバンドが終わっちゃったんで、メンバーにも会いづらくて。だけど、高知のイベントに出た時に……僕は三宅伸治さんのバンドで出ていて、のりをちゃんがギターパンダで出ていたんですよ。そのイベントのスタッフに2・3’Sのファンがいて、僕ものりをちゃんもいるから、そのふたりをドッキングさせたいというので、打ち上げでライブ・バーみたいな店に連れて行かれたんですよ。ステージがあって、みんなで飲みながらセッションが始まって。その人が「ほらほら、立って!」と、のりをちゃんと俺をステージに上げて。音を出してみたら、けっこう阿吽の呼吸だったんですね。2・3’Sの最初、楽しかった頃の感じを思い出して。
清志郎さんが亡くなって、いろんなところで清志郎さんのトリビュート・イベントをやっているのに、2・3’Sの曲ってほとんど取り上げられない。ということに、モヤモヤしている2・3’Sのファンが、まわりにけっこういて。「誰もやらないから、ご本人たちがやってください」と、いろいろなところから言われるようになったんですね。のりをちゃんとの感触もよかったので、アッキーにも相談して、じゃあ、やってみようかと。
で、そういうファンの人たちが動いて、ライブの企画をやってくれるんですよ。「のりをさんもアッキーさんもOKでした。小屋も押さえます!」と。それで一回やったら、お客さんがいっぱい来てくれて、盛り上がったんですね。「こんなに待ってる人がいたんだ。やってよかった」って、僕らも嬉しくなったんですよ。
そしたら、それをききつけた別の地方の人たちから「うちの方でもやってください」って呼ばれるようになって、今でもそれが続いていて。だから、僕ら3人が自主的にやったライブは、一度もないんですよね(笑)。
今回の東京も、最初は、「ファーストアルバムのリリース記念日に、下北沢でやりませんか?」と誘っていただいて。それが2年前で、その次は去年、セカンド・アルバムのリリース記念日。二回とも大盛況で盛り上がったんだけど、アルバム2枚しかないから、もう終わりかな、と思ったら「大島さん、還暦じゃないですか!」と言われて、60歳の誕生日の直後にやることに(笑)。まあ、せっかくだし、東京でのこれ以降のライブは決まっていないので(名古屋は2月22日(土)に金山ブラジルコーヒーでライブあり)、ぜひ観に来てほしいですね。
<注釈>
1)ザ・シャムロック:現在THE COLLECTORS、オレンジズ、ジューシィ・フルーツ等で活躍中の山森Jeff正之と高橋一路のバンド。1979年に結成、1988年にデビュー、1993年に解散。
2)遠藤:忌野清志郎&2・3’Sのファーストアルバム『GOGO 2-3’S』収録の、大島賢治がリードボーカルの曲「素敵なエンドーさん」のモデルになった方。
3)ロッ研:忌野清志郎のプライベートスタジオ。ロックンロール研究所、略してロッ研という名前が付いていた。
4)坂田喜策さん:RCサクセションが「りぼん」所属時代の現場マネージャーで、RCと共に独立して「うむ」を設立。1991年、RCの活動休止のタイミングで離れるが、その後、山川のりをのバンド、ディープ&バイツのマネージメントをしていた縁で、彼を清志郎に推薦した。坂田氏はその後銀杏BOYZ等を手掛けるが、2011年に逝去。
5)結局そのアルバムは、ほぼ僕がアレンジャーとして入ることになったんです:藤井フミヤの2016年のアルバム『大人ロック』。大島は全12曲中の10曲を編曲、3曲を作曲している。
6)純烈のアレンジをやりました:2025年1月8日リリースの新曲「奇跡の恋の物語」。
取材・文=兵庫慎司 撮影=佐藤哲郎