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いま読んでおきたい。8月6日のあの夏、80年後のヒロシマを訪ねる旅。原爆の残響に耳を澄ませて——

さんたつ

gen14

原爆投下・終戦から80年のこの夏。復興を遂げた広島の街で、「あの日」の記憶を訪ね歩く。見えなくなったものに目を凝らし、聴こえなくなった声に耳を澄ませながら……。原爆を伝える方たち——切明千枝子さん、畑口實さん、HIPPYさん。いま読んでおきたい貴重な話を『旅の手帖』2025年7月号からお届けします。

多聞院

切明千枝子さん

きりあけ ちえこ/昭和4年(1929)、広島市生まれ。80代半ばから本格的な証言活動を始め、現在は広島平和記念資料館などを運営する広島平和文化センターが委嘱した「被爆体験証言者」としても、自らの戦争体験を語る活動を続けている。

女学生だった15歳の夏

原爆ドームのすぐ近く、小さな医院の前に佇む爆心地の碑。

昭和20年(1945)8月6日、午前8時15分、この上空600mで一発の核兵器が炸裂し、広島市中心部は壊滅した。その爆心地から南東方向へ2.7㎞離れた場所に、大きな赤レンガの建物が4棟すっくと立つ。

旧広島陸軍被服支廠(ひふくししょう)。広島市内に残る、原爆を生き抜いた建物「被爆建物」86件のうち圧倒的に最大の建物群だ。ひん曲がった鉄扉が、原爆の威力を静かに物語る。

比治山の陸軍墓地から南を望むと、逆L字型に連なる旧広島陸軍被服支廠の赤レンガ4棟が見える。

「広島はかつて軍都だったの」。近くで生まれ育った切明千枝子さん(95)が語り出す。

兵士の軍服などを製造・貯蔵する被服支廠に母が勤務していたため、構内にあった保育園と幼稚園に通った。うさぎ小屋で飼われていたうさぎたちが外套(がいとう)の襟に使うために育てられていると聞き、心を痛める少女だった。

大勢の人が働く構内では、創立記念日には仮装大会も開かれるほどだったが、国民学校(小学校)6年の時に太平洋戦争が勃発すると活気は失われていった。

女学校時代は動員学徒として被服支廠で働いた。最初の頃は縫った軍服にボタン付けをしたりアイロンをかけたりしていたが、戦争が激しくなると新しい軍服を作る布切れもなくなった。

銃弾が貫通して穴が開き血糊がべっとり付いた軍服をたわしで洗いながら「こんな状態で日本は勝てるのだろうか」と感じ、口にしたら引率の先生にこっぴどく叱られた。

「そんなこと言うと言霊(ことだま)が生きて負けてしまう」。自由にモノも言えない時代だった。

構内にあった幼稚園の集合写真。切明さんは最後列左から6人目。
広島県立第二高等女学校時代。
昭和10年(1935)頃、構内であった仮装大会。後方に赤レンガ倉庫が見える(写真提供〈3点とも〉=切明千枝子)。

「ご遺骨の上を踏んで歩いているかもしれない」

あの日は別の軍需工場で働いていたが、通院のため職場を離れていた。比治山橋の袂(たもと)でピカッと光り、気づけばガラスが頭や首に刺さっていた。

何が起きたかわからないまま学校に戻ると、やがて市内中心部に動員されていた下級生たちが全身やけどで水ぶくれの体で帰ってきた。

医者はおろか薬すらなく、家庭科室に残っていた古い天ぷら油を傷口に塗り込んであげた。やけどでズルズルになった体にハエが止まり、蛆虫(うじむし)がわいた。

箸で一匹ずつ取り除いていると、下級生はふっと安らかな顔になって息絶えた。「死んじゃった下級生はびくとも動かないのに蛆虫はぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃ動いてる。酷い光景でしたよ」

遺体は運動場で焼き、桜色のきれいな遺骨を、おいおい泣きながら拾った。

「いまはすっかり様子が変わって、どこに骨を埋めたかもわからないけど、街じゅうが人焼き場になった。広島に来たら、ご遺骨の上を踏んで歩いているかもしれないって頭に入れておいていただきたいの」

2025年4月初旬、被服支廠の近隣住民の前で講演をした。

崩壊を免れ、直後に救護所になった被服支廠は原爆の記憶だけでなく、戦争に突き進んだ歴史をも刻む。2019年には解体計画が上がったが、市民の反対で撤回、保存が決まった。

「二度とあの時代を繰り返してはいけない。いまも世界で戦争が起きているけど、ぼんやりしてたらまた巻き込まれる。だから、みんなで力を合わせて平和をつかみ、逃がさないように守っていかないといけない」

旧広島陸軍被服支廠。工事中だが、曲がった鉄扉などは見ることができる。
旧広島陸軍被服支廠 1号棟3階の内部。鉄筋コンクリート(RC)造で外観とは雰囲気が異なる(写真提供=広島県)。

旧広島陸軍被服支廠
住所:広島県広島市南区出汐2-4-60/アクセス:山陽新幹線広島駅からバス16分の出汐二丁目下車、徒歩3分

畑口 實さん

はたぐち みのる/昭和21年(1946)、廿日市市生まれ。1945年8月、妊娠中の母の胎内で被爆。大学卒業後に広島市役所に就職。1997年から9年間、広島平和記念資料館の10代目の館長を務めた。平和記念公園を案内するヒロシマピースボランティアとしても活動中。

お母さんのお腹の中で

被爆資料約2万2000件を所蔵する広島平和記念資料館。一角に、焼け焦げたバックルと懐中時計、遺言状が展示されている。鉄道職員・畑口二郎さん(当時31)のものだ。7カ月後に生まれる息子の顔を見ることなく、未来を絶たれた。

「あれは私の父です」。畑口實さん(79)が、若き二郎さんの写真を指さし、展示に見入っていた観光客の女性に片言の英語で語りかけると、彼女の表情が変わった。

胸に手を当て目に涙を浮かべた女性に別れを告げたあと、畑口さんがつぶやいた。「何かを感じ取ってもらえたなら……」

原爆犠牲者の遺族であり、母親の胎内で原爆に遭った「胎内被爆者」でもある。

1945年8月10日、勤務先から帰らない二郎さんを心配して広島駅に向かった母・チエノさんは、焼け野原で夫のバックル、懐中時計とともに、その付近にあった骨を持ち帰った。このとき、チエノさんが身ごもっていたのが畑口さんだ。

父・二郎さん。写真提供=畑口 實。
畑口さんが資料館に寄贈した二郎さんの遺品。戦況が悪化した1943年秋、万が一に備えて家族に宛てて書いた遺言状も(所蔵=広島平和記念資料館)。

弁当を囲んだ幸せな家族の風景を見せつけられる運動会は、教室に居場所を求めた。なぜ、自分には父親がいないのか。なぜ、戦争が終わってから生まれた自分が被爆者なのか。行き場のない悔しさと寂しさを抱え続けた。

被爆者健康手帳は机の引き出しにしまい、友だちにも上司にも、被爆者であることを隠してきた。

50歳、父の五十回忌で写真や資料を処分して区切りをつけた。だが、その翌年に人生の転機が訪れる。資料館の館長になることになったのだ。

国内外の要人を案内する大役を担う。2003年、キューバのフィデル・カストロ議長が訪れた時、ポケットの中から父の遺品を取り出して見せた。カストロ氏は畑口さんを抱き締め、「お母さんはいま何をしているのか」などと尋ねてきた。

原爆の威力ではなく、人間がどうなったのか。それを知りたいのだと思った。

「あなたが伝えなさい」自分の使命で運命

畑口さんにとって特別な場所が、引き取り手のない遺骨約7万柱が納められた原爆供養塔。戦争はまだ終わっていない、と訴える場所でもある。

父の遺骨もここにあるのでは、と思い、ここでの慰霊行事を主催する広島戦災供養会の会長を務めてきた。

遺品や父の写真、原爆供養塔に背中を押されてきた。「あなたが伝えなさい」と。

戦争を知らない世代に伝えていくのが自分の使命で、運命なのだといまは思える。

被爆80年。「父が亡くなってからと、私が生きた年月。『あれから何年』というたび、私と父は重なっていると感じます」。

胎内被爆者は「最も若い被爆者」だ。目撃者としての記憶がある世代のような力強い証言は難しいが、若い人たちに問いかけることはできる。一緒に想像してみよう、と。

遺骨約7万柱を納める原爆供養塔は、平和記念公園の片隅にある。遺族が判明したときには、広島戦災供養会会長として畑口さんが遺骨を引き渡す。

広島平和記念資料館
住所:広島県広島市中区中島町1-2/営業時間:7:30~19:00(時期により変動あり)※7:30~8:30と17:30~18:30(時期により変動あり)に常設展示室へ入場するには、オンラインでの予約が必要/定休日:展示入れ替え期間(2月中旬の3日間)/アクセス:山陽新幹線広島駅から広島電鉄16分の袋町下車、徒歩10分

毎朝鐘を撞ける、それこそが平和

「ここに立つと、いつもの朝がくることの尊さを感じる」と副住職の亀尾泰弘さん(42)。

原爆投下時刻の8時15分、真言宗の寺院・多聞院(たもんいん)からは毎日、深くてやわらかい鐘の音がボーン、ボーンと一帯に鳴り響く。一角にある木造の鐘楼もまた、あの日の証人だ。

戦争中は武器製造のための金属供出で鐘がなかった鐘楼。天井には爆風の傷跡が生々しく残るが、倒壊・焼失を免れた。爆心地から最も近くに残る木造建築という(約1.75㎞)。

瓦が落下した本堂には原爆投下当日の夕刻、倒壊・全焼した県庁に代わって県防空本部が置かれた。

被爆の4年後、鐘楼に掲げられた鐘は、爆心地近くの砂も入れて鋳造されており、縁には「NO MORE HIROSHIMAS」の文字を刻んでいる。

戦時下と原爆、そして戦後。その歴史を全部背負って、今日も鐘が響き渡る。

鐘楼は2024年、広島原爆遺跡として国史跡に指定された。

多聞院
住所:広島県広島市南区比治山町7-10/営業時間:境内自由/アクセス:山陽新幹線広島駅から広島電鉄8分の比治山下下車、徒歩1分

シンガーソングライター HIPPY

ヒッピー/1980年、広島市生まれ。2015年、日本クラウンからメジャーデビュー。2017年のアルバム『HomeBase ~ありがとう~』に収録した『君に捧げる応援歌』は、TikTokでの再生回数が1億回を超えた。
http://hippy-web.com/

「立ち上がったまち広島。ここでこそ歌えること」

——HIPPYさんの語りでお届けします。

10年前と比べて、原爆が遠のいたと感じます。街の景色もですが、体験者から話を聞ける機会が減りました。

毎月開く、語り部の話を聞く会でこの春、90歳の被爆者の女性に会いました。当時11歳。地元の三良坂(現・三次〈みよし〉市)から親族のいる広島市内に行くのに、家族が用意したかわいい服を着て行ったのにそこで原爆の被害に遭った。それ以来、広島市には一度も行っていないそうです。

その話を、80年経って初めて人前でしゃべったというのです。

原爆慰霊碑に刻まれた「過(あやま)ちは繰返しませぬから」の「過ち」が何のことか、未来の人たちがわからなくなってしまう、って。年を重ね、戦争を体験された方も焦りを抱いているんだって感じました。

語り部の会を2006年に始めた、同世代の冨恵(とみえ)洋次郎さん(2017年に37歳で死去)に会うまでは、広島で生まれ育った僕も、ここで起きたことをよく知らなかった。

被爆者の話を聞き、自分の通学路だった川土手が原爆スラムだったとか、街の風景のなかで起きた出来事を知り、「あの日」から続く「いま」なんだって思えるようになりました。

被爆証言を聞く会を、毎月6日前後に仲間たちとともに開いてきた。

僕、広島で行ってみたい場所があるんです。それは、いまは平和記念公園になっているところにかつてあった繁華街。カフェやビリヤード場、映画館があって、川沿いには旅館が立ち並んでいた。あんな素敵な街並みを歩いてみたい。

もちろん原爆で全部なくなってしまったから、もう叶わないんですけどね。僕らでいうとパルコとか、そういう場所が奪われるってことですよね。

いまは祈りの場になっているけど、かつては人々の暮らしがあった街だった。それを伝えたい。遠くから広島に来る人たちと一緒に「僕もここに行ってみたい」って。

曲を作るうえで広島という街がくれるインスピレーションはめちゃめちゃあります。

僕が全国で歌わせていただくきっかけになった曲『君に捧げる応援歌』もまさに、この街が書かせてくれた。

僕にとって、この広島の景色がエール。戦争から遠のく景色になるほど、復興してきた街なんだって誇りに思えるから。

2025年はメジャーデビュー10周年の記念の年でもある(写真提供=HIPPY)。

街に残る被爆建物たち

黙して語り続ける、原爆の証人「原爆ドーム」(広島県産業奨励館)

大正4年(1915)に広島県物産陳列館として建てられた。チェコの建築家、ヤン・レツルの設計。解体危機にあったが、大規模な署名運動を経て1966年に広島市議会が永久保存を決議した。1996年、世界文化遺産に登録。被爆建物86件のうち爆心地に最も近い(約160m)。

銀行からパン店へ、100年の歴史「広島アンデルセン」(帝国銀行広島支店)

大正14年(1925)に三井銀行広島支店として竣工。爆心地から東へ約360m、天井や壁など大部分が崩壊したが、地下の金庫は無事だった。1967年にタカキベーカリーが建物を買い取り、広島アンデルセンとしてオープン。2020年に大規模なリニューアル工事を終えた。

アニメ映画にも描かれたモダン建築「福屋八丁堀本店」(福屋百貨店)

鉄筋コンクリート造の地下2階、地上8階建て。当時はまだ珍しかった冷暖房設備を備えた近代的な建物で、内部は焼失したものの外郭は残ったため、臨時救護所となった。アニメ映画『この世界の片隅に』(2016)の中で、原爆に遭う前の往時の姿が描かれている。

休まず仕事を続けた気象観測所「広島市江波山(えばやま)気象館」(広島地方気象台)

昭和9年(1934)築。爆心地から南へ約3.6㎞の距離にありながらも、爆風を受けた傷跡を残しており、原爆の威力を物語る。職員の多くも負傷したが、一日も休まずに気象観測を続けた。当時の様子は、柳田邦男の小説『空白の天気図』にも克明に記録されている。

爆風で曲がった窓枠(写真)や壁に刺さったガラス片などが残る。
改修して走り続ける広島電鉄の被爆電車。651号と652号がラッシュ時に不定期運行する。

取材・文=宮崎園子 撮影=内田和宏

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